第255話 「決別」
「…………父……じゃと?」
眉間に皺を寄せたルートミリアが、静かな声でアドバーンに訊ねる。
嘘であって欲しい。そんな思いで咄嗟に訊いてしまったのだが、アドバーンは背を向けたまま質問に答えようとはしなかった。
しかしその反応こそ、質問が正しいことを物語っている。
「これは青天が霹靂の豆鉄砲! まさかエデンの天使と魔王の片腕が親子だったとは!? んん~? ということは、必然的にアドバーン様は…………人間であるということになってしまいますが? それに老人のアドバーン様よりも、貴方の方が年上? んん~?」
アモンの質問にも、アドバーンは反応を示さない。
このままでは埒が明かない、とファシールが助け舟を出したのは、少ししてからのことだった。
「簡単な話さ。例外もいるが、基本的に天使は年を取らない。そして彼は元々エデンの天使……いや、天使だった人間だ。魔王サタンに何らかの術を施され、不老の力は失ってしまったようだけどね。さらに補足すると、リリトの亡命を手引きしたのも彼さ。エデンでは裏切り者の堕天使として語り継がれているよ」
「よくもまあ、ひとの触れられたくない過去をべらべらと。その軽口も、エデンを離れた理由のひとつですよ」
屈託のない笑顔を浮かべ、ごめんごめんと謝るファシール。
緊張感のないその様子が、逆に場の空気を張り詰めさせた。状況は何ひとつ好転していない。アドバーンの背中に、いままで感じたことがないほどの冷たい汗が流れる。
「昔話も悪くはないけど、まずは仕事が優先だ」
ファシールが意味ありげな目配せをアモンに送る。
するとアモンはすべてを察したように、軽やかなステップで壁の穴まで移動した。
「ではでは、小官にはまだやらねばならぬお仕事がありますので、ここらへんでバイバイさせていただきましょうかね」
手を振りながら身を翻すアモン。
その背中に、敵が去ろうとしている喜びなど感じるはずもなく、ルートミリアは引き止めるように右腕を伸ばした。
「待てシモン!! お前はアモンなどではない! 思い出すのだ、妾たちと過ごした日々を……。月明かりの下で交わした、妾との約束を!!」
心からの、魂からの訴えが、立ち去ろうとするアモンの足をピタリと止める。
「帰ってこいシモン!! お前は妾の大切な――――相棒なのだ!!!!」
アモンがこの手をとってくれたなら、前のような日々に戻れる。
苦労も多いが愛おしい、そんな幸せな時間を取り戻せる。
「…………ルートミリア様」
そんなルートミリアの切実な願いは――――――
「次にお会いするときは、貴女の命を貰い受けます」
鋭利な言葉によって切り捨てられる。
アモンの背中が見えなくなったあとも、ルートミリアは腕をしばらく下ろすことができなかった。
「彼は人間なんだろう? いままで離れていた剣が、エデンという鞘に収まっただけの話さ。少し記憶の混濁が見られるけど、心配はしなくてもいい。彼の面倒は、我々が責任を持って見るつもりだからね」
アモンと入れ替わりで、ファシールが客間に降り立つ。
そしてファシールは自然な動作で剣を抜くと、アドバーンの前で足を止めた。
「久しぶりに稽古でもしようか? どれだけ腕を上げたのか、お父さんに見せてごらんよ」
余裕の笑みを浮かべるファシールとは対照的に、アドバーンの表情は険しさを増していく。
「お嬢様」
アドバーンは数歩だけ後退り、ルートミリアに小声で話しかけた。
「時間は稼ぎますが……そう長くは耐えられないでしょう。一刻も早く、結界の発動を!」
迫真の声が、失意のルートミリアの体を起こす。
それは勇気などではなく、もう仲間を失いたくない……という恐怖からの行動だった。
「すまぬ……すまぬアドバーン!! 絶対に死ぬなよ!!」
ナナを抱え、悲痛の表情で部屋を去っていくルートミリア。
その後姿を一瞥することもなく、アドバーンはただ正面のファシールだけを見つめていた。
「魔王の姫に随分と慕われているようだね。『死ぬなよ』か、遂行できそうかい?」
「難しい……でございますね。ですが私の身に何が起ころうと、貴方だけは通しません。そう、例え死んでも……絶対に」
「良い覚悟だね。さあて、どうしようかな?」
ファシールは聖剣トワイライトをくるくると弄びながら、小さく逡巡するのだった。
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ナナを抱えたルートミリアが客間を飛び出す、少し前――――――
屋敷東の廊下に木霊する、ひとつの絶叫があった。
「どうして!!?? なんで……なんでッ……!!!!」
廊下の中央で、そう号泣するのはマリアンヌだ。
赤を愛する彼女のドレスは、いつも彼女を象徴するような真紅で彩られている。
しかしいま、彼女のドレスが朱に染まっているのは、染め物の色だけではなかった。
「だ、誰か!! 誰か来てぇぇ!!!!」
大粒の涙をこぼす彼女の腕の中には、少女……タルトがいた。
しかしタルトは瞳を閉じたままで、マリアンヌの呼びかけにも一切の反応を示さない。
それもそのはずだった。
タルトの左胸には、ひと目見ただけで重傷だとわかる傷がつけられ、そこから流れる夥しい量の血が廊下を濡らしていたのだ。
「あああああ…………」
血溜まりの中で項垂れるマリアンヌ。
背後に立つ影はそんな彼女の姿を、仮面越しにぼんやりと眺めていた。




