第257話 「エデンへようこそ」
魔王軍野営地――――――
夕日で紅く染まった天幕の中では、ソフィアがひとり机に向かっていた。
机上に広げられているのは地図や戦略書、そして大量の報告書たちだ。
「…………ふぅ」
目の疲れから机に背を向けるが、手にはまだ報告書が握られている。
すでに何度も見たものだが、それでも目を通さずにはいられなかった。
この作戦におけるすべての責任は、立案者である自分にあるのだから。
「失礼します」
神妙な声が聞こえ、天幕の入り口が開かれる。
軍靴の音と共にやってきたのは、軍師見習いのライトだった。
「どうした? 何用だ」
ソフィアが訊ねると、ライトはきょとんとした表情を浮かべた。
「え、いやあの……今時分に来るようにと、ソフィア様から」
「ああ……そういえば、そんなこと言ったような気がする」
疲労の色を隠せないソフィアの様子に、ライトは少しだけ肩をすくめた。そして「後にしましょうか?」と声をかける。
「いや、構わない。妹たちの様子はどうだ、落ち着いたか?」
「…………いえ。まだ現実を受け入れられないようで、クリステラ様が先ほど……少し取り乱しを」
「そうか……。追っ手の方はどうだ?」
「大丈夫です。さすがのワルキューレ隊も、天使を人質に取られては手を出せなかったようですね」
天使とはもちろん、レトリアのこと。
落とし穴にはまったワルキューレ隊は、『虚仮にされた』と烈火の如く魔王軍を追ってきた。その足止めにソフィアが利用したのが、レトリアとアルバ城の男兵たちだった。
ソフィアは人質たちの無事と引き換えに、ワルキューレ隊に進軍の停止を迫ったのだ。アルバの娘の命を盾にされては彼女らにも為す術なく、かくして魔王軍は撤退に成功した。
「しかし本当に良かったのですか? 天使と兵士らは解放せず、捕虜として手元に置いておいた方が良かったような気もしますが」
ライトが不服そうに訊ねると、ソフィアは即座に頭を振って否定した。
「ひとつ、現在の魔王軍には大量の捕虜を抱えるほどの余裕はない。ふたつ、そもそも捕虜を運ぶだけの足もない。みっつ、ミアキスがそれを許さない」
「うっ……確かに……。ミアキス様はあの天使とご友人でしたね」
ばつの悪そうな顔で俯くライト。
だが数秒後には面を上げ、ソフィアの方を向いた。
「――――――今回の作戦、エデンの動きはあまりに統率がとられていました。我々が虚を突くはずだったのに、気が付けば奴らに出し抜かれていたんです。いったい、なぜこんなことになってしまったんでしょうか? 私には……何がなんだか……」
ライトは唇を噛み締め、悔しさを滲ませる。
どれだけ考えても答えが見つからない。悔しさの中には、そんな自分への不甲斐なさも含まれていた。
「……覚えているか? ワルキューレ隊との睨み合いを続けていた最中、アルバの姿がいつからか見えなくなったこと」
「は、はい……。アルバは常に最前線に立つと聞いていたので、少し違和感を抱いた覚えがあります」
「あのとき、すでに奴らの計画は進行していた。正確に言えば、イナホがアモンとしてエデンの天使になったときから、アイツの計画は始まったんだ」
これ以上ないくらい眉間に皺を寄せ、ソフィアは苦々しげに吐き捨てる。
「大天使トロアスタ……ですね」
魔王軍に辛酸を嘗めさせる、エデンの大参謀。
常に自分の先をいくトロアスタは、ソフィアにとって最も尊敬し、かつ憎むべき敵だった。
「イナホを洗脳したあと、奴はアルバをアート・モーロへ呼び寄せた。そして復元した魔法陣から、トロアスタとレトリアを除く天使がモンペルガへ移動。その後、アキサタナとティフレール、アルバが王都。ファシールとアモンは屋敷へと向かった」
「魔王城でなく、貴族街を集中的に襲ったのは……やはり狙いが貴族にあったと考えるべきでしょうか?」
「城にいた幹部は大臣のシフだけ。ふたつを天秤にかけ、より被害の大きい貴族らを狙ったんだろう。おかげで経済や民への混乱は必至。治まるまでどれくらい掛かるのか、想像もつかない」
これからのことを考えるだけで、頭痛とため息が止まらない。
ソフィアの表情に、見てとれるほどの影が落ちた。
「では……屋敷を襲ったのは、どういうこと何でしょう? 魔女の遺産が奪われたとシフ殿からの手紙には書かれておりましたが、やはりどうも腑に落ちないというか何というか……。なぜ奴らは途中にある魔神石を無視し、ミツバチの方を狙ったのか……」
「それだけ食糧事情が困窮しているということかもしれないが、オレなら魔神石の方を狙う。そうすれば結界をなくした魔王軍は、今度こそエデンの侵攻を防ぐことができないからな。それに、まだ分からないこともある。なぜアルバは――――――」
ソフィアがそこまで口にしたとき、ふとライトが天幕の入り口の方を見た。そしてつかつかと入り口へ歩み寄ると、外の歩哨といくつか言葉を交わす。
そしてライトがソフィアの方を振り返ったときには、その手にひとつの書簡が握られていた。
「シフ殿から、急報です」
恐る恐る書簡を手にするソフィア。
広げることに若干の躊躇いを覚えたが、目を通さない訳にもいかない。やがてすべてを諦めたような緩慢な手付きで、ソフィアは書簡を広げた。
無言で内容に目を走らせるソフィアの姿を、ライトは息を呑んで見守る。そしてすべての文字に目を通したとき、ソフィアは奥歯をぎりりと鳴らした。
「そうか、そういうことか!! 最初からそれが…………くそっ!!!!」
怒りをあらわにし、感情のまま机の上の物を右手で払い落とすソフィア。それでも彼女の怒りは収まらず、書簡を握った拳を強く机上に叩きつけた。
「ど、どうしたんですか!? シフ殿は手紙になんと?」
初めて見るソフィアの姿に動揺しながらも、ライトは手紙の内容が気になって仕方がなかった。
「ハァ……ハァ……!」
ソフィアは息を荒くして、天幕の壁を睨みつける。
そしてまたも奥歯をぎりぎりと噛みながら、静かに……だがはっきりとライトに告げた。
「魔王城地下に幽閉していた………………捕虜が死んだ」
「地下の捕虜……それってまさか!?」
「ああ! 非人街の長老の息子、パイロだ! パイロはエデンの間者だった。情報が漏れるのを防ぐために、アルバが口を封じたんだろう。アルバは最初から、それが目的で魔王城に潜入していたんだ!!」
吐き捨てるように言ったあとで、ソフィアは全身の力が抜けたように椅子へと腰を下ろす。そして打って変わった消え入りそうな声で言った。
「イナホの…………友人だった」
パイロを捕らえはしたが、処刑するつもりなどなかった。
罪を認め考えを改めたなら、いつかは釈放できる日も来ていたかもしれない。
「くくく…………ハハハ…………」
乾いた笑いが込み上げてくる。
母から軍師というものを叩き込まれた。
モンペルガにある本だけでなく、他の町からも軍略書を集めて読んだ。数え切れないほどイメージし、寝る間も惜しんで作戦を練り直した。
それでも、エデンは常にソフィアの先をいった。
「もう…………オレの中に次の策はない。魔王が敵となった事実は、いずれ兵士らの耳にも入るに違いない。そして、やがては一般の民たちにも伝わるだろう。貴族らを失い、心の拠り所とした魔王さえ失った士気の低下は著しい。もはや次の作戦を実行することなど…………不可能だ」
机に突っ伏し、嗚咽を漏らすソフィア。
ずっと耐え続けてきたが、もう限界だった。軍師としてあるまじき行為であると知りつつも、溢れる涙は止まってはくれない。
「…………失礼します」
かける言葉も見つからず、ライトは静かに天幕を出た。
そっとすることが、いまできる精一杯の配慮だと思ったのだ。
赤だった空はすでに漆黒に染まっており、夜空にはいくつかの星が瞬いていた。ライトはそのひとつを見つめ、ぽつりと呟く。
「見えますか? 貴方がいないせいで……皆が悲しみに暮れてますよ。いったい、どこで何をやっているんですか?」
この広い空の下で、稲豊はいまどうしているのだろう?
ライトはふと、そう思った。
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同時刻――――――
アート・モーロの中心地、ガーデン・フォール城。
「ほ~~~~~! これが小官の部屋!! 六階とはまた、い~い眺めだ~!」
猪車が何台も入りそうなほどの、広々とした絢爛な部屋の中。
アモンは窓に張り付き、そこからの眺めを堪能していた。
「ホッホッホ。気に入っていただけたようで、何より」
自慢の髭を撫でながら、アモンの背後の男は笑った。
「小官にはもったいないほどの部屋ですねぇ。いやはや、素晴らしい」
「とんでもない。天使ならば、人の上に立つことは当たり前。これでも足りないくらいですとも」
「そうだ! 小官は天使になったんでした!!」
「正確には“仮”でございますがね。明日に【降臨の儀】を行い、正式に天使と認められる運びとなります」
男は部屋の椅子にゆっくりと腰を下ろし、まじまじとアモンを見つめる。
そしてしばらく観察してから、口を開いた。
「…………ふむ。最初は不安定だったが、いまは随分と安定してきている。これまで幾度となく失敗を繰り返してきましたが、貴方が初めての成功例になりそうだ」
「脳を弄くられて、いまは逆にスッキリしているほどですよ。ですが、洗脳の魔法はしばらくは遠慮させていただきます!! 頭の中がミキサーでグッチャグチャな気分なので」
「無論。貴方がこちら側にいる限り、我々はそんな非道な行いはいたしませんとも」
「ふぅむ、実に怪しい疑わしい。本音ですか?」
アモンは男の顔を覗き込み、真偽をはかる。
しかし老獪な男からは、その本心を探れそうもなかった。
「よく分からないので、話題を変えましょうそうしましょう。小官は急遽、天使(仮)となったワケですが……小官の正体について知る者はいかほどに?」
「ご安心を。拙僧を除き、貴方が魔物側だったことを知る者は、王とファシール殿しかおりません。レトリア殿にも、志門稲豊は死んだと伝えております」
「死んで天使に生まれ変わる。なんとも不思議な気分ですねぇ」
アモンは再び窓の外に目をやりながら、後頭部をぽりぽりと掻いた。
「魔物たちにどんな話を吹聴されたのかは存じませんが、すべて根も葉もない戯言。我々は貴方が考えているほど、非道な組織ではない。証拠にほら、その窓から見える橋のところを御覧ください」
「橋?」
男に言われ、アモンはガーデン・フォールと市街地を結ぶ巨大な橋へと目をやる。するとそこには何人かの男たちがいて、ちょうど橋の修復作業を終え帰る場面だった。
「彼らはエデンに弓を引いた囚人たちです。本来ならば反逆者として死罪もあり得る者たちでしたが、我々は彼らに慈悲をかけた。監視付きではありますが、更生するならば温かく迎えるつもりでございます」
「それはそれは、慈悲深い。…………んん?」
そんなとき、アモンは囚人たちの中に見覚えがある姿を見つけた。
遠目なので分かり難かったが、それは間違いなくアモンの……いや、稲豊の知る人物だった。
「“アダン”さん? では牢獄で食べたあのシチューは…………」
エデンに潜伏していた稲豊の、父親役だったアダン。
死んだと思っていた男が、いま普通にそこに存在している。仕事を終えた囚人仲間らと一緒に、談笑しながら帰っている。
『我々は貴方が考えているほど、非道な組織ではない』
ついさっきの男の言葉が、アモンの脳に蘇った。
「エデンへようこそ」
男…………もとい、トロアスタが右手を差し出す。
アモンは逡巡したのち――――――その手を固く握るのだった。
長くなった六章も、この話で終了となります。
過去で一番の重い展開が続くなか、ここまで読んでいただき誠にありがとうございました!
次章はある程度の期間を設けたのち、また投稿を再開させていただきます。
これからも精進し執筆を続けさせていただきますので、お付き合いいただければ嬉しいです。
それではまた、次章でお会いしましょう!




