第246話 「希望という名の毒」
魔王軍の本隊がアルバ軍との時間稼ぎをしている最中、魔王軍の本命とも言える別働隊は、順調に神都アート・モーロへの侵入を果たしていた。
「ここはアート・モーロのどの辺りになるのかしらぁ?」
「南西の住民街、そのちょうど真下でございますね。地下水路として造られたものですが、色々と問題があって計画が頓挫したようです。まだ残っていて助かりました」
アリステラが訊ね、アドバーンが答える。古臭く、淀んだ空気と水が通る地下の通路。暗く陰気な場所だが、彼らにとっては願ってもない侵入経路だった。
「ミアキス、大丈夫ぅ?」
「も、問題ありません。この臭いにもようやく慣れてきました」
鼻の訊く人狼族にとって、あまり長居したい場所ではない。
松明を片手にしたミアキスは、表情を歪めながら強がった。
「しかしアドバーン殿、よくこのような道を知っていましたね。放置されているところをみると、エデンの者にもそう知られてはいない場所なのでは?」
「四百年以上も生きていると、色々な知識が蓄えられるものですとも。花の名前や虫の種類、落とし穴の掘りやすい地形などなど」
「最後のは貴方だけの知識かしらぁ。訊くだけ無駄よミアキス。アドバーンは、はぐらかしの名人なんだからぁ」
「ほっほっほ! 処世術もまた、学んだ知識のひとつでございます」
稲豊救出班に抜擢された三名。
不安と焦燥感を誤魔化しながら、それでも確実にタルタロス監獄へと歩を進めていた。
しかしその順調な歩みを遮るようにひとつの影が三名の前へと立ちはだかったのは、数分後のことだった。
「…………む」
先頭を歩いていたミアキスが、片手を伸ばし後続のふたりを制止した。
そして片手をそのまま腰の剣へとスライドさせ、音もなく剣を抜きとる。
ただならぬ雰囲気を察し、アドバーンはアリステラを自身の後ろへ下がらせ、ミアキスと同様に剣を手にした。
「誰かいます」
ミアキスの言葉で、皆の警戒が一層に強くなる。
こんな場所にいるのだ、普通の住民ではありえない。
しかし誰がいようと、ここで引き返すという選択肢は存在しなかった。
三名はひとつの塊となり、じりじりと先へと進む。
やがて松明の光が、おぼろげな輪郭を浮かび上がらせた。
『女だ』
そう考えたのも束の間、ミアキスは「あ」と目を大きく見開いた。
「………………レトリア?」
陰気な地下水路には似つかわしくない、黒髪の少女がそこにいた。
ミアキスは臭気の漂うこの場所で、その懐かしい香りが感じ取れる距離までレトリアに近づく。そしてどこか様子のおかしい彼女に声をかけた。
「なぜ、ここに?」
昔話に花を咲かせるためにやってきたのではないのは確かだ。レトリアが何か目的を持ってここに立っていることは、火を見るよりも明らか。だがその目的に、ミアキスは見当がつかなかった。
「…………エレーロが、地下水路に異変を感じたの。彼女は……水の精霊だから。まさかとは思ったけれど、何となく貴方たちに会えるような気がしたから…………」
レトリアの声は静かな地下でなければ、消え入りそうなほど弱いものだった。
だが弱々しいのは、声だけではない。瞳はどこか虚ろで、顔色は青を通り越して白くすらある。これだけ弱りきった彼女を見るのは、旧友のミアキスでさえ初めてのことだ。
「お嬢さん、申し訳ありませんが、我々は急いでおります。道を譲ってはいただけませんか?」
アドバーンが優しく、しかし剣を離さずに訊ねた。
そこには『無理矢理にでも通らせてもらう』という、彼なりの意思が込められている。
だがその脅しに気づいているにも関わらず、レトリアは眉ひとつ動かそうとはしなかった。
「…………どこに向かっているの?」
まるで幽霊か何かのように、レトリアが訊ねる。
ミアキスはその尋常ではない彼女の様子に違和感を覚えながらも、まっすぐな瞳をレトリアへ向けた。
「仲間が……エデン軍に囚われている。我々の目的はただひとつ、彼らを救いたい。軍にも、住民らにも危害を加えるようなことはしないと誓う。だからレトリア、今回だけは見逃してほしい」
「仲間…………」
懇願しても、レトリアの反応は鈍い。
やがて痺れを切らしたように、アリステラも口を開いた。
「アルバ城の兵士たちも、みんな無事かしらぁ。仲間を返していただけたら、こちらも兵士たちをお返しするわぁ。あなた方にとっても、悪い条件ではないでしょう?」
アリステラの持ちかけた取引にも、レトリアは反応を見せなかった。
そして『強硬手段も止むなし』と、アドバーンが一歩、足を踏み出したところで――――――
「ミアキス……イナホは貴方にとって、大切な人なの?」
とうとつに、レトリアが訊いた。
主目的を悟られたことに面を食らったミアキスだったが、すぐに力強く頷いた。
「ああ……恩人だ。彼がいなかったら、自分自身……どうなっていたかも分からない。私を取り戻せたのも、すべてはイナホに助けられたからだ。私にとって彼は、とても大切な――――大切な人なんだ」
「そう……なの…………」
レトリアはか細くいうと、両手で顔を覆い唇を噛んだ。
そして――――――
「ごめんなさい!! ごめんなさい……うぅ……!」
立っていられなくなり、レトリアは遂に泣き崩れる。
呪詛のように口から出るのは、ただただ謝罪の言葉だった。
「レト……リア? いったい…………?」
かつての親友の異様な光景に、ミアキスは驚きを隠せない。
そして同時に、暗雲のような黒い影が、自身の心を覆っていくのを感じていた。
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「アルバ軍に動きは?」
「いえ、見ての通り静かなものです。攻めてくるつもりはないようですね」
張られた結界の内側で、ルートミリアがライトに訊ねる。
両軍が睨み合い続ける戦場は、ずっと嫌な緊張感に支配されていた。しかも魔王軍側は、消耗するだけの耐え忍ぶ戦い。兵士たちの疲労の度合いも、目に見えて悪くなっていく。
「我々にとっては好都合なのかもしれんが……こうも何もないと、逆に不安になってくるの」
「そのことで少し、報告したいことが……」
ライトが周囲を警戒したのち、ルートミリアの方へ顔を寄せる。
そして他の誰にも聞こえないよう、囁くように言った。
「アルバの姿が見えなくなってます。杞憂かもしれませんが、どうも気になってしまって……」
「ふむ、確かに奴が馬車の中に入って以来、しばらく姿を見ておらんな」
大将軍アルバは先陣を切って飛び込む勇猛さだけでなく、敵を欺く狡猾さも併せ持った厄介な敵。そのアルバが姿を見せていないのは、なんとも言えない不気味さがあった。
「姿を消して、襲撃の機会を窺っておるのやもしれぬな。どちらにしろ、妾たちにできるのは警戒を怠らぬことだけじゃ。引き続き、周囲の警戒を頼む」
「はっ!」
ライトは頭を下げ、持ち場の方へと戻っていく。
そのライトと入れ替わるようにやってきたのは、どこか落ち着きのない表情のソフィアだった。ソフィアはアルバ軍に背を向けた状態で、ルートミリアに話しかける。それは先ほどのライトと同様の、囁くように小さな声だった。
「姉さん、悪いが後ろの猪車まで来てくれないか。火急だ」
「…………わかった」
ソフィアの表情からただならぬものを感じ取ったルートミリアは、二つ返事で了承する。そしてソフィアに案内されるがままに、後方の猪車まで足を運んだ。
ここまで下がれば、エデンの連中に声を聞かれることもない。
「それで、緊急の用件とはなんだ? あまり前線を離れる訳にもいかぬ。手短に頼むぞ」
「ああ。まずは、その猪車の中に入ってくれ。その方が話が早く済む」
「ふぅむ、よくわからんが……わかった」
百聞は一見に如かず。
ルートミリアは、複雑な表情のままで猪車に乗り込んだ。
光の魔石によって照らされた猪車内には、ふたりの魔物がいた。
ひとりは四女のクリステラ。
そしてもうひとりは……………………
「ま、まさか!?」
ルートミリアはもうひとりを見るなり、驚きの声をあげた。
猪車内の椅子に腰を下ろし、毛布に包まっていたのは――――――
「ウル!? ウルなのか!? 本物かえ?」
「一応……ね。……もう、分身を生み出す体力もないよ」
憔悴した表情をしているが、それは紛れもなくウルサだった。
ルートミリアは駆け寄り、両頬を触って状態を確かめる。ウルサはくすぐったそうに目を細めたあとで、静かに俯いた。
「…………ごめんなさい……。ボクのせいで、皆に迷惑を…………」
「よい。それを言うならば、お前の異変に気づけなかった妾にも責任がある。いまは疲れておるじゃろう、すべてはモンペルガに帰ってからの話じゃ。それにしても、よく脱出できたのぅ」
「勇者が……ファシールが馬を貸してくれて、彼の言う通りに走らせていたら……魔王軍を見つけたんだ……」
「ファシールが? なぜ……?」
首を傾げるルートミリア。
ウルサは苦々しく表情を歪めながらも、事の経緯のすべてを説明した。
「シモンが……ウルを……」
「…………うん……。自分だって助かりたいに決まっているのに、シモン君はボクを救ってくれた。でも、なんでボクを救ったのか…………わからない。どうして……どうして彼はボクを……」
「いまは何も考えずともよい。疲れを癒やすことだけを考えるのじゃ。安心せい、いまアドバーンやミアキス、アリスたちがシモンの救出に向かっておる。きっとすぐに、シモンを無事にここまで連れてくるはずじゃ」
「待って!!!!」
猪車を出ようとしたルートミリアを、ウルサが強い口調で引き止める。
「ルト姉さんなら何か知ってるんじゃないの? 教えて! どうしてシモン君がボクを助けたのか、ボクは……それが知りたい! どうしても知らなきゃいけないんだ!!」
本当なら、疲弊している状態のウルサには教えたくない。
その心痛は、想像を絶するものがあったからだ。だがここで、はぐらかすこともしたくはなかった。そういった小さな疎外感が、ウルサを苦しめてのいたかもしれない。
ルートミリアは葛藤したうえで、すべてを打ち明けることに決めた。
もう姉妹同士での腹の探り合いは、やりたくなかった。
「実はシモンは――――――」
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嘆き声の響く猪車から、ルートミリアが降車した。
ウルサのことは、クリステラに頼んである。安心というわけではないが、心強いことに違いはなかった。
「伝えたんだな」
「…………いずれは知ることじゃからな」
待機していたソフィアと軽く会話を交わし、前方へ戻ろうかと思っていたその矢先――――――
「ル、ルートミリア様ッ!! 救出班が……アドバーン様たちが帰還いたしました!!!!」
「なにッ!? それはまことか!!」
息せき切ってやってきた兵士の報告により、ルートミリアは暗かった表情を明るくさせた。待ちに待った、これ以上もない吉報。
そう信じたルートミリアは、気づいたら駆け出していた。
「シモンに……シモンに会える!」
アリステラの瞬間移動用の扉を積んだ猪車が、さらに後方に待機してある。予定ならば、救出した稲豊と一緒に、その扉から帰ってくることになっていた。
「はぁ……はぁ……!!」
疲れさえ忘れ、ルートミリアは後方へと駆ける。
やがて目的の猪車が見え、そしてその前に立つミアキスらの姿も視界に入った。より一層の笑みを浮かべたルートミリアは、到着するなりアドバーンへ訊ねる。
「シ、シモンはどこだ? んく……ここには、見えぬようじゃが? 医療用の猪車かえ?」
乱れた息を整えながら、ルートミリアは目を輝かせる。
しかし、異変に気づくのにそう時間は掛からなかった。
「なぜ……エデンの天使がここにおるのだ?」
稲豊の姿を探すのに夢中で気づくのが遅れたが、ミアキスの隣にあるのは、敵であるはずのレトリアの姿だった。訳がわからないといった様子のルートミリアは、一通り皆の顔を見た。
アドバーン、ミアキス、アリステラ、そしてレトリア。
皆の表情は、一様に暗かった。アドバーン以外に至っては、ウルサにも劣らないほど憔悴しているように見える。
「お嬢様……まずはこのレトリア嬢から、報告をお聞きください」
「報告? いったい……なんの……?」
困惑するルートミリアの前に、レトリアが立つ。
そして、泣き腫らしたあとの赤い瞳を向け、震える声で告げた。
「イナホは………………………………死に…………ました…………」




