第238話 「天獄にて・・・3 末路」
目眩と同時に胃液が逆流する。
込み上がる猛烈な吐き気をそのままに、稲豊は胃の中のものをすべて吐き出すつもりだった。
「むぐぅ!?」
しかし、傍らにいた大男に無理やり口を塞がれ、喉元まで迫った胃液は行き場をなくし戻っていく。稲豊は口元を覆う黒革の手袋を忌々しげに睨みつけたが、そんなことに露ほどの意味もない。いますべきことは、大男の手を速やかに排除することだ。
稲豊は両手で大男の腕を掴み、力いっぱいに引き剥がそうとした。
だが大男の力は想像以上に強く、丸太のような右腕はびくとも動かない。
そんななか、視線を横へとスライドさせた稲豊は、ぎょっと目を剥いた。
大男はあろうことか、空いている左腕を床に転がった目玉へと伸ばしたのだ。
「ぐぐ……! むぅ……!!!!」
男は乱暴に目玉を掴むと、それを稲豊の目の前まで持ってくる。
無言の上での行動だったが、男の意図は容易に想像できた。
吐き出した食材を、稲豊の口へ戻そうとしているのだ。
「……その年齢で偏食とはいただけないな。犠牲になった命の為にも、美味しく食べてあげることが生者の務めだとは思わんかね?」
トロアスタの話す勝手な理屈を遠くに聞きながら、稲豊は歯を食いしばるようにして唇を閉じていた。しかし大男はその仕草が気に入らないらしく、太い人差し指と親指で稲豊の頬を挟むと、力を込めて両頬を圧迫した。
痛みと怪力に顎の力が負け、固く閉じていたはずの口が徐々に開き始める。
そしてそのたびに、ブラウンの目玉が稲豊の口元に近づいてくるのだ。
もはや目玉は、前歯の当たりそうな位置にまで迫ってきている。
「や…………やめろぉ!!!!!!!!」
狙ったわけではなかった。
無我夢中で左手を振り回したときに偶然、大男の頭巾に指が引っかかった。
そして偶然、それが上手い具合に脱げたのだ。
「…………………………え?」
眼前に、大男の素顔が晒される。
稲豊は男の顔を見た瞬間、言葉を失った。
どういうわけか、頭巾が脱げたことで大男の動きがピタリと止まる。
だから稲豊には、目の前の信じられない光景を、吟味できるだけの時間があった。
にも関わらず、稲豊は石のように固まったまま。
それはショックを受けたから――――――だけではない。
頭の中で眠る記憶に触れ、過去を覗くことに執心していたことも要因のひとつだった。
「どうして……ここにあんたが……?」
ここはエデンの牢獄なのだから、いるのは人間だけなのだと稲豊は考えていた。しかし、それが浅はかな思い込みであるということを、目の前の存在が物語っている。
微動だにしない男から一度も目を逸らさずに、稲豊は記憶の奥に封印していた忌まわしい記憶を掘り起こす。そして相手への、自分への確認の意味も込めて、稲豊は男の名を呼んだ。
「あんた…………『リード・ルード』……だろ?」
鱗に覆われた緑色の肌に、大きく裂けた口。
そして、猫を彷彿させる縦長の瞳孔。
一年前の、アリスの谷での記憶が蘇る。
当時、第三調査隊の隊長を担っていたリード・ルードは、あろうことか魔王軍を裏切りエデンに亡命。結果、レフトを含む多くの兵が犠牲となった。
だから稲豊は、憎むべき裏切り者の名をしっかりと頭の隅に刻み込んでいたのだ。いつか相まみえたのなら、グーでのパンチをいくつかお見舞いしてやろう――――と。
しかしいまの稲豊に湧く感情は、憎しみとはまったくかけ離れたものだった。
「……ひっ!!」
小さな悲鳴をあげ、稲豊は停止したリード・ルードの腕を振り払う。
そして可能な限りの距離をとったあとで、改めて彼の方へ目をやった。
二メートルを超す身の丈も、ずらりと並んだ鋭い牙も、一年前のまま。
だが、ふたつの大きな瞳はどちらも別の方向を向いていて、焦点が合っていない。舌はだらりと放り出され、素顔を稲豊に晒したというのに、眉ひとつ動いてはいなかった。
まるで薬物に侵されたときのような、呆けた表情。
リザードマンの特徴である長い尾に至っては、ついに見つけることが叶わなかった。
「おや? 顔見知りかね?」
驚愕する稲豊のとなりで、トロアスタがのんびりとした調子で訊ねた。
そして訊いてもいないのに、事情の説明を始める。
「一年くらい前だったかな? 彼はエデンに亡命してきてね。だがいかんせん、彼はあまりに人目につく見た目をしているだろう? ドワーフ程度なら人間に紛れ込むことも可能だろうが、リザードマンは扱いに困ってしょうがなくてね。だから――――――」
トロアスタはそこで一旦、あえて言葉を区切った。
そして稲豊の顔色をうかがったあとで、人差し指を自らのこめかみに当てる。
「魔法で脳を弄ってみたのだよ。早い話が実験台だね。まあ、結果の方は見ての通り。感情を無くし、私の命令をきくだけの人形となってしまった。どんな命令にも嫌な顔ひとつ浮かべんから、完全な失敗とも言い難いのだが。いやはや、脳というのは扱いが難しいものだね」
まったく悪びれることもなく、トロアスタは小さな笑みを混ぜながら話す。
それはまるで、食事中にスプーンでも落としたときのような軽さだ。
その軽さが、稲豊には信じられなかった。
リード・ルードのことはいけ好かなかったし、何より憎みもした。
そんな稲豊ですら、ここでの彼の扱いには同情を禁じえなかった。
尾も、感情も、そして魔物としての尊厳さえも奪われている。
それはこの世に生を受けた者への、冒涜以外のなにものでもない。
「……コイツは、あんたのことを信じて亡命したんじゃないのか? いままで暮らしてきた国を捨ててまで、あんたの命令に従ったんじゃねぇのかよ!! それを……こんな……こんな!! 命を弄ぶような真似をして、何が天使だ!!!! 何が神咒教教祖だ!!!! あんたを信じて救いを求めた者を、いったいなんだと思ってるんだ!!!!」
「魔物の教徒など、ただの便利な道具。それ以上でも以下でもない。君はもう使い道のなくなった道具をどうするかね? そのままゴミ箱に送るか、あるいは別の用途に改良するか。改良し使ってやってるだけ、拙僧は情け深いとは思わんかね?」
激しく燃え上がるような憤怒も、トロアスタの氷の心には響かない。
何を言っても無駄だと悟った稲豊は、静かな怒りの炎を燃やすことで、この理不尽な老人に対抗しようと思った。
『こんな野郎に……絶対に屈したりしない!!』
そう自身に誓うことこそ、いまの稲豊にできる唯一の攻撃だった。
「……反抗的な瞳、実によろしくないね。だが、いつまでその目ができるのか? 少し楽しみでもある。さて、本日の朝食は稲豊君の口に合わなかったようだ。下げてもらえるかね?」
トロアスタはくっくっと笑ったあとで、器を下げるようにリード・ルードに申し付ける。すると今しがたまで硬直していたリード・ルードは、まるでゼンマイを巻かれたブリキ人形のように動き出した。
落ちていた頭巾でまた顔を隠すと、床に転がったスプーンを拾う。
そしてまだ中身が残った器や皿を盆のうえに乗せ、調理場まで運ぼうと立ち上がる。
そのときだった――――――
「待てよ」
稲豊の右腕が、リード・ルードの左手首を掴んだ。
予想していなかった稲豊の行動に、トロアスタの表情に小さく困惑の色が浮かぶ。
そんなトロアスタの様子など意に介することなく、稲豊は次の言葉を口にした。
「誰がもう食わねぇって言ったよ?」
リード・ルードの手から無理やり盆をひったくると、稲豊はかいたあぐらの上に盆を乗せる。そして一息の呼吸も置くことなく、
「はぐ!! んぐ!!」
一心不乱に、器の中身を頬張り始める。
そんな稲豊の様子を、トロアスタは珍しく驚いた様子で眺めていた。
これからの拷問を思えば、魔素は少しでも多く蓄えた方が良い。
だがそんな理屈よりも、稲豊の口と腕を突き動かすのは、ただただ純粋な怒り。
目の前の老人に一矢報いるそのときまで、決して怒りの炎を絶やさない。
そういった決意表明。
稲豊はいつか訪れるであろう復讐のときを思い描きながら、柘榴色のシチューを飲み干すのだった。




