第241話 「天獄にて・・・5 取引」
某日。
タルタロス監獄――――――
「ブハッ!? げほ……ごほ!! はぁ……はぁ……!」
一瞬だけ呼吸が止まったことと、前髪から滴り落ちる水滴を見て、稲豊は自分が冷水を浴びせられたのだと知った。その数秒遅れで、自分が意識を失っていたことを思い出す。
「そろそろ吐いてしまったらどうかね? いくら耐え忍んだところで、この苦しみが延々と続くだけに過ぎない。強情は損をするだけだと、いい加減に気づきたまえ」
空のバケツを持ったトロアスタが、呆れたように首を振った。
だが疲労困憊の稲豊は、言い返す元気もすでにない。ただぼんやりと床を見つめ、石畳にできた水たまりを眺めていた。
「次は一刻後、また来るよ。ああそうだ、今日からは目隠しも耳栓も無し。ふたりでの会話を存分に楽しむといい」
嫌な笑みを浮かべたトロアスタは、そう言い残し独房を去っていった。
革靴の音が反響しつつも遠くなっていくのを何となく意識しながら、ふと稲豊は顔を横へ向ける。
そこには稲豊同様に憔悴しきった、ウルサの姿があった。
「……へ……へへ……ざまぁねぇな……」
ウルサの反応はない。
「俺を売ったりするから、バチが当たったんじゃねぇか……?」
ウルサの反応はない。
「エデン風に言うなら、天罰ってやつかもな……!」
ウルサの反応はない。
天井の鎖から両腕を吊られたウルサは、その燃えるような赤髪に隠れ表情が見えない。起きているのか眠っているのかさえ、稲豊には分からなかった。
そしてそのことが、稲豊の恨み節に拍車をかける。
「本当、薄情者だよお前は。どうせ好待遇にでも釣られたんだろ? それとも美味い食事か? まったく、あんな奴らの言うことを真に受けるなんて……お前どうかして――――――」
「うるさいッ!!!!!!!!!!!!!!!!」
雷鳴のような怒号が、稲豊の鼓膜に落ちる。
それがウルサの口から発せられたと気づいたのは、耳鳴りが何度か鳴った後のことだった。
「お前に……お前なんかにボクの気持ちが分かるもんか!!!! ボクがどんな……どんな想いで……!! 皆に必要とされて、前だけを向いていれば良いシモン君とボクは違うッ!!」
憔悴していたのが嘘のように、ウルサは叫んだ。
「ボクはこの世で一番……ボクが嫌いだ……。自分がどんな目に合おうと、どんな拷問されようと……どうだっていい。ボクが汚れることで皆が幸せになるのなら……ボクは迷わないッ!!」
堰を切ったように想いを吐露するウルサの声は、次第に力を失っていった。
やがて嗚咽が交じるようになり、緋色の瞳からこぼれた大粒の涙が、石畳の床を少しずつ染めていく。
その頃には、稲豊の心境も変化しつつあった。
『ウルサは未だ、トロアスタに何も話しちゃいない。本当にウルサが自分のことしか考えない薄情者なら、とっくに我が身可愛さに魔王軍の情報を漏らしているんじゃないか?』
自らの内から聞こえる声が、稲豊の心を揺さぶる。
裏切り者だと決めつけるのは、時期尚早なのかもしれない。
「……なぁ、いつからお前は…………奴らと繋がってたんだ?」
稲豊はまず、知ることから始めた。
見限るのは、それからでも遅くないと思ったからだ。
するとウルサは俯いたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「最初に声をかけられたのは、ザックイールでの攻防戦のとき……。誰にも言わなかったけど、実はあのとき……空から降る巨大な氷塊に襲われたあとで、ボクはティフレールに捕まった」
「ティフレールって、確か『狂天使』って呼ばれてるあの?」
ウルサは一度、ゆっくりと頷く。
「あの女に捕まってすぐ、ボクは捕虜としてトロアスタの前に連れて行かれた。もう終わった……ここでボクは死ぬんだ……。そんな諦めの覚悟をしていた矢先、トロアスタが言ったんだ。『ルートミリアを差し出せ』って」
「ルト様を!?」
「ボクはもちろん断った。魔王軍の大将を、血を分けた姉妹を差し出せる訳がない! そしたらトロアスタは――――――」
「代わりに俺を差し出せ……と、そう言ったんだな?」
再び、無言で頷くウルサ。
ルートミリアでなく、差し出されたのが自分で良かった。
そんな安堵の息を漏らした稲豊だったが、次の瞬間には違和感で眉をしかめていた。
「なんで…………俺?」
「……さぁ? でもいま思い返せば、あのジジィはシモン君をえらく気にしてるみたいだったよ。理由はわからないけど」
隊長に大臣に護衛騎士。
そのすべてを飛び越えて選ばれた自分。意図がはっきりと見えないだけに、稲豊は自分の背中になにか冷たいものが流れていくのを感じていた。
「で、俺を差し出すことで……お前は何をもらえる予定だったんだ? ただ『見逃してやる』って取引じゃなかったんだろ?」
嫌な予感を振り払うように、稲豊は別の話題へ移行する。
その場かぎりの約束など、ウルサが守るはずがない。ここまで彼女を追い詰めるほどの、魅力的なご褒美があるはずなのだ。
裏切りに釣り合うほどの褒美など、見当もつかない。
だからこそ、稲豊はどうしても知りたかった。
「…………………………牧場を、作りたかったんだ」
長い沈黙のあとで、ウルサは苦しそうに言った。
彼女の反応から嘘をついていないことを察した稲豊だが、その言葉の真意まで捉えられない。
「牧場って……お前はもう自分のを持ってるじゃねぇか?」
「既存の牧場じゃない、新しい牧場が欲しかったんだよ」
新たな牧場を作るのに、なぜエデンの協力が必要なのか?
稲豊には分からなかった。
「その牧場では、前例のない生き物を飼育する。低コストで飼育が簡単なうえ、栄養価は満点……」
「そ、そんな最高の家畜がエデンにいるってのかよ!? そりゃあ確かに……魅力的な取引だな」
何度もエデンに足を運んでいる稲豊でも、そんな生き物の存在は聞いたことがなかった。
「シモン君を渡す代わりに、その生き物をエデンから定期的に提供してもらえるはずだったんだ。トロアスタは言ってた、間引きするぐらいなら……って」
「間引き? 間引きしなくちゃいけない生き物って…………まさか……!?」
アドバーンの言葉が、稲豊の脳内に鮮明に蘇る。
『リリト様がエデンから去ったのは、エデン軍による人口調整…………即ち『間引き』について知ってしまったからなのです』
ここでようやく、稲豊はすべてを理解した。
ウルサの作りたかった新牧場、そこで飼育を予定していたその生き物は…………。
「――――――人間か」
稲豊が静かに訊くと、ウルサは小さくとだが確実に、こくんと頷いた。
「本当なら魔王国民……いや、すべての魔物の空腹を癒やし、もう食糧不足で争うことのない、平和な世界が実現するはずだった。そんな夢の牧場が……できるはずだったんだ」
「ばっ……かやろう!! 人間を、人間を家畜同然に扱うなんて、そんな……そんなこと!」
「もちろん、公には秘密の施設だよ。ボクが管理して、飼育も加工もボクがする。国民たちは食卓に届けられるそれに、舌鼓を打つだけでいい。そうするだけで、魔王国の食糧事情は解決するんだ」
ウルサの瞳を見れば、それが冗談の類ではないことが分かる。
だからこそ稲豊は、信じられなかった。人間を家畜のように扱うなど、考えたこともない。
「そんな牧場、ルト様が許すはずがねぇ! それにいつか皆にバレるに決まってる!! もしそうなったら、一番に糾弾されるのはお前なんだぞ!? もしかしたら、最悪の場合……」
「ボクは……極刑になるかもね」
「お前そこまで分かっていて、なんで――――」
「じゃあ他にどんな方法があるって言うんだよ!!!!!!!!!!」
稲豊の言葉は、ウルサの叫びによりかき消された。
「食糧問題もこの不毛な戦いも、他にどんな解決方法があるんだよ!! ボクの犠牲ひとつで少しでも魔王国民が潤うなら、それで良いじゃんかよ!!」
「ウルサ……お前」
「自分がバカなことをしてるってことぐらい、ボクだって分かってるんだよ!! でも……でも、仕方ないじゃんか……。ボクみたいなやつが、国民を、姉さんを助けるには…………ほかに…………」
あとはもう言葉にならなかった。
ウルサは大粒の涙をこぼしながら、嗚咽を漏らす。
稲豊は初めてウルサの本音を知った。
彼女が願ったのは、ほかでもない『食糧改革』。方法が違えど、目指しているものは稲豊と同じだったのだ。
「バカだよお前は…………本当に……バカだ」
自分だったなら、どうしただろうか?
命の選択を迫られたときに、正しい選択を選べるのだろうか?
そもそも、正しい選択とはなんなのだろうか?
いくつもの疑問が、浮かんでは消えていった。
それと同時に、ウルサを憎む気持ちも、いつの間にか消えていることに稲豊は気づく。
「食糧改革…………ルト様……」
稲豊は無性に、ルートミリアに会いたくなった。




