第260話 「気になりますか?」
降臨祭もつつがなく閉式し、アモンは再びエデン大橋の上を歩いていた。ひとつ違うのは、となりにいるのがアキサタナではなく、トロアスタだという点である。
「では、小官の連れてきた蜂は北東の牧場地帯へ?」
「うむ。あそこなら生き物の扱いに長けた者も多いし、何より自然が豊かだ。問題があるとすれば、あの特別な花の栽培だろうね。手探りでやるほかない」
「なるほど。ならば今度、小官も様子を見に行ってみましょう。何かお手伝いできることもあるかもしれません」
「そうして貰えると、拙僧としてもありがたい」
正式な天使となったアモンの仕事は、エデンの為に尽力すること。
魔王国にいた頃とは、正反対の活躍が求められている。
「そういえば小官は天使となったワケですが、具体的には何をすればよろしいので? 他の天使たちは、それぞれ兵隊を持っているようですけども」
「ほっほっほ。精力的なのは結構なことですが、アモン殿はエデンにやってきたばかり。まずは見聞を広めることから始めるのがよろしい。だがどうしてもと言うのなら、拙僧が都合をつけましょうか?」
「お願いします。色々と慣れようかとも思いますが、それとは別にこの国に貢献したいので」
アモンの殊勝な態度に、トロアスタは感心したようにうんうんと何度も頷いた。
そしてしばらく、考えるような仕草を見せる。
と、そのとき――――――
「あ! 大参謀殿!」
橋の上のふたりに、ひとりの女が駆け寄ってくる。
美しい黒髪を揺らしながら現れたのは、両の手に紙束を抱えたレトリアだった。レトリアはアモンにぎこちのない会釈をしたあとで、トロアスタの方へ向き直した。
「あの、先の作戦の報告書です」
「これはこれは、わざわざ申し訳ない」
トロアスタが、レトリアの手から報告書を受け取る。
その間も、レトリアはどこか警戒した様子でアモンをちらちらと見ていた。
そんな彼女の様子を見兼ねて、アモンの方から声をかける。
「どうもレトリア殿。お噂は予々」
「あ、いえその……! こ、こんにちは! えっと……アモン殿」
「アモンで結構ですよ。こちらは後輩ですので」
「て、天使に上も下もないわ。私のこともレトリアと呼んでもらって大丈夫よ」
やはりどこかぎこちない様子で、それでもレトリアは笑顔を浮かべる。
アモンの異様な姿を前にすれば、仕方のないことかもしれなかった。
「レトリア殿、用件は報告書だけかね?」
「えっと、いえ……その」
瞳を泳がせながら、レトリアは言った。
「監獄にいた捕虜の遺体は……どうなりましたか? その、お墓があるのなら、せめてお参りだけでもと……」
言い終わったあと、レトリアは暗い表情で目を伏せる。
アモンはそんな彼女の姿を、ただじっと見つめていた。
「あの捕虜は貴重な検体。居場所その他もろもろ、完全な秘匿事項となっております。レトリア殿の知人であることは存じておりますが、エデン発展の為ゆえ……了承ください。余計な世話かもしれませんが、早い段階で忘れることをお勧めします」
「そ、そうですか……。わがままを言って、申し訳ございません」
見るからに落ち込むレトリア。
悲壮感の漂うその姿に、トロアスタといえどバツの悪そうな顔で髭を撫でた。
「おおそうだ!」
そして救いを求めるようにアモンを見たとき、トロアスタは顔をパアと明るくして手を打った。
「レトリア殿は確か、午後から調練の予定でございましたな。然らば、アモン殿もご一緒させてはもらえませんか?」
「え?」
「アモン殿もゆくゆくは己が隊を持つことになる身、いまから慣れておくのがよろしいかと思いましてな。拙僧のするつまらぬ作業なんかよりも、ずっと為になるでしょう。アモン殿も、それでよろしいか?」
「ええ。小官も興味があります。もちろん、レトリアが良ければの話ですが」
レトリアは一瞬だけ複雑な表情を浮かべたが、すぐに首を縦に振った。
「わかったわ。今日は軽めの訓練にする予定だけれど、それでも良ければ」
「よろしくお願いします」
成り行きでレトリアの調練を見学することになったアモン。
少し足取りの重くなった彼女のあとを、何とも言えない面持ちで付いていくのだった。
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レトリアに先導されやってきたのは、北区の兵舎裏にある調練場。
魔王軍のそれとは違い、設備は比べ物にならないほど潤沢だった。広大な土地に魔物を模した人形がいくつも置かれ、魔法を練習する為の装置もあり、さらには病舎まで建てられていた。
すでに整列している大勢の兵士らの前に、レトリアがひとり歩み出る。
「先の作戦での疲労もあるでしょうし、本日は予定を変えて自主訓練にしたいと思います。簡単な模擬戦闘をするでもよし、魔法の訓練をするでもよし。医療班は、いつものように怪我人の治療にあたってください」
レトリアはそう口にしたあとで、ちらりとアモンの方を見る。
「それと、今日は新しい天使となったアモン殿が視察に訪れていますが、気にせずいつも通りしてください。それでは、よろしくお願いします」
「はッ!!」
兵士らが敬礼をし、それぞれが慣れた様子で散っていく。
レトリアは緊張を吐息で溶かしながら、アモンのとなりへ戻ってきた。
「……威厳のかけらも、あったものじゃないでしょ?」
「はい。ですが兵士たちから寄せられた信頼は、舐めずとも伝わってまいりました。愛されておりますねぇ」
「なめ……? ええっと、ありがとう」
褒められ慣れていないレトリアが、小さく頬を染める。
そしてふたりは自主訓練する兵士らを眺めながら、互いのことについて話し始めた。
「貴女はなぜ天使になったのですか?」
「なぜ……と言われても、その才能があったからとしか。器測定で私の生門は特別に大きいことが判明したの。それから母に引き取られて、天使になるための訓練をして……。いつのまにか、これだけ多くの兵士を預かることになった」
「うつわそくてい?」
「あなたも器測定を受けて天使になったのではないの? 一年に一度、エデン市民は必ず測定を受けるはずなのだけれど……」
レトリアが首を傾げて驚きを露わにする。
エデンにやってきたばかりのアモンが、そんな測定を受けているはずもない。
「なぜ器が大きくないとダメなのですか? やはり戦闘面において優れているから?」
「そういう面も大きいけど、何より“神籬”の力は大量の魔素を使うの。普通の器では、神籬の負荷には耐えられないのよ」
「神籬…………ああ、天使の使う不思議な能力のことですね」
「ええ。アキサタナの『神の心臓』に、母・アルバの『神の空気』……。神の一部分を冠する、天使だけに赦された特殊な力。あなたも神籬を持っているのではないの?」
当然、アモンがそんな能力を持っているはずもない。
レトリアはさらに不思議そうに眉をひそめ、アモンを見た。
「アモン、そもそもあなたはエデン国民なの? 申し訳ないけれど、その……あなたの格好はかなり目立つ方でしょう? だけど私は、この国であなたを見かけたことがない。仮面を被っていることと、何か関係があるのかしら?」
至極当然の疑問が投げかけられる。
アモンはレトリアの宝石のような琥珀色の瞳を見つめ、静かな声で訊ねた。
「気になりますか? 小官の素性が」
何かを感じ取ったレトリアが、不安そうに息を呑む。
しかし最後には、確かに、はっきりと頷いた。
「気にならないと言ったら嘘になるわ。でも、何か理由があるのなら別に構わない。こんな時世だもの、色々な事情があって当たり前よ。だから――――――」
優しく、諭すように話していたレトリア。
その眼の前で、アモンの右腕が弧を描くように動いた。
「気になりますか? この仮面の下が」
一秒にも、永遠にも感じられる時間。
アモンはゆっくりと、偽りの仮面へ指をかけた。




