第237話 「天獄にて・・・3 彼の行方」
某日。
アート・モーロ市街――――――
雨が上がり、爽やかな光が町を照らす。
早朝なので気温は低めだったが、それでも外を歩けば少しの汗が浮かぶ。
そんな季節。
少々の強い日差しがあるにも関わらず、トロアスタはいつもの黒衣で身を覆い、のんびりとした足取りで目的地を目指していた。
そんなとき、ひとりの青年がトロアスタの前で足を止め、嬉々とした表情で話しかけてきた。
「大天使様! お目にかかることができ……光栄でございます!!」
「ごきげんよう。君は確かイース武具店の倅だったかな?」
「は、はい! 少しですが、軍に弓や槍などを提供させていただいてます! おれ……いえ私なんかを知っていただけて、その」
「イース武具店は軍の中でも評判でね。いただいた武具はとても重宝しているよ」
青年はさらに破顔し、何度も頭を下げ、その度に感謝の言葉を並べた。
トロアスタは「いやいや」と手を振り、
「お父上を大切にしなさい。君達にエデンの祝福があらんことを」
感謝を続ける青年に背を向け、亀の歩みを再開させる。
早朝の少し賑わいのある広場を抜け、大きな橋を渡れば周囲から民家の姿が消える。そこから植樹で満たされた一本道をさらにまっすぐ進むと、唐突に巨大な建物が姿を現す。
威圧感の漂う、堅牢な石造りの牢獄。
城ほどもあるその牢獄は、一般の者なら決して近づいてはいけない聖域。
入り口で見張る三名の屈強な兵士らが、聖域の物々しさを物語っている。
「トロアスタ様! 異常ありません!」
「よろしい。引き続き、警備をよろしく」
警備兵士たちの脇を抜け、重厚な鉄扉を潜る。
そしてトロアスタは迷路状の回廊を迷うこと無く進み、やがてひとつの独房の前で足を止めた。
「ご苦労だったね」
そう独房の中に声をかけると、中からふたりの白装束が現れる。
白装束たちは同時にトロアスタに会釈をすると、ひとりが「今しがた終わったところです」と疲れた声で告げた。
頭巾で隠され表情は見えないが、もうひとりの白装束からも隠せない疲労感が漂っている。トロアスタは小首をかしげ、どこか申し訳なさそうにふたりに訊ねた。
「そこまで酷くしたつもりはなかったのだがね」
「治療自体に手間はかからなかったのですが……」
「うん? 他に何か問題でも?」
「………………先ほどまで、アキサタナ様がこちらに」
トロアスタはすべてを察し、「……なるほど」と呆れた様子で嘆息した。
あのアキサタナのことだ。この独房が面会謝絶であることを知り、目の前のふたりにつける限りの悪態をついたことは、想像に難くなかった。
「対面させてはいないのだね?」
「看守長の自分になぜ面会できない囚人がいるのか? と激昂されてましたが……そこは申し付けられた通り、独房内には一歩たりとも」
「よろしい。本当にご苦労だったね。しばらく休憩を取るといい」
白装束たちはまた会釈をし、音もなく回廊へ消えていった。
トロアスタは彼らを見送ったあとで、静かに独房内へと足を踏み入れる。
そして開口一番、囚人に訊ねた。
「気分はどうかな? 腕利きが治療したので、爽快だと思いたいのだがね」
小さな独房の中央で、天井と地面から伸びる鎖に繋がれた囚人。
囚人の頭部には布袋がかけられ、その服は至るところに黒ずんだシミがつくられている。
「おっと失礼。いまは会話ができないのだったね」
トロアスタはそういって笑うと、おもむろに囚人の頭を覆っていた布袋を取り払った。するとそこには――――――
「……………………………………」
憔悴した表情を浮かべる、稲豊の顔があった。
ボサボサに乱れた髪に、薄汚れた肌。トロアスタを睨みつけてはいるが、口に装着された猿ぐつわのせいで、恨み言のひとつも呟くことはできない。
「これで……ヨシと。どうかな? もうそろそろ頭も冷えた頃ではないのかね?」
稲豊の両耳から濡れ綿を抜き取りながら、トロアスタは呆れた口調でいった。しかしそのままでは言葉が返ってこないので、猿ぐつわも取り払う。
ようやく目も耳も口も機能するようになった稲豊は、一度だけ大きく深呼吸してから、
「だから…………俺はなにも…………知らねぇ……って」
ここに来て何度いったか覚えていない台詞を、息も絶え絶えに口にする。
稲豊の懲りないその様子に、トロアスタは呆れを通り越して感嘆の息を漏らした。
「生爪剥ぎに耳削ぎ、鞭打ちに抜歯。修復魔法で元通りとはいえ、その年齢で経験するには耐え難い苦痛のはず。いままでよほど痛い目にあってきたようだ」
恐れ入ったと言わんばかりに、トロアスタは称賛の拍手を贈る。
そして嫌らしい笑みを浮かべたあとで、懐からふたつの蝋燭と、同じくふたつの五寸釘を取り出した。
「強い精神力は評価するがね、そこに意味などないよ。今日はこの道具を使って、君が自分から話したくなるよう尋問する。これらをどう使用するか、想像できるかね?」
「………………知る……かよ」
「まずこの釘を君の足裏から足の甲へ貫通するように突き刺す。そして貫通した釘へ蝋燭を立て、火を灯すのだ。するとどうなるか? 熱で溶けた蝋が傷口から君の体内に侵入し、内側から君の体を炙るのだよ。痛みだけでいえば、昨日の比ではないだろうね」
想像するだけで、足裏がジンジンと悲鳴をあげる。
しかし実際の痛みは、想像を絶するものに違いない。
憔悴した顔をしていた稲豊だったが、その表情は一秒も経たずに恐怖で歪んだ。
「私が尋問に設けてる『決まりごと』は三つある。ひとつ、食事は豪勢なものを用意する。ふたつ、尋問は日を追う毎に厳しいものへ。みっつ、尋問は最長でも六日間しか行わない。まあ、時に例外もあるがね」
「…………六日間……?」
「そう、六日間。すべての尋問に耐えきった者へは、その忍耐力へ敬意を払い、このタルタロス監獄からの解放を約束しよう。まあ、ほとんどの者がそうなる前に口を割るか、発狂するか、痛みでショック死するかだがね」
尋問が始まって、今日で二日目。
あと四日という時間制限は、希望の光にほかならない。
この地獄の終わりが見え頬を緩ませた稲豊だったが、それはすぐに消滅した。トロアスタの持つ釘と蝋燭が、意図せず視界に入ったからだ。
昨日の拷問でさえ、恐ろしいほどの苦痛を伴った。
今日の拷問は、その昨日の苦痛を遥かに超えたものだろう。
そして明日の拷問は、今日の苦痛をも凌駕するに違いない。
そんな地獄を想像していた稲豊は、ふと思い出したように面をあげた。
「なぁ…………アダンさんは……どうなったんだ?」
「はて? そんな名前の知り合いはいたかな」
「俺と……一緒に住んでた人間の名前だ! 知らねぇとは言わせねぇぞ!」
稲豊の訴えも虚しく、トロアスタは小首を傾げとぼけた顔をした。
そのからかうような仕草に神経を逆なでされた稲豊は、怒号にも近い声で再び訊ねる。
「黒髪に無精ひげ、四十代ぐらいのブラウンの瞳をした人間だ!! 俺と一緒にあの家に住んでたんだ!! 俺を捕まえたお前たちが知らないわけねぇだろうが!!」
「……ああ、そういえばそんなのもいたっけね。担当ではないので、拙僧の与り知るところではないがね」
「嘘をついてんじゃねぇ! どうせアダンさんも、この監獄の中にいるんだろうが!」
稲豊には、アダンの所在について確信めいたものがあった。
それは投獄初日を思い返せば、容易にできる想像だ。
「俺がここにぶちこまれた日、隣の独房から誰かの呻き声が聞こえた……。あの声の主は、アダンさんだったんじゃないのか? もしそうなら、なんで今は声が聞こえない? アダンさんに何をした!! 無事なんだろうな!!!!」
アダンは危険な任務を一緒に担った、謂わば戦友のようなもの。
彼がいまどこにいて、どんな状況に陥っているのか?
気にならないはずもない。
しかし敵意を燃やす稲豊とは対照的に、トロアスタの反応は極めて冷ややかなものだった。
「よしんば稲豊君の言ってることが正しかったとして、それを私が君に教えると思うかね? 君は捕虜で、拙僧は尋問官なのだ。仲間の所在がどうしても気になるというのなら、まずは君の方から包み隠さず話すことだね。拙僧も鬼ではない。君の態度によっては、教えてやらんでもないよ?」
百戦錬磨の尋問官が、安い挑発に乗るはずもない。
稲豊は下唇を噛み、ただただ目の前の老人を睨みつけることしかできなかった。
それを見かねたのか、トロアスタがやれやれと頭を振る。
「そう気にせずとも、すぐに会うことはできるとも。彼はそう遠くない場所にいるだろうからね。さあ、この話はここまでにして、朝のブレイクタイムと洒落込もうじゃないか。君にとって、心が休まる唯一の時間だ」
我に返った稲豊が独房の入り口へ目を走らせると、ちょうど食事が運ばれてきたところだった。食事を運ぶのは、いつもと同じ黒装束の大男だ。
大男はいつもそうするように胸のポケットから鍵を取りだすと、ひとことも発することなく稲豊の手枷だけを外す。
「…………やっと飯か」
修復魔法だけでなく治癒の魔法も施されたので、手首には腫れも痛みもない。腕が自由になった喜びを噛み締めながら、稲豊は盆に置かれたフォークに手を伸ばした。
本日の朝食は目玉焼きとコッペパン、新鮮な野菜のサラダ。
そして、柘榴色をしたシチュー。
どれも味は素晴らしく、トロアスタの言った通り、これがこの監獄内で唯一の癒やしの時間であることは否定しようもなかった。いまだけは何も考えず、ただ舌鼓を打てばいい。このあとに酷い拷問が待ち受けていようとも、この瞬間だけは永遠に違いないのだ。
「ん?」
濃厚で、少しとろみのあるシチュー。
野菜がたくさん入っていることがまた喜ばしいのだが、この数口目だけは少し違った。ちょっとした違和感のある食材に、舌が触れたからだ。
人参のような歯触りはなく、かといって芋のような舌触りもない。
コロコロと舌の上で転がる感触から、角張った食材でないことは明らかだ。
どこか艶めかしい奇妙な舌触りは、例えるなら表面の滑らかな玉こんにゃく。
飲み込んでしまおうかとも考えた稲豊だったが、そこは料理人としての好奇心が待ったをかける。結局、稲豊はソレをスプーンの上に吐き出すことにした。
「なん…………だ……コレ?」
稲豊は最初、それが何かわからなかった。
球体で、つるつるし、光沢をもっていて、白く、かといって白一色というわけでもない。球体の中央には、深い――――――
「うわぁああぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁああああああああぁああああ!!!!!!!!!!!!!!!!」
頭が理解するより先に、体が早く動いた。
汚らわしいものが触れたときのように、稲豊はソレごとスプーンを壁に放り投げる。
するとソレはとくに形を崩すことなく、コロコロと石畳の上を転がった。
そこでようやく、稲豊の脳はソレがなんであるかを理解する。
「め…………めだ…………ま……?」
稲豊の頭の中を、先ほどのトロアスタの言葉が反復する。
『彼はそう遠くない場所にいるだろうからね』
石畳の上から稲豊を恨めしそうに見つめるソレは――――――深いブラウンの瞳だった。




