第235話 「天獄にて・・・2 名前の由来」
両羽に黒い髑髏の紋様を持つ蝶は、稲豊の肩で悠々自適に羽を開閉させている。その堂々たる姿に、稲豊は畏怖の念を抱かずにはいられなかった。
「な、なんなんだよそいつは!? いったい……いつから俺の肩に!?」
「十分ほど前からかな。君がすやすやと眠っていたので、『彼』に仕事をしてもらった。君は知らないと思うが、昨日も目覚める前には彼がとまっていたのだよ?」
「昨日も……? い、いやそんなことはどうでもいい! その蝶はなんだ? 仕事ってのは……いったいなんなんだ?」
不吉な模様の蝶を、不吉な人物が操っている。
その事実だけで、嫌な焦燥感がじわりじわりとにじり寄ってきた。
そんな稲豊の心の内を知ってか知らずか、トロアスタはにやりと口角を持ちあげる。
「心配せずとも、命に関わるようなものではないよ。この子は『セイモンシロチョウ』といってね。シモンクロチョウの研究の副産物だが、少し面白い性質を持っている。セイモンシロチョウに魔素を吸われると、体内の生門を開くことができなくなるのだよ」
「生門が……開けない!?」
生門とは文字通り、生き物の心臓部にある魔素を取りだすための門だ。
この門を開くことで、魔素は初めて魔法へと昇華する。
魔法を使うために必要不可欠なものが、『生門を開く』という過程なのだ。
「だから俺は……魔法が使えなかった……?」
「数分も魔素を吸われれば、半日は魔法を使うことができなくなる。おわかりかね? 君はもはや、ただの人間……いや、人間以下というわけだ。脱走などという夢は早々に諦め、迅速に我々に協力してもらいたい。それが互いのためだと思うがね」
「……………………」
魔法があまり使えない稲豊でも、時間をかければ魔法で枷を外すことはできただろう。だがその希望は露となって消え、自力での脱走という可能性は、限りなく0に等しい。
かといって、ルートミリアらを裏切ることなどできない。
だから稲豊は無言で、トロアスタを睨みつけることしかできなかった。
「こちらは君のためを思って提案しているのだがね。まあいい、とりあえず一時休戦といこう。そろそろ腹の虫が鳴き出す頃合いだろう? 食事にしようじゃあないか」
「食事?」
ずっと緊張に晒されていたので、食事と聞いた瞬間、稲豊の腹が鳴き声をあげる。その音を聞いたトロアスタは小さく笑ったあとで、両手を軽く二度鳴らした。
すると一分も経たないうちに、廊下の奥から黒装束の男が現れる。
男の手には作りたての食事がのせられた、銀色の盆が握られている。
「で、でけぇ……」
男は全身を黒い装束で覆われている。
頭と顔は頭巾で隠され、指先さえ手袋のせいで確認できない。
分かるのは二メートルを越す身の丈と、服越しにも伝わる屈強な体格のみである。
「手枷のみ外してあげなさい」
トロアスタが命令すると男は盆を床に置き、ひとことも発することなく、胸のポケットから取りだした鍵で稲豊の手枷を外した。
「……いつつ」
真っ赤になった手首を擦りながら、それでも両腕が自由になった喜びを噛みしめる。一瞬だけ抵抗を考えた稲豊だったが、その考えはすぐに頭から消した。まだ足枷がついているうえに、手枷と足枷が共同の鍵だという確証もない。
そもそも、屈強な男から鍵を奪う力が稲豊にはなかった。
「ここのコックが腕によりをかけた料理でね。味の方は保証しよう」
「じゃあ……遠慮なく」
ふたりに見られながらというのが気にはなったが、羞恥心よりも空腹の方が勝った。盆の上にはふたつの皿とひとつの器があり、皿には一口サイズに切り分けられたステーキと、バタール型のパン。器は淡黄色のスープで満たされている。
食欲をそそる香りに誘われた稲豊は、盆に無造作に置かれたフォークを掴むと、迷うことなくステーキを口の中へ放り込んだ。
「我が監獄、自慢の料理は如何かね?」
稲豊はトロアスタの質問に答えなかった。
それは料理の味があまりに酷いので返事をしなかった――――のではない。
むしろ逆。
想像を超えるほど美味だったので、思わず言葉を失ってしまったのだ。
「これ……本当に監獄のコックが?」
「もちろん。正真正銘、この監獄で作られた食事だよ。普段よりも豪勢なものだとは認めるがね」
噛めば噛むほど肉汁のあふれでるステーキは、その滴ひとつひとつに濃厚な旨味が凝縮されている。外はカリカリ、中はもちもちという絶妙な焼き加減のパンは、薄味なので肉との相性は抜群。そしてパンで乾燥した喉を潤す役目なのが、ステーキ肉に負けずとも劣らない芳醇な香りのスープだ。薄切りにされた茸と山菜の浮かぶスープは、見た目の色彩の薄さに反して、しっかりとした味わいで稲豊の腹と舌を満たしていった。
これほどの食事は、魔王軍幹部とておいそれとありつけるものではない。
現在、モンペルガにある最高の食材のすべてを集めたとしても、これほどの味を再現はできないだろう。
そんなある種の絶望を感じさせるほど、稲豊がいま口にしている食事は、魔王国での食事とかけ離れていた。
「――――――ん?」
複雑な心境で食事を口に運ぶ稲豊だったが、数口目である違和感に気がつく。
本来ならもっと早く気づくべきなのだが、目の前の食事に心を奪われ、思考が阻害されていた。
なにはともあれ、少しの冷静さを取り戻した稲豊は、違和感の正体にすぐに思い至る。
『これ…………なにを使っているんだ?』
普段の稲豊ならば、ありえない感覚。
いや、普通の人間ならば、そもそも持っていなかった感覚。
稲豊はいま、食べた物が普通にわからなかった。
「なんでだ……? なにも……わからねぇ……」
もちろん、食べている物が肉やパンなのは知っている。
稲豊がわからないのは、その種類。
そして、それらに混ぜられている、あるいは塗されている調味料。
魔神の舌で判明する情報のすべてが、まったく伝わってこなかったのである。
「なに、驚くほどのことではないよ」
頭上からしわがれた声が聞こえ、稲豊はハッと面をあげる。
そこには、得意気に笑うトロアスタの顔があった。
「君が舌の能力を使用するとき、無意識のうちに生門の魔素を使っていたのだよ。生門が閉じられたいま、君の舌はもう普通の人間と変わらないということだね。まあ、安心したまえ。そんな能力を使わずとも、変なものなど入れてはおらんよ」
トロアスタはからから笑うと、手のひらを差しだして稲豊に食事の続きを促した。
魔神の舌がないと、途端に目の前の食事が怪しく見えてくる。
『毒が効かない』という保険があったからこそ、稲豊は出された食事に食らいついたのだ。
しかしいまや毒の有無どころか、どんな食材と調味料を使われているのかもわからない。疑ってしまえば、ステーキ肉は馬のようにも、豚肉のようにも感じられた。
「…………ちっ」
しばらく悩んだのち、稲豊は結局、食事を再開した。
もうすでに口にしていたということもあったし、何より脱走にも体力は必要だ。いつか必ず訪れるであろう脱走の機会に備え、稲豊は虎視眈々と料理を口に運んでいった。
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「はぁ……また吊るされんのね」
食事が終われば、大男に再び手枷をつけられる。
やがて食事前と同様に吊るされた稲豊は、それでも満たされた胃袋の幸福感に酔いしれていた。
「うん?」
食事の余韻を楽しんでいた稲豊の足元に、大きめの布袋がひとつ投げられる。
いくつかの金属音が鳴るそれは、大男がトロアスタの指示で持ってきたものだ。
無粋な金属の音色のせいで、食事の余韻が急激に冷めていく。
稲豊は怪訝な顔でトロアスタに訊ねた。
「なんだよそれ? まさかこの状態の俺に、使った食器を片付けろってんじゃねぇだろうな?」
軽口を叩き笑った稲豊だったが、トロアスタは釣られて笑いはしなかった。
先ほどまでの好々爺といった雰囲気は鳴りを潜め、鷹のように鋭い眼差しで稲豊の瞳を見つめ返す。
「例外も稀にあるが、入獄当日は囚人を優遇するのがここの決まりでね。それは好きな書物を読むことだったり、豪勢な食事をとることだったりと、まあ囚人によって待遇は違ったりするわけなんだが……」
若干、歯切れの悪い――――というより、霞がかったような物言いをするトロアスタ。話の先が見えず、稲豊も曖昧に「……はぁ」と返事をすることしかできなかった。
だが大男の手により布袋の中身が露呈されていくに連れ、トロアスタの言葉の真意が明らかになっていく。
「それは言うならば我々から囚人らへの慈悲であり、同時に免罪符にもなる。つまり、咎人に慈悲を与えたのだから、そこから先の仕打ちは、神も目を瞑ってくださるだろう――――とね」
トロアスタの口元が残酷に歪む。
だが稲豊の視線を釘付けにしたのは、不吉な老人の表情ではなく、その足元。
床に無造作に並べられた、いくつもの『器具』たちの姿だった。
大工道具の鉋のような物もあれば、返しのついた長い鉄棒もある。他にもいろいろな器具が置かれてあるが、稲豊がかろうじてわかるのは、五寸釘やハサミといった工具だけ。しかし、その器具たちを何に使うのかだけは、容易に想像できた。
「……じ、時間の無駄だぜ? どれだけ訊かれようと俺は何もし、知らねぇんだからな! あんたの欲しい情報なんて、おれ、俺は」
荒くなる呼吸と震えのせいで、上手く舌が動いてくれない。
そんな稲豊の姿を、トロアスタはさも愉快そうに眺める。
「心配せずとも、今日一日は君だけのために時間をとってあるとも。訊きたいことは山のようにあるのでね、ゆっくり時間をかけて『会話』を楽しもうじゃあないか。最初はどれからが良いかね? 特別に君に選ばせてあげよう。まあ、見た目と痛みが比例しない器具も中にはあるがね」
「ふ、ふざけんな! そん……そんなの選べるわけが……」
そう口にしながらも、稲豊の瞳はより痛みが軽く、より傷が残りにくい器具を探し始めていた。だがどれだけ眺めたところで、結論は同じ。
どの拷問器具だって、想像を絶する痛みを伴うに違いない。
「私はね、昔はただの『トロアスタ』だった」
いきなりそう告白され、ただでさえ混乱している稲豊の頭が、さらに混沌となった。だがトロアスタは、まったく意に介さない様子で話をつづける。
「昔は今ほど囚人の扱いが厳しくなくてね、口を割らない生意気な囚人も数多くいた。そこで私がここに派遣されることになったのだが……いやはや。私が拷問に携わると、囚人たちが次々に我儘を口にし始めてね。それが何かわかるかね?」
わからない。
わからないはずなのに、稲豊の背中には止まることのない悪寒が流れ、全身に氷のように冷たい汗が浮かぶ。
もはや焦燥感などではない。
これは警鐘。早鐘のように鳴る心臓が、脊髄を走る痺れが、いまだかつてない危機を稲豊に訴えている。
「君が恐らく恩恵を受けたであろう治癒や修復といった残酷な魔法のせいで、彼らは死ぬことも許されない。だから囚人たちは口を揃えて、私に殺人を注文するのだよ。それからだ、私がマーダーオーダーを名乗り始めたのはね。さあ、君はいつ私に『殺してくれ』と注文するのだろうね?」
愉悦の表情を浮かべながら、トロアスタは再び口元を残酷に歪めた。




