第229話 「朱色の笑顔」
胸中を吐露し、涙も尽き果てたルートミリア。
胸を貸してくれたミアキスに礼を言い、気丈にも面を上げる。
予期しない来訪者が現れたのは、そんなときだった。
「少しだけ時間をもらえるかい? 会わせたい者がいるさね」
大きな羽を羽ばたかせてどこからともなく現れたバーバラは、簡単な挨拶を済ませたあとでそう口にした。彼女がどこか深刻な表情を浮かべていることから、それが朗報でないことは誰の目にも明らかだ。
「よい」
だが重要な話であればあるほど、避けて通れなくなる。
大将という立場の重さを肌で感じながら、ルートミリアは二つ返事で了承した。
「ミアキスも一緒でかまわんかの?」
「指名は大将さね。でも、扉の前までならかまわないよ。さあ、目的の場所はこっちに…………ん?」
バーバラが案内を開始しようとすると、おもむろに見晴台の扉が開く。
そして皆の集中する視線のなかに躍りでたのは、ルートミリア同様に目を赤く晴らしたマリアンヌだった。
マリアンヌは鼻を啜ったあとで、バーバラへと目をやった。
「……ウチも行ってええ?」
すべてを察したルートミリアの大きなため息が流れたあとで、バーバラは少しだけ悩む素振りを見せてから言った。
「次女様なら……。まあ、嫌なら本人が拒否するだろうさ。とにかく時間が惜しいから、ついてくるさね」
本当はマリアンヌを小一時間は問い詰めたいところだったが、バーバラに急かされてはしかたない。ルートミリアは名残惜しそうに街の景色を一瞥してから、見晴台をあとにした。
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「ここは……」
予期しない来訪者が案内した先は、やはり皆の予期していない場所だった。
そこは魔王城三階の最南にあたる部屋で、ある王女の私室として使われている。
「入れば分かるさね」
バーバラは扉を開けて、ふたりに中に入るように促した。
ルートミリアとマリアンヌは無言で顔を見合わせ、慎重な足取りで扉をくぐる。
閉じるドアの蝶番がきしむ音に被せるように、彼女の声が部屋に響いたのは、その直後のことだった。
「やあ、間に合ったみたいだね」
王女のものとは思えない、必要な家具が置いてあるだけの簡素な部屋。
魔光石の燭台に照らされた寝台の上、そこに腰かけるのは――――――
「…………ウル」
怪訝な顔のルートミリアが呟き、次にマリアンヌが驚愕の表情を浮かべた。特徴的な赤髪に、サキュバスの証明でもある羽と尾。そこにいたのは、皆の記憶の中にあるウルサの姿に違いなかった。
「あ、あんたなんでこんな所に!? いや、そんなことはどうでもええ! なんで……なんで……!!」
「待て」
飛びかからん勢いのマリアンヌを、ルートミリアが左手で制す。
そして下から上までウルサをじっくりと眺めたあとで、感情のない静かな声で言った。
「本人ではない。お前、ウルサの分身じゃな?」
すると寝台の上の少女はにっこりと微笑み、首を縦に振った。
「当たり。ボクは本物が置いていった、いわば保険のようなものだよ。説明役と呼んでくれてもいい」
「せ、説明役? なんなんよ……それ」
「どうしてボクが――――いや本物がエデンに亡命したのか? そこに至るまでの経緯というものを話しておこうかと思ってさ。まあ、聞きたくなければ回れ右してもらっても構わないよ。言い訳のようなものだからね」
表情は笑っているが、ウルサの分身の言葉にはいつにない真剣味が込められている。だからルートミリアも、怒り心頭のマリアンヌでさえ、部屋を出ようとは思わなかった。
ふたりが部屋を出ていかないことがわかると、分身は嬉しそうに小さく笑う。そして薄い笑みをたたえたままで、真相を語り始めた。
「四ヶ月前のザックイール戦まで話は遡るんだけどさ、実はボクあのとき――――ティフレールの奴に捕まっちゃったんだよね」
分身はあっけらかんと言ったが、ふたりには少なくない衝撃があった。
だから無表情だったルートミリアもこのときばかりは目を大きく見開き、間髪を入れずに質問をぶつける。
「ティフレールが丘を襲撃したときじゃな? 巨大な氷塊が空を覆ったと聞いたが……」
「そう。氷塊で兵士たちがみんなやられて、生き残った者も混乱して散り散りになって……。ボクも命からがら氷塊を逃れたんだけど、隠れてるところをすぐにティフレールに見つかっちゃってさ。気がついたら、ボクの前には大天使のトロアスタがいたんだ」
「…………最近、よく耳にする名前じゃの」
ルートミリアは、心の底から不快そうに言う。
そしてそれはマリアンヌも同じ気持ちで、ひそめた眉が胸の内のすべてを物語っていた。
「それで……彼奴に何を吹き込まれた? 妾の知っておるウルサ・ルフラプス・リオンは、誰かを飼うことはあっても、誰かに飼い慣らされるような安い魔物ではなかったはず。なぜだ? なぜ魔王国を……妾たちを裏切った?」
それは詰問のような厳しいものではなく、悲哀を感じさせる問いかけ。
声だけを聞けば穏やかな口調には違いなかったが、だからこそ余計に分身の心を抉った。
どうせなら、強く問いただしてくれれば良かったのに――――――
分身は、一瞬だけそんな表情を覗かせる。
しかし数秒後にはしっかりと面を上げ、まっすぐな眼差しをルートミリアへと向けた。
「それは誤解だよ。ボクは別に、エデンに寝返ったわけじゃない。亡命はあくまで取引の手段のひとつさ。この魔王国をより良くするために、ボクはエデンに渡ったんだ。そしてそれは、姉さんのためにもなることだよ」
「妾のためになる……じゃと?」
「そうさ! これは裏切りではなく、取引なんだ。この取引が成功すれば、きっとすべてが上手くいく。六百年という永きに渡った戦争さえ、終結させることができるかもしれない。まあ見ててよ! そう遠くない未来に、大きな手土産を持って魔王国に帰ってくるからさ!」
これ以上ないほどの笑みを浮かべながら、ウルサは饒舌に語る。
しかし喜色満面の彼女とは対照的に、ルートミリアの表情はどんどんと複雑なものに変わっていく。
そんなふたりの重なり合う視線を、突如、マリアンヌの赤いドレスが遮った。
「その取引の材料が……ハニーやったってわけなんか!!」
「うぐッ!」
マリアンヌは分身の胸ぐらを掴むと、ぐっと自分の方へと引き寄せる。
小柄なウルサの分身は一瞬でベッドから引っ張り上げられ、喉を圧迫される苦しさから、顔を苦悶に歪ませた。
いくら分身とはいえ、姿も思考もウルサの生き写し。
ルートミリアが「よせ、マリー!」と止めに入るが、マリアンヌは腕を離そうとはしなかった。
「し、仕方ないじゃないか……! トロアスタは『魔王軍の要になる存在』を望んでいた! それはつまり、王女姉妹の誰かを人質としてエデンに差し出せということだ。でもボクにはどうしても姉さんたちを選ぶことができなかった。だから彼で……なんとか納得してもらおうと…………ぐ」
「マリー! そこまでじゃ! それ以上をやると、話も聞けなくなってしまう!」
ルートミリアが怒声をあげることで、ようやく分身はマリアンヌの怪力から解放された。分身は片手で喉を抑えて、何度もえずく。
マリアンヌは床に這いつくばるウルサの分身を見下ろしながら、それでも悔しそうに下唇を噛みしめていた。
「ゲホッ! く……シモン君は異世界からやってきて……そしてルト姉さんの料理人でもある。トロアスタも興味を示していたし、おあつらえ向きだと思った。でも、マリー姉さんがそこまで彼を気に入っていたとはね。いいよ……姉さんの気が済むようにすればいい。ボクは所詮、ただの分身に過ぎないからね」
のそりと身体を起こした分身は、開き直ったように言った。
自分がしたことの罪深さは、ウルサだって理解している。なのでどんな目にあったとしても、それは仕方のないこと。
罵られ、殴られる覚悟は、最初から用意している。
だから次にマリアンヌが見せた反応は、彼女にとって予想外なものだった。
「違う!! 確かにハニーを選んだことは絶対に許せへん! でもウルがどうしようもなくて、仕方なしに選んだってことは理解できる!! あんたがハニーと引き換えに何を得ようとしとるのかは分からんけど、それなりのもんを差し出さなあかんかったってことは分かっとる! ウチが……ウチが気にいらんのは……!」
再びマリアンヌの両腕が伸び、分身は反射的に身を固める。
だが腕は胸ぐらではなく、分身の両肩に添えられた。
ウルサの分身は肩に添えられた手を意外そうに見てから、次にマリアンヌの顔へ視線を向ける。そこには、両目に涙をいっぱいにためた、姉の姿があった。
「気に入らんのは――――――あんたがどうしてウチらに相談してくれなかったんかってことや!!!!」
「……え?」
呆けた顔をする分身の前で、マリアンヌは涙をひとつこぼす。
「ウチなんも知らんかった!! ウルが敵に捕まってて、苦しい決断を迫られとるなんて……なんも知らんかった!! たしかにウチはまったく頼りにならんけど、あんたを救う力なんてないかもしれんけど、だからってそれが……あんたがすべてを抱え込む理由にはならんのやで!?」
「マリー……姉さん?」
「あんたは昔っからそうや! いつもみんなの顔色をうかがって、どんなに辛くても涙ひとつ見せへん! 嫌なこと全部ひとりで背負い込んで、いつも勝手に解決しようとする!! 本当はハニーを騙すのなんて嫌やったんやろ? 本当は亡命なんてしたくなかったんやろ!? やったら……やったらどうしてそれをウチらに言ってくれんの? そしたら……止めてあげることができたのに!!!!」
そこからはもう言葉にはならなかった。
マリアンヌは両手で顔を覆い、さめざめと泣きつづける。
その小さくなった両肩を、先ほどミアキスからそうされたように、今度はルートミリアが抱いた。
「ウル、妾もマリーと同じ気持ちだ。お前が妾たちのことを想う気持ちは素直に嬉しい。だが、お前だけが背負う必要などどこにもないのだ。分身であるお前に、あえて言おう。肩の荷を下ろして、好きなように生きよ。妾はそれが……一番嬉しい」
罵られることよりも、頬を全力でぶたれることよりも、ふたりの姉の言葉は分身の心を強く揺さぶった。頬が自然と綻ぶほど嬉しいのに、胸が締め付けられるほどに悲しい。
だからウルサの分身の表情は、笑顔には違いないのに、泣いているようにも見えた。
「…………はは……その言葉、本物にも聞かせてあげたかったな」
分身は乾いた笑みこぼしながら、両手をいっぱいに広げる。
「このくだらない戦争を終結させ、父さんたちの願いだった最悪の食糧問題を解決してみせる! だから、少し待っててね姉さん。ボクは必ず、皆を救ってみせるから!!」
そう高らかに宣言したところで、タイムリミットがやってくる。
分身は一瞬で朱色の煙へと変わり、やがて行き場を探すように霧散する。
あとに残ったのは、彼女がふたりの記憶に焼きつけた、痛々しい朱色の笑顔だけだった。




