第243話 「天獄にて・・・6 葛藤」
某日。
タルタロス監獄――――――
「……………………あ……?」
靴底が石畳を叩く音が聞こえ、稲豊は頭を上げた。
「ジジイの……足音じゃない……」
聞き慣れない足音に、ウルサも同様の反応を示す。
時間の感覚は狂えど、まだ食事の時間でないことだけはわかる。
不規則にやってくるトロアスタを除き、来訪する者とはいったい誰なのか?
ふたりに思い当たる者はいなかった。
『審判の日がやってきたのか?』
疲労は一度に吹き飛び、代わりに緊張と恐怖の色がふたりの表情に浮かぶ。
そんな不安を他所に、足音はゆっくりとだが確実に近づいてくる。
音が近づくに連れ、鼓動を早めるふたりの心臓。
焦燥感から、額には玉のような汗が浮かんだ。自ずと呼吸も早くなる。
やがて足音はもうすぐそこまでに迫り、ウルサは耐えきれず目を逸した。
稲豊もできることならばそうしたかったが、思考とは相反し大きく開いた瞳は、力んでみても閉じてくれそうにはなかった。
そしてついに足音が牢屋の前で止まり、その姿が顕になる。
「まさか…………!?」
そこに立っていたのは――――――
「ファ、ファシール?」
牢屋の前で爽やかな笑みを浮かべているのは、紛れもなく『大勇者ファシール』だった。
「やぁ、久しぶりだね。ハーピー退治のとき以来かな?」
「あ、ああ…………そうだな」
面会人が勇者と知った稲豊の顔は、何とも言えないものに変わった。
拷問という地獄は回避できたのかもしれないが、ファシールは敵の大幹部のひとりなのだ。最後に手を下すのは、彼の役割なのかもしれない。
そう考えると、諸手を挙げて喜ぶわけにはいかなかった。
「随分と痛めつけられたようだね。アスタも趣味が悪い」
ファシールは周囲を注意深く観察すると、どこからともなく檻の鍵を取り出した。そして扉を開け、するりと独房内へ侵入する。
「どうして……ここに?」
「うん? 城の方に足を運んでいるときに、たまたま君の噂を耳にしてさ。だからこっそりとね。鍵を持ってた看守くんには、悪いけど少し眠ってもらったよ」
「そういう意味で聞いたわけじゃないんだが……」
処刑目的でやってきたのではないことを知り、稲豊とウルサは同時に安堵の息を漏らした。
しかしそれならば、なぜファシールはここにやってきたのか?
目的がまったく見えないだけに、稲豊らの表情には困惑の色が浮かんだままだった。
そんなふたりの複雑な心境をようやく察したファシールは、『ごめんごめん』と快活に笑ってから口をを開いた。
「借りを返しに来たんだよ」
「借り……? 借りって…………?」
「ほら、忘れたのかい? ハーピーと戦ったときに、君は僕の命を救ってくれたじゃないか」
稲豊の瞳の奥に、あの日の光景が映し出される。
ハーピーとの戦いで剣を落としてしまったファシールに、稲豊は決死の思いで剣を届けた。その成果もあって、皆が無事にハーピーを討伐できたのだ。
「だけどあれは……俺の命を守るためでもあって……」
「結果的に僕は君に救われた、それは紛れもない事実さ。だから今度は、僕が君を救う番だ。稲豊、君をタルタロス監獄から出してあげるよ」
「は? え? ここから…………出す?」
稲豊は耳を疑い、さらに目を丸くした。
何かの間違いかとも思ったが、ファシールの態度に嘘はないように見える。
「サービスでエデンからの脱出もつけよう。せめてもの感謝の気持ちだよ」
ファシールはやはり爽やかに笑いながら、手早く稲豊の錠の鍵を外す。それはこれまでの長く壮絶な苦しみと比べたら、信じられないほどに呆気ない解放だった。
稲豊は痛む手首を擦りながら、ふつふつと湧きあがる喜びを噛み締める。
この暗く汚い地獄から、ついに解放される。もし誰の耳にも届かなかったら、稲豊は歓喜の雄叫びをあげていたに違いない。
「さあ、看守がいつ目を覚ますかわからない。早く脱出しよう」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
稲豊はファシールに待ったをかけてから、ウルサの下へ向かった。
「へへ……俺もお前も、まだまだ運が残ってたみたいだな! 覚悟しろよ? ルト様の前で、お前の悪事を洗いざらい暴露してやるからな!」
恨み言を吐いているにも関わらず、顔に笑みが浮かんでしまう。
自由という言葉とその意味を、これほどまで嬉しく感じたことはいままでにない。稲豊はファシールへ腕を伸ばし、声を弾ませながら言った。
「鍵を貸してくれ。コイツの錠は俺が外すからさ」
命の恩人の手を煩わすわけにはいかない。
稲豊はそんな気遣いから腕を伸ばしたのだが、ファシールは珍しく驚きの表情を見せる。
そしていつにない真剣な表情を浮かべてから、言った。
「済まないが、その子は連れてはいけない。僕が君から借りた貸しはひとつだけ、だから……助けるのもひとりだけだよ」
稲豊の口から、乾いた息が漏れる。
何かを言おうかと思ったが、それでも言葉は出てこない。
ただ口をパクパクと動かし、ファシールの姿とウルサの姿を交互に見た。
そんな稲豊に追い打ちをかけるように、ファシールは続ける。
「僕にも立場というものがあるんだ、悪く思わないで欲しい。それに魔王軍の幹部をふたりも逃したとあっては、さすがにアスタに悪いからね」
「そ、それはそうかも……しれねぇけど……」
ファシールの言い分は、理にかなっている。
だからこそウルサの瞳は希望を失い、深く静かに沈んでいった。
この監獄に残されたらどうなるのか、火を見るよりも明らかだ。
「…………行きなよ。シモン君が言ったように、これはボクが受けるべき報い……天罰なんだ。君を……姉さんたちを騙したりしたから……罰が下ったんだ。お父様だってきっと、いまのボクを許してはくれない」
「そんなこと……」
「ただ……ひとつだけお願い……良いかな? 姉さんたちに会ったら、ひとこと『ごめんなさい』って伝えて欲しい。それだけ……お願い」
震える声で、精一杯の虚勢を張るウルサ。
稲豊は他にどんな反応を返して良いのか分からず、ただ頷くことしかできなかった。
「行こう。もうそろそろ、アスタが戻ってくるかもしれない」
「あ……ああ、そう…………だな」
人の気配がないことを確認し、ファシールが気配を消しながら廊下に出る。
稲豊はその後を、ぐちゃぐちゃの感情のままでついていった。
「ここを下れば看守室があり、さらに下れば監獄の入り口がある。入り口には警備の兵がいるが、君が移送されているということにしてやり過ごせば問題ない。あとは街の外を目指すだけだ」
「ああ…………ありがとう……」
眼下に見える、希望という名の階段。
それが幸せに繋がっているのはわかっているのに、稲豊の足はそこで止まってしまう。
脳裏をよぎるのは、最後に見たウルサの悲しげな瞳。
耳にこびり付いた、震える声。
彼女が捕まったのは自業自得で、罰を受けるのも当然の報いに違いない。
頭ではそう理解しているのに、足はどうしても動いてくれそうになかった。
『何を考えてる? 自分を陥れた相手なんて、見捨てて逃げれば良いんだ』
『でも、ウルサの理想は俺と同じ――――――』
『諦めろ。早くしないと、ファシールの気が変わるかもしれないぞ』
『でも……でも! ウルサはルト様の妹で――――――』
『どちらにしろ、もう助ける方法は存在しない。自由になった身で、勇者にでも挑んでみるか? 返り討ちに合って終わりだ』
泡のように、自問自答が生まれては弾けて消えていった。
もう諦めなければと考える自分と、まだ救う手段を模索している自分がせめぎ合う。
決着がつかず、苦悶に表情を歪める稲豊。
だが残された時間は……もうない。
やがて稲豊は、ゆっくりと面を上げる。
「どうしたんだい? 早く――――――」
「ひとつ訊いてもいいか?」
ファシールの声を遮り、稲豊は言った。
「ひとりだけしか助けられないってのは、つまり……それが俺じゃなくても良いってことだよな?」
震えた声で、歪んだ表情で、しかし稲豊はハッキリと訊ねる。
大きく開かれたファシールの瞳に、その心境が表れていた。
「…………君は自分が何を口にしているのか、わかっているのかい?」
「自分でも、なんでこんなことを口走ってるのかわかんねぇよ。でも、でも…………頼むよ。俺の気が変わらないうちに、頼む!!」
ファシールはじっと考え、数秒後に長いため息を漏らした。
そしてやれやれと首を振った後で、稲豊の顔を見る。
「君の覚悟、無駄にするわけにはいかないね。だけど、本当に良いのかい? ここに残れば、君は間違いなく死ぬ。それでも、本当に良いんだね?」
念を押されても稲豊はただ俯くだけで、考えを改めることはなかった。
それが覚悟の表れだと受け取ったファシールは、稲豊の手足に再び錠をかける。
そして次にウルサの下へ歩み寄った。
「な、なにを……!?」
動揺する彼女を他所に、ファシールは慣れた手つきで錠を外す。
束縛から解放されたウルサは一瞬だけ放心したのち、逆に拘束された稲豊を目掛けて走り寄った。
「いまからでも遅くない、撤回するんだ!! ボクなんかよりも、姉さんたちに必要とされてるのは君なんだよ! シモン君が魔王国に帰るべきなんだ!! それに言ったじゃないか、これは天罰だって!! ボクの自業自得だって!!」
稲豊の胸ぐらを掴み、ウルサが叫ぶ。
しかし稲豊は俯いたままで、何の反応も示さなかった。
「どうして……? どうしてボクなんかのために…………」
ウルサの緋色の瞳から、大粒の涙がこぼれ始める。
“どうして”と問われれば、稲豊にだってよくわからない。
ただ理由を上げるとするならば、それは――――――
「……俺を裏切った日のこと、覚えてるか? お前とアート・モーロの中心街を見て回ったあの日、俺が『時間ならまだあるぜ』って言ったら、お前は『もういい』って言ったんだ」
「し、知らない! 覚えてない!!」
「もしかしたらお前さ……俺を逃してくれようとしてたんじゃないか? でもエデンの奴らが予定していた時間よりも早くて、間に合わなかった……」
「違う!! そ、そんなわけない!! ボクはそんなこと……」
ウルサの態度から、稲豊はそれが真実であると確信する。
だが本当に重要なのは、もうひとつの理由の方かもしれない。
稲豊は「それに」と前置きをし、いまできる精一杯の笑顔を浮かべてから言った。
「娘の為に体を張らない親が、どこにいるよ?」
ウルサは訳がわからないといった表情を浮かべるが、ファシールの前で説明をする訳にもいかない。
「意味がわからないよッ!! でも君がなんて言おうと、ボクとシモン君は運命共同体だ!! 君が残るって言うのなら、ボクもここに――――――」
心からのウルサの叫びは、最後まで伝えることは叶わなかった。
ファシールの放った手刀が、彼女の意識を根本から刈り取ったからだ。
ウルサは全身から力を失い、勇者によって手厚く抱きとめられた。
「彼女のことは、このファシールが責任をもってエデンの外まで送り届ける。だから安心していい」
「…………ああ、恩に着る」
ぐったりとしたウルサを腕に抱き、ファシールはゆっくりと檻の扉を閉める。
そして去り際に、稲豊の顔を一瞥してから――――――
「君は勇者以上に、勇敢な男だったよ」
それだけを言い残し、ウルサを抱いたファシールは、階段の下へと消えていった。




