第258話 「胎動」
神都、アート・モーロ。
その中心に位置する、湖上の城――――ガーデン・フォール。
エデン王の居城として名高い難攻不落の城には、王だけでなく多くの使用人たちも定住している。
そして使用人の中には親に捨てられた、或いは親を亡くした孤児なども含まれていた。
「…………よいしょ、よいしょ」
孤児は十二歳までの年少組と、それより上の年長組に分けられ、仕事も年齢によって違うものが割り当てられた。
「えっと……お洗濯のあとは、はきそうじ」
城の長い石畳の廊下を、メイド服を着た少女が地道に掃いていく。
今年で十一になるその少女の名前は【キナコ】。彼女もまた、孤児の中のひとりだった。
「いたいた! アンタまだこんなところで掃除していたの!!」
「ほんとう、どんくさい子ね!」
「あ、ショコラ……ベリー……ど、どうしたの?」
いきなり罵声を浴びせてきたのは、使用人仲間のショコラとベリー。
同じ年少組のこのふたりは、仕事の遅いキナコへの当たりが特に強かった。
「大司教様からのでんごんよ!」
「ひがし塔の天使様の配膳係、アンタがやるようにって!」
「え……わだし? いやえっと……どうしてわたしが?」
「しらないわよ! ちゃんとつたえたからね!」
ショコラとベリーはそれだけを伝えると、不機嫌そうに去っていった。
キナコはその背中を見送ったあとで、しばし放心する。天使の世話をするというのは、エデンではとても名誉なこと。ゆえに、経験の浅い者がその任につくことは、まずあり得ないことだった。
「ど、どうしよ! どうしよう!」
城に住み込んでから、こんな大役を任されたことはない。
キナコはあたふたと、意味のない往復を繰り返すのだった。
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何度も深呼吸をしたというのに、心臓は一向に鎮まってくれない。
やがて冷静になることを諦めたキナコは、緊張で汗ばんだ手で、ぎこちなく扉をノックした。
東塔のこの部屋に新しい天使が住むことになった……という噂は、使用人たちの間で持ち切りの話題だった。しかし情報はそこまでで、どんな人物が天使になったのかを、キナコは知らなかった。
「て、天使様……おせわをたんとうする使用人のキナコです! しし、しつれいします!」
ノックをしても返事がなかったので、キナコは意を決して扉のノブに手をかける。少し力を入れてドアノブを捻ると、扉は簡単に開いた。
「……? 天使様……?」
部屋は薄暗く、人の気配を感じられない。
まだ就寝中なのだろうか? キナコはおそるおそるといった様子で、配膳用のワゴンと共に室内へと進入した。
広い室内の奥には、四人が横になれるほどの豪華なベッドがあった。
太陽が顔を出してからしばらく経つが、まだ就寝中の人間も少なくない。キナコはワゴンを部屋の中央で止めて、ベッドの方へと近づいた。
「あれ? いない…………」
人が寝ていた形跡はあるものの、ベッドの上はもぬけの殻。
きょろきょろと室内へ目を走らせるが、誰の姿も見つけられなかった。
部屋にいないのでは仕方ない。
キナコは少しほっとした様子で振り返り、配膳ワゴンの方へ踵を返す。
そのときだった――――――
「………………何用ですかな? お嬢さん」
「へ? ひゃああああああああああああああああっ!!!!!!」
いきなり声をかけられたキナコは、天井を見上げて悲鳴をあげた。
それはまるで蝙蝠のよう。高い天井から逆さにぶら下がっていたのは、気味の悪い仮面をつけた黒衣の男だった。
「わ、わわわわ」
尻もちをつき、声にならない声を出すキナコ。
そんな彼女の前に、魔人アモンは颯爽と降り立った。
「そこまで驚かれると、ちょっと良心が痛みますねぇ」
「ああ、あのあの……もすかすて…………天使様……ですか?」
「昨日からこの部屋の主になった、第七天使のアモンです。そのメイド服、貴女は使用人ですか?」
腰を抜かしているキナコへ、アモンが手を差し伸べる。
「も、申すわけございません!! わだ……いえわたしは使用人のキナコです! これから、天使様のお食事をたんとうします」
「そこまで恐縮しなくて結構。なるほど、これは何とも可愛らしい食事。ではいただきます」
アモンはキナコの手をとると、その手を口元へと持っていく。
そして紳士が敬愛する女性にするように、手の甲に軽く口付けをした。
「ひゃあっ!! あああ、あのあの……キナコはご飯じゃなくて……! 朝食はワ、ワゴンの上に!!」
驚きと恥ずかしさから、キナコは顔を真っ赤にして後退る。
しかしアモンはワゴンの上の朝食には目もくれず、吟味するようにじっと少女を眺めていた。
「ふーむ、不安・混乱と焦燥。そして、恐怖の感情が少々……。悪意が無いようで安心しました」
アモンはそういうと、何事もなかったように配膳ワゴンへと歩き出す。
そしてワゴンの上の料理を眺めたあとで、再びキナコの方を向いた。
「天使の食事というのは、いつも部屋で? 食堂のようなものは無いのですか?」
「え、あ…………ア、アキサタナ様やトロアスタ様がいらっしゃるときは、おへやの方で。使用人たちは、一階の食堂で……ごはんを」
「なるほど、食堂は一階ですか」
「えとえと、あの……またあとで食器をかたしにきますので! し、失礼しますた!!」
素早く辞儀をして、キナコは逃げるように去っていった。
小さな足音が遠くなっていくのを聞きながら、アモンは肩をすくめる。
「あそこまで怯えられると、若干ショックですねぇ。やはりこの仮面がいけないのかな?」
アモンは姿見の前に立ち、まじまじと仮面を眺める。
悪魔的で、獣的で、ほのかに梟を連想させる意匠。彼が特別に気に入ってる仮面だった。
「うん。あのくらいの子供は、人見知りが激しいもの。小官に問題はない……はず。さあ気を取り直して、エデンの食事に舌鼓といきましょう」
ワゴンの上には食器がいくつも並べられており、そのどれにもカバーがかけられている。逸る気持ちを隠すことなく、アモンは情緒なくカバーを取り払っていく。その量の多さに、アモンは感嘆の息を漏らした。
「ヒャクの果肉入りサラダに、豆と肉のスープ。三種類のパンと……この赤い実はデザートかな? 見ただけで鮮度が良いのが分かりますね。至れり尽くせり」
食事用のテーブルまで食器を移動させ、一皿ずつ吟味していく。
そのどれも味が素晴らしく、地球の食事に劣るとはいえ、食材のひとつひとつが魔王国を遥かに凌駕していた。
「これがエデンの料理ですか。牢獄での食事も悪くはなかったですが、まさかこれほどまでとは……。魔王国とは食への拘りが違う。繊細な人間の為せる業、というべきか」
稲豊もあれやこれやと工夫して料理を作ってきたが、食材本来の味はどうすることもできなかった。ヒャクで誤魔化しながら、ようやく魔素を維持させるに至ったのだ。だがエデンの食材は、それ自体が十分な魔素を含んでいた。
七つの皿をあっという間に平らげたアモンは、食器をワゴンに戻してから人心地つく。しかしすぐに暇を持て余し、気紛れに部屋の窓から飛び出した。
「絶景かな絶景かな」
晴れ渡った空に、新品のシーツのような雲群。
街を一望できる高さから矢のような速度で落下中にも関わらず、アモンは深呼吸して肺を朝の新鮮な空気でいっぱいにした。
地面が瞬く間に迫ってきている。
絶景への名残惜しさを少し感じながら、アモンは足裏から激しく地面に激突した。しかし魔法で強化された体は、骨折はもちろん、膝が痛みさえしなかった。
「さぁて、どこへ行きましょうかね。…………ん?」
好奇心からうきうきと心を弾ませていたアモンだったが、ふと視界の端に映ったのは異様な光景。その光景に気を取られたアモンは、首を九十度に傾け口を開くのだった。
「こんなところで、な~にをやっておられるのですか?」




