第249話 「彼方の街」
モンペルガの東、深い森の中にある大きな屋敷。
ルートミリアらが住処にしていたその場所には、現在マリアンヌたちが寝泊まりしていた。
「…………どうしたの? せんせい?」
屋敷二階の勉強部屋。
どこか落ち着かない様子のマリアンヌに、タルトが声をかけた。
「へ? う、ううん! なんでもあらへん! ちょっと……ぼーっとしちゃっただけ! ごめんね? わざわざこんな場所まで来てもろたのに」
「…………そんなことない。べんきょう楽しいし、せんせいとナナちゃんとお泊りするのも楽しいよ?」
「そ、そう? えへへ、ウチも楽しい!」
椅子に腰をかけるタルトの頭を優しく撫でながら、マリアンヌも笑みを浮かべる。
「ホントのことを言うとな? なんやさっきからザワザワが収まらんくて……。勉強中やのに、他のことを考えてしまうんよ」
「…………ほかのことって、イナホのこと?」
「………………うん」
ルートミリアたちのことを信頼していないわけではない。
しかし、それはそれ。元気な稲豊の顔を見ないことには、マリアンヌの心のざわめきは落ち着きそうになかった。
「…………イナホならだいじょうぶ! だってイナホは……みんなを悲しませたりしないもん」
「……せやね! ハニーならきっと、『ただいま!』って元気よく帰ってくるに違いあらへん。ウチらはそのとき、この花に負けないぐらいのとびきりの笑顔で迎えるようにしよな!」
マリアンヌが机の上に置かれた花瓶、そこに飾られた一輪の赤い花を指差して言った。するとその直後――――――
「あ」
大輪を咲かせた花の頭が、ポトリと床へと落ちた。
不吉な何かを予感させる出来事に、マリアンヌとタルトの時間がしばらく止まる。
「は、花の寿命やったんかな? か、代わりの花を生けてくるわ!」
花瓶を持ち上げるマリアンヌ。
するとその直後――――――
「あ」
パキパキという音が鳴り、花瓶がまっぷたつに裂け床を濡らした。
もちろん、触れる際に力を入れすぎたわけではない。
「…………うぅ……」
「だ、だいじょうぶ……だいじょうぶ……!」
部屋の隅で体育座りをするマリアンヌの頭を、今度はタルトが撫でて慰める。そんなふたりから少し離れ、ナナは瞳を閉じ眉間に皺を寄せていた。
「ナナちゃん? どないしたんや?」
少女のいつもとは違う様子に違和感を覚え、マリアンヌはナナへ声をかける。するとナナはおもむろに瞳を開き、マリアンヌの方を見た。
「……マリー様、使用人の方はいま王都の方へ行ってますよね?」
「ウチの使用人のこと? 半刻くらい前に買い出しに行くって、モンペルガに向かったはずやで。ウチと一緒にナナちゃんも見送ったやろ?」
「はい。だからいまこの屋敷は、ナナたちだけのはずなんです」
ナナの言ってることがイマイチ理解できず、マリアンヌは首を傾げる。
しかし次に少女が口にした言葉で、マリアンの顔色は変わった。
「…………誰かがここの敷地内に侵入しました。たぶん、悪い人です」
屋敷周辺に張り巡らされた、ナナの糸。
それは誰かが触れれば探知される、罠のような役割を持っている。
そして当然その存在を知っているマリアンヌたちは、ナナの言葉を疑おうとは思わなかった。
「で、でもこの屋敷はルトの結界の中やで? あのルトの結界を突破できる奴なんて……」
「ナナもそう思います。でもなんだかすごく……嫌なすごく感じが――――――」
ナナがそこまで口にしたとき、
「キャアッ!!!!」
「な、なんやなんや!?」
となりに雷でも落ちたような、とてつもない爆音が周囲に響き渡った。
その音と衝撃で屋敷が揺れ、勉強部屋内の本がいくつも床へと散らばる。
マリアンヌとタルトには何が起こったのか分からなかったが、ナナにはその爆音の正体がすぐに理解できた。
「ふたりとも! 早くこっちへ!!」
ふたりの手を掴んだナナは、鬼気迫った様子で廊下へと飛び出す。
目指すは一階の奥、開かずの間だ。
「い、いったい……なにが……!?」
混乱を極めるマリアンヌの腕を引っ張りながら、ナナは顔を前へ向けたまま言った。
「だれかが屋敷の結界を壊そうとしてます!!」
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時を同じく、ルートミリアもマリアンヌ同様、混乱の渦中にいた。
「バカな! エデンの者がどうやって我が魔王領内に……!?」
「今はその方法より、これからどうするかを考えるべきだ。あの屋敷にはマリー姉だけでなく、リリト=クロウリーの魔神石もある」
「わかっておる! しかし……!!」
大将軍アルバ率いるワルキューレ隊と睨み合いをつづけている最中、いつ激しい戦闘が起こってもおかしくはない。この場を放棄することは、総大将としてあるまじき行為にほかならない。
だがルートミリア以外の者では、屋敷へ戻るのに数日を要してしまう。
「…………仕方ない」
幾つもの可能性を模索した中で、ソフィアはひとつの決断をする。
「ルト姉は屋敷へ急行するべきだ。万が一、結界が破られたときはルト姉さんにしか復元できないし、何よりここで五行結界を失う訳にはいかない」
「じゃが……それでは軍は……」
「撤退するしかない。その指揮はオレがとる」
稲豊の顔が、ふっとルートミリアの頭に浮かんだ。
そしてルートミリアは『稲豊ならこの状況でどうするだろうか?』と自問する。
答えが出るのに、時間は掛からなかった。
「シモンなら、ナナやマリーを放っておくはずがない……な。わかった、妾は屋敷へ向かう。すまぬがソフィ、軍を頼んだぞ」
「なんとか犠牲を最小限に撤退してみせるさ」
ソフィアは頼もしく頷くと、ネブを連れてくるよう近場の兵士に声をかけた。翼竜の速度にルートミリアの魔法が加われば、猪車よりも遥かに早く目的地へ向かうことができる。
「私めも同行します。さすがに、お嬢様ひとりで行かせる訳にはいきませんので」
ネブの準備が整うまでのわずかな時間に、アドバーンが申しでた。
その神妙な表情から、ルートミリアは不穏なものを感じているのは、自分だけではなかったと知る。
「構わぬ。だが、お前の隊は大丈夫なのだろうな?」
「無論です。どんな状況にも対応できるよう、普段から言いくるめてありますので」
そんな会話が終わるや否や、やってきたネブが翼竜へと姿を変える。
それと同時に、大量の煙幕が張られた。
「ふん、さっさと乗れ」
不服そうに鼻を鳴らすネブの背中に、ルートミリアとアドバーンのふたりが跨る。すると翼竜は勢いよく翼を羽撃かせ、煙幕から隠れるように魔王陣内を飛び立った。
瞬く間に小さくなっていくソフィアたち。
ルートミリアは面を上げ、一度だけ東の方を見た。
遥か彼方に、城を中心に据える街が見える。
「………………………………ッ!」
ルートミリアは唇を強く噛んで感情を押し殺すと、その爆発しそうな想いを魔素へと変換する。
「速度強化魔法!!!!」
速度を増した翼竜の上、彼方の街はあっという間にふたりの視界から消えていった。




