第234話 「天獄にて・・・2 白い蝶」
某日。
タルタロス監獄――――――
石畳を這う小さな虫がなにかの拍子に足に飛びつき、一心不乱に人体をのぼる。そのこのうえなく不快な感触によって、稲豊は強制的に現実へと呼び戻された。
「あ? は…………む、虫!? こ、こら!! あっちいけ!!!!」
全力で体を揺すり、胸の部分まで迫った気色の悪い虫を振りはらう。しばらく二十本の脚でしがみついていた虫だったが、やがて勢いに負け飛んでいった。石畳の上にぽとりと落ちた虫は、やがて稲豊に興味を無くしたようにどこかへ去っていく。
安堵の息を吐いた稲豊は、そこでようやく自分が置かれている状況を思い出すのだった。
「そうか……そうだった。俺ってエデンに……捕まったんだよな」
気づいてしまえば、枷をつけられた手首の訴えが神経を通じて脳に届く。ずっと体重がかかっていたことにより稲豊の両手首は赤く腫れ、じんじんと鈍い痛みを放ちつづけていた。
反射的に自分がどれだけの時間ここに吊られていたのか気になった稲豊だが、数秒後には項垂れて嘆息する。
この牢屋の中には、時間を確認するものなど何一つとして存在しない。
「窓もねぇから、いまが朝なのか夜なのか……それすらわかんねぇ」
空腹具合から早朝ではないかと推測するが、その推測になんら意味がないことを悟ると、稲豊はすぐに考えることをやめた。
「となりの声……聞こえねぇな」
この監獄で目を覚ましたとき、トロアスタと簡単な会話を交わした。
しかしすぐにトロアスタは姿を消し、特に尋問のようなものは行われなかった。
その代わりに、稲豊のとなりの房から定期的に苦悶の声が響いてきていたのだ。
だが今日はどれだけ待ってみても、物音ひとつ聞こえてはこない。
まるで生きとし生けるものが、まったく存在していないような静けさだった。
「まさか……殺されたなんてこと…………」
苦痛の声はもちろん耳心地の良い音ではなかったし、中での出来事を想像すれば恐怖も覚えた。しかし同時に、自分と似たような境遇の者がいるのかと、少し頼もしくあったのだ。
「――――――まさか、我々がそんな残酷な人間に見えるかね?」
しわがれた声がとうとつに響き、稲豊はびくんと体を反応させた。
そしてゆっくりと顔を正面へと向け、檻の前で佇むひとりの老人を視界に捉える。
「トロアスタ……!」
見間違えるはずもない。
そこにいたのは昨日も見た顔。憎き敵の姿だった。
「君は大切な客人だ。丁重に饗させてもらうとも」
黒衣の老人……トロアスタは牢屋の鍵を開けて、手の届きそうな距離まで稲豊の側へと歩み寄る。
「機嫌は如何かね? 狭苦しい場所で申し訳ないが、これでもこの監獄の豪華客室でね」
「これがスイートルーム? ダブルベッドとオーシャンビューを用意してから言えってんだよ。この拘束のせいで、背中すら満足にかけやしねぇ。居心地が悪くてしょうがねぇよ」
「枷を外したいのなら、すべてを吐き出すことをお勧めする。えー、志門稲豊……ソトナ……異世界人、なんと呼べばよいのかな?」
「…………好きに呼べよ」
「では魔王軍大将の専属料理人の稲豊くん。昨日も伝えたことだが、敢えてもう一度問おう。どんな些細な情報でも構わんから、拙僧に話してはもらえんかね? 我々に協力すると誓うのであれば、すぐにでもこの拘束は解いてしんぜよう。どうかね?」
柔らかな物腰で、しかし鋭い瞳のままでトロアスタが訊ねる。
その瞳の奥に影を感じた稲豊は、提案を言葉通りに受け入れる気にはどうしてもなれなかった。
だがもしトロアスタの言葉が真実であったとしても、稲豊は首を縦に振らなかったに違いない。ルートミリアたちを裏切るには、稲豊はもう魔物側に染まりすぎていた。
「アンタは何人ものスパイをモンペルガに送り込んでんだろ。だったら、俺の持つ情報なんて必要ないんじゃねぇのか?」
「それがそうでもないのだよ。たしかに私は蛇を何匹か飼ってはいるが、どれも魔王軍の深奥までは辿り着けていなくてね。鮮度と質の良い情報はね、あまり入ってこんのだよ」
「じゃあ、ウルサのヤツに訊けばいいだろ。俺よりよっぽど当事者じゃねぇか」
「彼女にも既に訊いてはみたがね、答える気はないそうだ。亡命を選択したとはいえ、我々のことをそこまで信用はしていないようだね。まぁ、それが彼女との『契約』でもあるのでね、仕方ないのだが……」
深い溜め息を吐きながら、トロアスタは「やれやれ」と首を振る。
「我々に協力するもしないも君の自由だが、反抗しても君の得にはならんと思うがね。この牢獄はちょっとした迷宮になっていて、構造を熟知していなければ救出はもちろん、脱出も困難。そもそも、この部屋を出ることさえ君には難しいだろう。拘束して半日以上、もう色々と抵抗を試みたのではないのかね?」
稲豊は苦々しく表情を歪ませた。
敵に捕まったので、大人しく運命を受け入れる。
そんな物分りの良さが稲豊にあろうはずもない。
監視の目がないのをこれ幸いと、枷を外すために思いつく限りの手段を試してみた。その結果は――――
「君がまだここにいることが、すべての答えではないのかね? いままで大勢の罪人がここに収監された。そのなかには、名のある魔道士もいた。だが君にとって残念なことに、この迷宮監獄はいまだかつて、ひとりの脱走者も出していない。脱出は不可能だ」
「…………チッ」
舌打ちした稲豊は、自分を縛りつける枷を忌々しそうに睨みつけた。
この枷を外さなければ、脱出の糸口を探すことすら叶わない。枷を外して、初めて脱走という希望が見えてくるのだ。
だが枷を外すのにもっとも有効……かつ、手軽に行える『魔法での除去』という手段。それはいま、完全に封じ込められていた。
「魔法を使って脱出……なんて考えは捨てることだね。『それ』がいる限り、魔法はいまや絵空事だ」
「それ?」
トロアスタの視線の位置に少しの違和感。
自分の方を向いているはずなのに、うまく視線が交差していない。
稲豊はトロアスタが何を見ているのか、首を動かしてその視線の先を探った。そして、見つけてしまう。
「…………なんだ……これ?」
自分の左肩で、何かが動いている。
それが触覚だと気づいたとき、稲豊は反射的に体を揺すった。
先ほどの虫が、再び体をのぼってきたのかと思ったからだ。
だが違った。
虫は虫でも、左肩の虫には白く大きな羽根が生えていた。
「もういいだろう。さあ、こちらへおいで」
トロアスタが優しく語りかけると、左肩の虫は勢いよく飛び立ち、差し出されているトロアスタの手のひらの上に収まった。そこでようやく、稲豊はそれが白色の蝶であることを知る。
白羽に黒い髑髏の紋様を持つ蝶は、トロアスタの体の一部に組み込まれたような不気味な静けさで、ずっと稲豊を見つめつづけていた。
そして――――稲豊は思い知らされる。
この眼の前の蝶に止まられるくらいなら、先ほどの虫に集られた方が百倍はマシだということを。




