第23話 「・・・・・・届かない」
急ぎ稲豊の元へ走るナナとミアキス。
駆け出して十分は経過したが、その糸が動く気配はまるで無い。
例え糸をつけた者が寝ていたとしても、その呼吸運動による振動はナナに伝わる。全く動かないという事柄が意味する事は……。
「一人に……するんじゃなかった!」
少女は涙の溜まった目を服の袖で拭い、後悔の言葉を吐き出す。ミアキスはそんなナナの様子を見ても一切表情を崩さない。彼女は自らの目で見るまでは、嫌な事実は信じない事にしているからだ。二陣の風は枝の上や石の上を縫うように走り、やがて糸の先に到達する。
「イナホ様!!」
真っ先に駆け込んだナナが糸を辿り、その終点を見て絶句する。
少し遅れて到着したミアキスは、押し黙る少女の背後から“ソレ”を覗き込み、「何だこれは?」と困惑の声を出した。それも当然と言える。何故なら……。
二人の前には……コートが一つ。
白い蜘蛛の模様が描かれたそれは綺麗に折り畳まれ、樹の根本で佇んでいた。
:::::::::::::::::::::::::::
「八百九十九……九百……と」
時間は少し遡り、ナナが少年と別れて十数分程経過した少年の場面。
稲豊は数を数えるをの止める。
そしてのんびりと腰を上げ。自らのコートを脱ぎ、綺麗に畳んで樹の根元にそっと置いた。そして誰が聞いてる訳でも無いのに、言い訳のように淡々と喋る。
「悪いな、ナナ。約束は破るけどお互い様だよな? 俺はどうしても二人を死なせたくないんだ。騙し討ちみたいになったけど許せよ? ――――なんたって俺は」
そこで言葉を区切り森の奥を見据える。
「卑怯者だからな」
言葉と同時に森の奥へと駆け出した。
竜と遭遇しない方にBETした彼だったが、稲豊のギャンブル運は……。
けして高い方では無かった。
:::::::::::::::::::::::::::
どのぐらい走っただろうか? どんどん強くなる臭気に、稲豊は確信めいたものを感じていた。目的の物はきっとその先にある。後はただひたすらに自分の幸運を祈るだけだった。
「……何だ?」
森の奥、その終点。
木々の隙間から強い紫光が漏れ、稲豊の顔面を紫苑に染める。
その物々しい雰囲気に息を飲み、震える足に鞭を打って進ませる。一歩また一歩と前進し、ようやくそれは稲豊の視界に捉えられた。
「…………すげぇ」
思わず脱帽の息が言葉と共に口から飛び出す。
木々の開けたその場所はちょっとした広さがある。まるで草木が避ける様に円形に広がる荘厳な空間。その中央には大木があり、その両側に聳え立つのは巨大な紫水晶。水晶に挟まれ照らされる樹木。惑乱の森の暗さと相まって、なるほど確かにそれは青い木に見えなくもない。この強烈な香りの発生源は間違いなくあの大樹である。
「どちらかと言うと青紫の木だな。で、アレがそうか」
汗が頬を伝い地面に落ちる。
少し遠回りしたが念願の果実にようやく辿り着いた。枝に生る白い果実は、稲豊の世界の梨に良く似ている。数は数十と言った所だろうか? この樹木の状態を鑑みれば、稲豊の仮説はもはや立証されたようなものだった。
首を回して周囲に視線を走らせる稲豊。
この大木以外に白い果実をつける樹木は見当たらない。それはつまり、高さ十メートル近くある目の前の木から取るしか無いという事になる。木登りが得意でない稲豊には躊躇する高さだ。
「伝説の果実、ヒャク。ここにしか生ってないって事か?」
ため息混じりに稲豊は独り言を漏らす。
――――しかしその声は、独り言では終わらなかった。
「そうだ」
独り言に返って来るその言葉に、緊張した顔を向ける稲豊。
その声の正体は大樹の裏からのしのしと姿を見せる。どうやら最初から控えていたらしい。
「吾の生命の果実。今存在するのはこの樹にのみ。貴様ら人間の蛮行の結果だ」
巨大な翡翠の竜は、緋色の瞳に憎悪の念を込めて稲豊を睨む。
しかしその目が見ているのは稲豊ではない、人間全てを睨みつけているのだ。この化物相手に矮小な人間の出来る事など会話しかない。臨戦態勢に移行しようとする怪物に、稲豊は両手を上げて丸腰である事をアピールする。
「待て待て! 俺は丸腰だ。お前と話があってココに来ただけだ」
人外の表情など稲豊には分からないが、その時の竜の顔は確かに怪訝なモノに見えた。直ぐに襲い掛かられたら一溜りもない。相手がそう思わないように、稲豊は会話を切らさないように心掛ける。
「生命の果実……つまりこいつはお前の魔素の補給源って事だな?」
翼竜は返答に答えず、静かに見下ろす。
それを肯定と稲豊は捉える。この森の番人は果実が無いと十分な魔素を補給出来ない。しかし、その果実は残り僅かである。自分と竜の意外な共通点に、稲豊は変な親近感を覚えた。
だが同じような立場でもそうなった原因はまるで違う。
何故なら森の果実が無くなったのは……。
「――――人のせいか?」
「如何にも」
竜は先程とは違い、間髪を容れずに答える。
その様子を見て「想像以上にこの竜は対話を好む!」と、稲豊は心の中でガッツポーズを取る。しかしそれは彼の希望的観測に過ぎない。
「吾の森を荒らす。不届き。森の至る所に生えるヒャクの樹も、奴らの手に掛かれば枯れるのみ」
衝撃の事実も、稲豊は予測していた。
それが強い臭気の先にヒャクがある、と予想していた彼の仮説通りだったからだ。
つまり伝説となっているヒャクの樹は、惑乱の森の中では大量に分布している。しかし、それは人の手により採り尽くされ、どういう訳か果実は木に生らなくなった。その名残が今も甘い香りとして森に残っているのだ。ならば森の甘い香りの強まる所に、ヒャクがあるのでは? と思考が辿り着くのも必然。崖下で入った窪みや、盾などは目の前の番人が迎撃したその爪痕だろう。
「吾の森。吾の生命の果実。貴様らは数に頼り、この聖域を荒らした。蝗の如く食い尽くされ、残ったヒャクの果実はココにあるのみ。吾の生命もあと僅か、それも全て人の仕業。許せぬ。許しておけぬ」
雲行きが嫌な流れを帯びてくる。
「五百年もの間、守り育てた森と果実。徒党を組み襲ってきた奴らを吾は許しはしない。魔素尽きる暁には楽園に赴き、死門尽きるまで破壊の限りを尽くしてくれる!」
最早怪物は暴走している。あまりの憎しみに我を忘れているのだ。
稲豊は対話の難しさを思い知る。相手が怒り過ぎては、文字通り“お話にならない”。
「貴様も同じ人間。我が怒りを知れ」
「ちょっと待て! 何でそうなる!? 俺の話を!」
怒りは遂にその肢体を動かすに至る。稲豊の話を最後まで聞かず、竜は巨大な体を信じられない速度で回転させる。その丸太よりも太い尾が、鈍い風切音を立てながら脆弱な人間を吹き飛ばそうと稲豊に迫る。目で追うことで精一杯の彼に、それを回避するまでの反応は出来ない。「ここまでか?」そう彼が考えるのも束の間。その体は尾の直撃を受け宙を舞った――――かに思われた次の瞬間。
「――――はぁ!!」
気迫の掛け声に伴って鉄同士がぶつかりあうような音が稲豊の耳に届く。
衝突の瞬間に目を閉じていた稲豊が数刻遅れで瞼を持ち上げる、するとそこには……。
「少年。無茶をするな」
左腕で剣を振るうミアキスが、竜の尾を弾いた姿がそこにはあった。稲豊に掛ける声には若干の怒りが含まれている。反射的に「すいません」と謝る稲豊。その言葉を最後まで発したかどうか、といった所でもう一つ幼い声が空間に響く。
「ナナもいます!」
小さな火柱が空中を走り、翼竜の緋色の瞳に直撃する。
たまらずその巨体を仰け反らす怪物。稲豊とミアキスはその間に、竜との距離を開ける。
「イナホ様のバカ!! バカです! 大バカです!! ナナがどれだけ心配したか考えて下さい!」
「わ、悪かったよ」
翡翠の竜と二十メートル程離れた位置にいるナナの元まで下がると、涙目の少女に稲豊は罵倒される。騙した自分が悪いので素直に謝るが、反省はしていない。同じ事があればきっと同様の選択を彼は選ぶだろう、何故なら志門 稲豊は一人で抱え込む性格をしているからだ。
翼竜は未だ目を開けられない。
火柱はただの火の塊ではなく、粘着性を持って竜の顔面にへばり付く。
それもそのはず、強靭な糸に火の魔法を融合させたナナの必殺技だ。そう簡単に取れはしない。
「ナナ、ミアキスさん。アレがそうです」
稲豊の声に二人が視線を上に走らせる。
大樹の枝に生る白い果実。目的の物は目の前、しかしそれを守る巨大な竜がそれを採らせはしないだろう。稲豊だって同じだ、翼竜も稲豊もお互いの命が掛かっている。ここは引くなんて選択肢は考えていない。
「とにかく一つで良いんでアレが欲しい。確信がある訳じゃ無いけど、ヒャクを食べればきっと何かが形を付ける! そんな気がするんです」
「心得た」
「まかせて下さい!」
頼もしい声が二人より発せられ、胸が熱くなる稲豊。
最後の作戦。決着にそう時間は掛からない。三人は心を一つにし、それぞれの役割の為動く。
「小癪な真似を!」
ようやく火を振り払った翼竜は三人を捉える……がしかし、その動きまでは捉えられない。三人の動きは全員がそれぞれ違うのだ。
人狼は生まれついた俊敏性と速度強化魔法を活かし、フェイントを交えながら竜に細身の片手剣を振るう。堅牢な鱗に守られているとはいえ、目を狙って来るので鬱陶しい事この上ない。アラクネ族の少女は両の指先から大量の糸を飛ばし、翼竜の足や胴体を絡めとる。粘着性の糸は動きを鈍くし、鬱陶しい事この上ない。だが何より鬱陶しいのは、大樹の根本まで辿り着いた人間。これでは必殺の火炎を吐くことも出来ない。
「ナナ! 頼む!!」
「はい!!」
稲豊の声に答えた少女が元気よく返事をし、その小さな腕を大樹の果実に向ける。
その動きの意図を察した竜は激昂する。
「させぬ!! グオッ!?」
少女に向かって火球を飛ばそうとした翼竜は自身の顎の動きに戸惑う。
火を吹こうと大きく開けようとした口が、意思と関係なく勝手に閉じたのだ。だがその理由は瞬時に理解する、竜の背中に乗るミアキスの腕から伸びる強靭な糸の束。その先は怪物の大きな口をぐるりと覆い、その口を封じる。速度強化の間に糸を掛け、腕力強化をもって口を縛る。人狼が最初に目を狙った事そのものがフェイントだったのだ。
糸に気を取られた竜に少女の動きを止めることなど出来はしない。
勢い良く発射された糸は大樹の果実を見事に捕らえ、その一つを空中に放り出す。その動きをまるでスローモーションのように感じながら目で追う稲豊と翼竜。稲豊の目には希望、翼竜の目には憤怒。対極の存在は、同様の動きを見せる。
「取った!!!」
落ちてくるヒャクをナイスキャッチする稲豊。だがその実感を感じる間も無く。
「少年!!」
「イナホ様!!」
二つの悲鳴に我に返った稲豊が見たものは、眼前に迫る巨大な竜の腕だった。
「ッあ!…………ッグ」
衝撃と共に大樹に押し付けられる稲豊の体。
胸を圧迫され苦痛に顔を歪める少年。それを憎しみの目で睨みつける翼竜。その様子を泣きそうな顔で見つめるナナと、眉を顰めるミアキス。あと少しその怪物が体重を預けるだけで、ひ弱な人間の体は潰れたトマトに早変わりするだろう。助けたい二人だが手の出しようがない。
「吾の業火から生き延びたその豪運は見事。死に方は選ばせてやろう」
最後に慈悲を見せる翡翠の翼竜。
自らの最後を覚悟する稲豊。
押し寄せる重圧の中で、果実を最後まで離さなかった自分を褒めてやりたいと稲豊は思った。「どうせ死ぬなら……」最後に彼を染めるのはそんな往生際の悪い考え。ここまで来たら恐怖を飛び越え、残ったのは一抹の好奇心。
『……ああ。それはもう……思い出すだけでよだれが出る程にな。言っちゃ悪いのは分かってるが……昨日貰ったどんな食材よりも旨い』
思い浮かぶのは恍惚の表情を浮かべるオサの姿。
そこまで旨いものなら。――――死ぬ前に。
稲豊の脳内は膨れ上がる好奇心に支配された。
「――――あー」
そこからの動きは、この場にいる稲豊以外の者には全く予想していなかった動きだった。死を目前に控える人間が、竜の指の間から出た腕とその首をめいっぱいに伸ばし、右手に持つ果実に力一杯噛み付いたのだ。そして皮などお構い無しに咀嚼する。
驚きの表情を浮かべ硬直する三者は、稲豊の次の一言で更に驚愕させられる事となる。
「何だこれ…………まっずい!!」




