第231話 「出征前夜」
「………………つ~……ぅぅ……!」
ソフィアが自分の額を両手で押さえて蹲ったのは、王女姉妹だけで構成された作戦室内での出来事だった。そんな彼女の正面で仁王立ちするのは――――
「……もう一度だけ確認するが、先ほどの言葉に嘘偽りはないのじゃな? まことのまことに、シモンの心の中には父上が……魔王の魂が存在しておるのだな?」
「つつッ――――あ、ああ。生まれ変わりという表現には語弊があるかもしれないが、兵士たちを説得するには他に方法を思いつかなかったんだ。父上の魂は、確かにイナホの中に存在してる。…………つ~……」
赤く染まった額を右手で擦りながら、ソフィアが立ち上がった。
涙が少し滲んだ瞳は、眼前のルートミリアへと向けられている。
「す、少しやりすぎなのでは? ソフィア姉さんも悪気があって隠していた訳じゃないでしょうし……」
クリステラが同情の眼差しを浮かべるが、ルートミリアの怒りは収まりそうもなかった。
「痛覚を三倍にしたとはいえ、ただのデコピンのどこが『やりすぎ』なのじゃ。マリーにやらせないだけありがたいと思え。マリーのデコピンならば、岩くらい軽く割るぞ」
「……ウチのこと化物みたいに言うんのやめてくれる?」
鼻息を荒くしたルートミリアが、大将の椅子にどっかと腰を下ろす。
それからため息をひとつ漏らしたあとで、再びソフィアの方を見た。
「妾とてそこまでアホウではない。お前が姉妹のことを想って秘密にしたということぐらい、とうに理解しておるわ。父上の魂の存在が明るみになれば、姉妹でシモンの奪い合いに発展するのは必定。一致団結しなければならぬ現状じゃ、下らぬ諍いはしないに限る」
「そこまで分かっているのならぁ、ルートミリアお姉さまはどうしてそこまでご機嫌ナナメなのかしらぁ?」
「……妾が気にいらんのはだな、それを妾にまで秘密にしておったことじゃ! シモンを見つけたのは妾で、シモンを料理人として起用したのも妾じゃ! 妾だけには、教えてくれても良かったではないか!」
円卓をドンと叩き、不満を訴えるルートミリア。
ヒートアップする彼女と違って、周りの王女姉妹の反応は冷ややかなものだった。
「なんや、ただ拗ねとるだけやないか」
「大人げないかしらぁ」
「うるさい! 逆になんでお前たちはそんなに動じておらんのだ!? あれだけ帰りを待ちわびた父上が、魂魄となって戻って来たのだぞ? なんかこう……あるじゃろう!?」
ひとりだけ温度の違うルートミリアが困惑した様子で訊ねるが、他の姉妹たちは顔を見合わせて、苦笑するだけだった。
「そないなこと言われても、なぁ?」
「ええ。アリステラわぁ、お父様だってずっと信じてましたからぁ」
「私もアリスと同意見です。お父上はお父上ですので」
達観した様子の妹たちを見て、ルートミリアはぐぬぬと悔しそうに奥歯を噛む。そんな長女の姿に罪悪感を抱いたソフィアは、フォローを入れることにした。
「いや、ルト姉さんが不満を感じるのも当然だ。オレは姉妹の確執を生まないために、この事実をひた隠していた。でも……多分それは建前。オレはきっと心のどこかで、父上を独り占めしたかったんだと思う。バカな話だけど、こんな状況になって……初めてそれが分かった」
ソフィアは皆へ向けて、「ごめんなさい」と頭を下げた。
いつも感情を表に隠してきた彼女の、悲しい瞳が心を抉る。
他の姉妹たちの責めるような瞳も相まって、ルートミリアの立つ瀬が加速度的になくなっていく。数秒後、そんな空気に耐えられなくなったルートミリアは、咳払いをひとつこぼしてから言った。
「も、もうよい。すべては終わったことじゃ。いま必要なのは、懺悔でも後悔でもない。絶対に救出するという、確固たる決意がこの作戦には必要不可欠なのだ。万全の態勢で挑んだ前回と違い、今回はより厳しいものになるじゃろうからな」
「準備だけではありませんわぁ。前のときにはあった『心の支え』が、今回はないのですから……」
アリステラは寂しげに言い、円卓の上に置いてあった黒色の鞄に視線を向ける。いろいろな調理道具が収まったそれは、稲豊がいつも愛用している料理鞄だ。誰かに間違って使われるのを嫌がったマリアンヌが、調理場から持ってきたものである。
しばらくの間、皆の憂いを帯びた視線が料理鞄に注がれる。
やがて鬱屈とした空気をかき消すように、ルートミリアが静かに口を開いた。
「取り戻すぞ…………絶対にな」
ルートミリアの言葉に賛同の声を発する者はいなかったが、それは他の王女たちが否定的だったという意味ではない。ただ単純に、声に出す必要すらない当然のことだっただけである。
そしてそれを物語るように、他の王女たちは静かに、だがしっかりと頷くのだった。
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同時刻――――――
魔王城の地下にある牢獄では、ふたりの男が鉄格子を隔てて向かいあっていた。
神妙な面持ちの檻の中の男と違い、檻の前にいる男は憔悴しきった表情を浮かべている。
「………………なぜ、こんなことを?」
長い沈黙のあとに、檻の前にいる男――――――ネロが訊ねる。
すると牢屋の中で正座をしていたパイロは、
「……なんのことだ?」
ひとつ嘆息してから、白を切るように言った。
どこか他人事のような物言いに、ネロの神経が逆撫でされる。
気がつけば、ネロは血を分けた実の兄弟を睨みつけていた。
「決まっているじゃないか! なぜ……どうして裏切るような真似を? なんでエデンの犬なんかに成り下がってしまったんだ!!」
「言っただろ? オレは神咒教徒で、トロアスタ様の――――」
「そんなことが聞きたいんじゃない! 僕が聞きたいのは、兄さんの本心だ! 何をどう考えて、どんな風に悩んで、この結論に至ったのか! 取ってつけたような言葉ではなく、兄さんの言葉で語って欲しいんだ!!」
ネロには、どうして兄がエデンの間者になってしまったのか、どうしても納得がいかなかった。パイロが神咒教徒になったことが分からないのではない。父親や非人街の住民たち、そして自分や稲豊の努力を目の当たりにしながら、なぜいまも裏切り続けられたのか理解できなかったのだ。
心を動かされるようなことはなかったのか?
現在に至るまでに思い直そうとは考えなかったのか?
悔しさと悲しさの入り混じった声で、ネロは兄に訴えかける。
しかし、パイロは表情を少し歪めただけで、逆にネロの瞳を睨み返した。
「…………オレたちは人間で、ここは魔物の国だ。オレが人間側のエデンに味方することは、ごく当たり前のことだろ。お前の方こそどうかしているんじゃないのか? お前はいったい人間と魔物、どっちの味方なんだ?」
「ぼ……僕は…………」
パイロに言われて、ネロは初めて気がつく。
最初はただ仕方なく魔物に使われているだけだったのに、ルートミリアに好意を持ち、仲間たちと切磋琢磨しているうちに、いつの間にか『その暮らしも悪くない』と考え始めている自分がいた。
自分が人間側の思考をしていたのなら、兄を非難していただろうか?
その答えは、すぐに見つかりそうになかった。
「わからない……。でも、いまの兄さんの行動が正しいとも思えない。兄さんのせいで、イナホはエデンに捕まってしまった」
「イナホには悪いと思っているが、トロアスタ様は『命を奪うような真似はしない』と約束してくれた。案外、今頃はVIP待遇の良い思いをしてるのかもしれないぜ?」
「じゃあ……父さんはどうなんだ? 父さんはここではない別の牢獄に入れられた。これも兄さんの望みだって言うのか? 例え罪に問われずとも、息子が裏切り者だったと分かったときの父さんの気持ちや、立場のことを……兄さんは少しでも考えたことがあるのか?」
父であるオサのことを訊ねられ、パイロは初めてばつの悪そうな表情を浮かべた。しかし、言い訳も開き直りの言葉もなく、再び沈黙の時間が訪れる。
やがて痺れを切らしたネロは、パイロに背を向け、言い放つ。
「例え兄さんがエデンの味方をしたとしても……僕は僕の信じる道を行く」
牢獄の入り口へ向けて、ネロは歩き始めた。
鉄格子の隙間から顔を覗かせたパイロは、少しずつ遠くなっていく弟の背中を、信じられないといった様子で見つめる。
「まさかお前……この戦に参加するつもりじゃないだろうな? やめておけ。もしそれがエデンに知られたら、お前はもうエデンに戻れなくなる! もう二度と、人間として生きることができなくなるんだぞ!!」
パイロの忠告は、凡そ正しいものだった。
もしエデンが魔王国との戦に勝利したならば、進んで魔物に協力していた人間は、極刑を言い渡されてもおかしくはない。
しかしネロは立ち止まりも、振り返りもせず、迷いを断ち切るように言った。
「僕が味方するのは、人間でも、魔物でもない。僕はルートミリア様を信じる。彼女を支えることがエデンに弓を引く行為だと言うのなら、それでも構わない。僕はもう二度と、彼女を裏切るつもりはない」
「おい! 待て!!」
必死の説得にも耳を貸さず、ネロは牢獄を去っていった。
パイロは「勝手にしろ!」と怒りにまかせて鉄格子を蹴ったが、鈍い金属音が虚しく反響するだけ。
すると金属音の木霊が鳴り終わったのも束の間、パイロの檻の前にひとつの影が現れる。
「お前は――――」
「よぉ、大将。思ってたより、元気そうじゃねぇか」
驚いた様子を見せるパイロの前に立っていたのは、右手に酒瓶を持ったターブだった。
ネロと入れ替わるようにやってきたオークのターブは、「取り込み中だったか?」と誂うように笑う。だからネロも、「別に」と敢えてつれない返事を返した。
「……それで、こんな所までなにしに来たんだ? 悪いが護衛料なら払えねぇぜ。見ての通り、もうその必要もなさそうなんでな」
「こっちだって明日の朝には出征の身だ、そこまで暇じゃねー。これが最後になるかもしれないんでな、雇い主の顔を見に来てやったってわけよ」
ターブはどすんと床に腰を下ろすと、どこからともなく、ふたつグラスを取りだした。そして両方のグラスをヒャク酒で満たし、そのうちのひとつを格子の隙間からパイロへ差しだす。
「牢屋番の許可はとってるからよ、遠慮なくやってくれ。お前がヒャクを卸してる店から買ってきたヤツだ」
「…………いつになく気が利くじゃないか」
グラスを受け取ると、パイロは一息に酒をあおった。
鬱屈とした心のモヤモヤが、酒が身体に染み渡るのと同時に浄化されていく。
それを見届けたあとで、ターブも続いてグラスの中身を飲み干した。
「オレ様は自分で言うのもなんだが、味にゃうるさい方だ。そのオレ様も、この酒だけは認めざるを得ねぇ。さすが王族御用達の店だ。良い素材しか扱ってねぇな」
ターブは満足そうに頷き、腰を上げる。
そして自分の使っていたグラスをズボンのポケットにしまい込むと、徐ろに口を開いた。
「大将、あんた魔物が嫌いか?」
「………………」
想像していなかったターブの問いに、パイロはなんと答えれば良いのかわからず、言葉を返すことができなかった。
しかしそんな反応を予想していたターブは、
「オレ様も人間って生き物が嫌いだ。関わると、ろくな目に合わねぇことの方が多いからな。弱っちいくせにしぶとい奴もいれば、馬鹿みてぇにつえー奴もいる。ヒャクをちょっとつまみ食いするだけで怒るくせに、良いのができれば譲ってくれる。そんな変わり者もいる」
「………………」
「でもよ……大将のそういう人間くせーところ、オレ様は嫌いじゃなかったぜ」
ターブはパイロを一瞥してから、その場をあとにする。
そして去り際に一度だけ足を止め――――――
「そういやぁ、あんたが騙してた人間……もしかしたらとんでもねぇ奴だったのかもしれねぇぜ?」
そう言い残して、今度こそターブは牢屋をあとにした。




