第245話 「天獄にて・・・7 最後の決断」
某日。
タルタロス監獄――――――
稲豊の下を訪れたトロアスタは、片方がもぬけの殻となった独房を見るなり、ため息をついた。
「やれやれ……ファシール殿の気まぐれにも困ったものだ。この【神の鼻】を持ってしても、彼の行動だけは嗅ぎ分けることができない。勇者というものは、凡人の考えも及ばぬ高みにいるようだ。君もそう思わんかね?」
トロアスタが声をかけても、稲豊はもう反応を示さなかった。
だらりと全身が脱力し、鎖で吊られてなければ立つこともままならない。
「訪れるなりで悪いが、火急の用件が発生してね。君の処刑を予定より早めることにした。半刻後、君はここではない天の国へ旅立つ。絞首、斬首、火刑……死に方ぐらいは選ばせてあげよう。拙僧は下の看守室にいるのでね、決まったら声をかけてくれたまえよ」
それだけを告げて、トロアスタは階下へと消えていった。
いよいよ、終わりのときが眼前まで迫ってきている。
「…………ウルの奴……無事に脱出できた……かな」
夢も、約束も、後悔も捨てて選んだ覚悟なのだ、逃げ延びてくれないと困る。
もう恐怖もあまり感じない。ルートミリアらの未来に、自分のような悲劇がやってこないことを、稲豊はただ祈っていた。
「――――――――――さ…………」
「なる………………だが――――――」
そんなとき、稲豊の耳に途切れとぎれの声が聞こえてくる。
誰かの会話と思しき声は、階下の看守室から響いてきていた。
ここに囚われて以来、看守室での会話が耳に届くことは珍しいことではない。
なので稲豊も、最初は気にも留めていなかった。しかし会話のどこかいつもと違う様子と、階段を上がる足音で稲豊は顔を上げる。
「この……足音……?」
いつも耳にしている、看守たちの革靴の音ではない。
初めて聞くような、それでいてどこか懐かしいような、そんな足音に稲豊は耳と目を奪われた。
願わくば救世主であったら良い。
稲豊はそんな一抹の希望を取り戻し、鉄格子ごしに廊下を見つめる。
やがて細い足先が最初に目に止まり、次にその顔が稲豊の視界に飛び込んできた。
「………………あ」
ファシールに続き、二度目の予想外の来訪者。
声を失った稲豊は、しばらくその姿をぼうっと眺めていた。
「久しぶりだね、ソトナ」
数秒後、痺れを切らしたように来訪者――――“レトリア”が口を開いた。
「…………リア?」
「ひどい……こんなになるまで……。傷……痛くない?」
「もう……痛みも感じないんだ…………はは」
無理に笑ってみたが、本当に笑えてるかどうか稲豊に自信はなかった。
レトリアはそんな稲豊の姿を見て、たまらず檻の扉まで駆け寄る。
「手続きに時間が掛かってしまって、来るのが遅くなってごめんなさい。ソトナ……いいえ、イナホ」
「ああ、そうか…………リアも知ってるんだな。俺のこと」
「ええ、私を騙してたこと……許してあげる。私も嘘ついてたから、お互い様」
そういって、レトリアは牢屋の鍵を開けた。
そして両手を稲豊の頬に添えて、治癒魔法を唱える。
みるみるうちに傷が塞がっていくことよりも、触れた温かい両手の方が稲豊は嬉しかった。
「ありがとう。でも…………どうしてリアがここに?」
「貴方を救いに……って言えたら格好良いのだけれど、私はエデンの天使なの。大勢の命を預かる身として、勝手な行動は許されない。だから私は、貴方にお願いがあってやってきたの」
「お願い?」
「ええ」
いまの状態の自分に、何ができるというのか?
稲豊は呆けた表情で、次のレトリアの言葉を待った。
レトリアはとても言い難そうに目を泳がせたあとで、意を決したように口を開く。
「エデンに……こちら側に来てほしいの」
「…………え? それって、俺に魔王軍を裏切って…………エデンに寝返えって欲しい…………ってこと?」
驚きで目を剥く稲豊の前で、レトリアは首を縦に振った。
「実はいま、魔王軍がこちらへ向けて進軍中なの」
「魔王軍が!? な、なんで……!?」
稲豊はそこまで口にして、ハッと息を呑んだ。
思い当たる理由が、ひとつだけあったからだ。
「私の勝手な思い込みかもしれないけど、魔王軍の目的は――――イナホなのかもって」
「そ、それは…………」
いままさに、稲豊も同じことを考えているところだった。
囚われた自分を救うために、ルートミリアたちが決断したのではと考えたのだ。
それは嬉しくも感じるのと同時に、稲豊にとっては耐え難い苦痛でもあった。
「また……俺のせいで誰か死ぬ……。しかも今度は……大勢が……!?」
猛烈な吐き気と頭痛が、稲豊を襲う。
マースにミースに、そしてレフト。
大切な仲間が、自分を守る為にその生命を散らしていった。
合戦ともなれば、敵味方を含めた大勢の命が消えていくのだ。
そしてその発端にあるのは、きっかけを生んだのは、他でもない稲豊自身。
「俺のせいで……俺のせいでッ…………!!」
「落ち着いてイナホ! だから私は、貴方にお願いにきたの!!」
この地獄を、この激痛をなんとかできるのだろうか?
稲豊は縋るような表情で、レトリアを見た。
「貴方がエデン側に寝返ったと知ったら、魔王軍は戦いの意味を失う。大義名分を失うの。そうしたらもう、誰も死なない。この戦を……止められるかもしれない」
「戦いを…………止められる…………?」
「そう。そして、イナホの身元引受人には私が申し出る。貴方がこちら側に来てくれるのなら、私が絶対に処刑なんてさせない。司法取引という形なら、皆も納得してくれるわ」
レトリアの言葉に、嘘は感じられない。
自分の命は救われ、そして戦争も止められる。
これ以上のない、願ってもない結果に違いない。
だが稲豊は……すぐに頷かなかった。いや、頷けなかった。
「イナホ……お願い! 貴方を…………死なせたくないのッ!!」
悲痛なレトリアの言葉が、より自分が崖の端に立っていることを実感させる。
この蜘蛛の糸を逃したら、もう次は絶対にやってこない。
それが分かっていながら、稲豊の脳裏をよぎるのは魔王軍での日常だった。この世界でルートミリアに拾われ、屋敷での大変な生活を使用人の仲間たちに支えられ、かと思えば魔王の姫たちに振り回されて、魔王城で料理人としての仕事に追われ、気がつけば友と呼べる存在まで近くにいた。
辛く苦しい異世界での生活だったが、悪いことばかりではなかった。
ルートミリアの側にいられただけでも、稲豊にとっては幸せだったからだ。
『ああ…………そうか』
頭に次々と浮かぶ皆との思い出で、稲豊はそれが走馬灯だと気がついた。
そして同時に、すでに自分の中で答えが決まっていることを知る。
「この世界にやってきて、初めに出会ったのが君だったら……俺はきっとエデンで暮らしていたんだと思う」
「………………イナホ……」
「でも、魔王軍での生活を知ってしまったから、ルト様たちの理想を知ってしまったから……。知ってしまったら…………裏切るなんて出来ないよ…………」
稲豊が弱々しく微笑んだが、レトリアの瞳に浮かぶのは涙だった。
そして稲豊は……最後の決断をする。
「リア――――――君に頼みがある」




