第228話 「吐露」
獄中で身動きがとれない稲豊とは違い、マリアンヌはひとり、魔王城の廊下を苛立った足取りで歩いていた。
やがてある部屋の前で足を止めた彼女は、荒々しく扉を開け放ち言った。
「ルトおる!」
そこは魔王城一階の大広間。
忙しなく作業をしていた使用人たちも、このときばかりは手を休めてマリアンヌの方を見る。そして皆が顔を見合わせたのち、代表のひとりが口を開いた。
「いえ、こちらにはおいでになっておりませんが……」
「うう……どこ行ったんや、ルトのやつ。邪魔したね、ありがとう」
仕方なく扉を閉め、ため息を吐く。
私室も、作戦室も、食堂もすでに確認済み。
どこを探しても、ルートミリアの姿が見つからない。
「前回はただ付いてっただけやけど、今回はウチも頑張る。ハニーのためにできることは、全部やる!」
戦争のことを考えただけで、身体が強張り、両膝は笑いはじめる。
しかしマリアンヌはそれを武者震いだということにして、ルートミリアを探しつづけた。兵を持たないマリアンヌでも、大将の権限があれば、戦に参加することができる。
書庫を覗き、中庭を通り、サロンを巡る。
やがて足を運んでいない場所がかなり限定された頃、マリアンヌはふと天井を見上げた。
「あと探してないトコいうたら……」
稲豊がよく利用している、魔王城の見晴台。
モンペルガの街が一望できる、マリアンヌにとっても思い入れの深い場所だ。先ほどまで雨が降っていたので考えが至らなかったが、いまは雨雲があるものの、雨自体は降っていない。
頭に場所を思い描いてしまえば、もうそこしかないような気がしてくる。
二階のサロンにいたマリアンヌは踵を返すと、まっすぐに見晴台を目指した。
長い廊下、その途中にある階段をのぼる。
階段をのぼってしまえば、見晴台はもう目の前だ。
「会議中のあの態度……いけ好かんわ。ルトは結局、ハニーのことをただの料理人ぐらいにしか思ってへん! 目的のために利用してるだけなんや!」
文句のひとつでも言ってやろう。
マリアンヌは憤慨しながら、階段の先にある扉の銅のドアノブに手をかける。
そのときだった――――――
「………………だ…………か……?」
かすかにだが、扉の向こうから誰かの声が聞こえる。
その声にはどこか神妙な響きを含んでおり、扉を開けて進入することを無粋と感じさせるなにかがあった。マリアンヌはドアノブから手を離すと、確認のために集音魔法を発動させた。
すると扉の向こうの会話が、マリアンヌの耳にクリアに飛び込んでくる。
「魔王軍大将として、立派な振る舞いだったと思います」
「そうか」
ミアキスとルートミリアは視線を合わせることなく、ふたりで眼下の街を見下ろしていた。灰色の雲に覆われた薄暗い街は、むしろ普段よりも賑わいを見せている。とはいっても、それは活気があるという意味ではない。
「兵士たちは集まりそうか?」
「全兵士……となると難しいですが、隊長格はなんとか。なにぶん急なことだったので」
「かまわん。集まれる者だけが集まればよい。戦も同様、行ける者だけが行けばいい。今回の戦いは、あくまで取り戻すための戦い。無理強いはせぬ」
全兵士への緊急召集がかけられ、街はまだ困惑の色を隠せない。詳しい説明をまだ受けていない住民たちには、少なくない動揺が広がりつつあった。
「ソフィア様が兵士らを説得するとおっしゃってましたが、姫はその内容をご存知なのですか?」
「妾は知らん。じゃがソフィが説得できると言うのだから、きっと説得できるだけの材料は持っておるのだろう。どんなとんでもないものが出てくるのか、想像もつかんがな」
ルートミリアが肩をすくめて軽い笑みをこぼすが、ミアキスが愛想笑いを浮かべることはなかった。ふたりの心にはずっと、いまの空模様と同じように、いつ土砂降りの雨が降ってもおかしくない暗雲が立ち込めている。
だから会話の内容も、自然と重いものになっていった。
「……ウルサ王女とパイロの処遇は、いかがなされるおつもりですか?」
「パイロの方は詳しく事情を聞かねばなんとも言えんな。五年前の人狼族が襲撃された件に関わっておるのか、どこまでの情報をエデンに与えたのか、敵に操られただけなのか」
「色々と聞く必要がありますね」
「うむ。だがウルの方はパイロと同じ扱いというわけにはいかぬ。ウルはこの国の王女で、民らの模範にならなければならない存在。皆を裏切った罪は、鉛よりも重い。理由がなんであれ、王女としての権利はすべて剥奪せざるを得んじゃろうな。そして場合によっては……極刑もあり得るだろう」
しかめ面のルートミリアが、額を押さえて嘆息する。
これからのことを考えるだけで、頭痛は止めどなく押し寄せるのだった。
しばらくのあいだ頭痛に苛まれていたルートミリアは、おもむろに頭を持ち上げ、静かな口調で言った。
「……………………妾を非情だと思うか?」
それは風に吹かれたら消えてしまいそうなほどの小さな声だったが、ミアキスとマリアンヌの耳にはっきりと残った。
ミアキスはどう返答したものか逡巡したのち、頭を振ってから口を開く。
「いいえ。先ほども言いましたが、立派な態度だったと思います。だって本当なら――――」
そこで一旦の間をおいてから、ミアキスは穏やかな声で言った。
「いますぐにでも、イナホを助けに行きたいのでしょう?」
ルートミリアはゆっくりとミアキスの方へ、体ごと顔を向ける。
その表情は儚げで、そして痛々しくもあった。やがて痛みに耐えることができなかったルートミリアの心は、一粒の雫を瞳からこぼれさせる。
「…………行きたい。このまま駆け出して、ネブの奴を見つけて、シモンのところへすぐにでも飛んでいきたい。立ちはだかる者を蹴散らしてでも、シモンの顔を早う見たい。シモンがどんな目に合ってるのか想像するだけで、胸が張り裂けそうになる。痛くて痛くて、ひとりで立つこともできなくなる……」
言葉に出してしまえば、もう抑えはきかなかった。
心に降る土砂降りの雨は、かろうじて耐えていたルートミリアの感情を決壊させる。緋色の瞳からは次から次へと大粒の涙があふれ、言葉通りまっすぐに立つこともできなくなったルートミリアは、倒れ込むようにミアキスの胸に顔をうずめた。
「いままでよく……頑張りましたね……。良いんですよ? もう、耐えなくて構いませんから。ここでなら、声を出しても……大丈夫ですから……」
両の目に涙をいっぱいにためて、ミアキスは胸の中のルートミリアを抱擁する。仲間の温もりに触れ、ルートミリアの感情はより一層と昂ぶっていった。
「でも……魔王軍大将の名が邪魔をする! あんなにもなりたかったのに、いまはその名が憎くてたまらない! もし大将の妾がやられたら、頭を失った魔王軍は瓦解するだろう! そうでなくとも、五行結界を扱える者もいなくなってしまう! そうなったら終わりだ!! エデンに攻め入られ、大勢の民が不幸な目に合うだろう!!」
魔王という存在があったからこそ、魔王国という国は成り立っていた。
魔王がいなくなったいま、魔王国は小さな柱の上にただ立っているだけの存在。小さな綻びですら、崩壊の危機と隣り合わせの危険な状態なのだ。そこで一番の力を持つであろうルートミリアまで失ってしまえば、魔王国の終焉は時間の問題だった。
「辛いよ……ミアキス……。妾はどうすればいいのだ? 妾のせいで拘束されたシモンを助けたい! でも、それをエデンとこの国が邪魔をする。妾はいったい……どうすれば……」
その答えはミアキスにもわからない。
だからミアキスは、無言のままルートミリアを強く抱いた。
そうすることが――――いや、そうすることしか彼女にはできなかった。
「シモンを捕まえたのが普通の奴ならまだいい。苦痛はそう長くは続かないだろう! だがもし……もしあのトロアスタが尋問でもしようものなら……シモンは……シモンはッ…………!」
この世の地獄を見るだろう。
再会があるとすれば、それはきっと変わり果てた姿に違いない。
恐ろしい言葉を口にすることができず、ルートミリアは泣いた。
ミアキスの温かい腕の中で、ただひたすら泣きつづけた。
「…………あほや…………ウチ……」
見晴台の扉の前、階段横の壁に背中を預けていたマリアンヌは、ずるずると床に座り込むと、自分の両膝を抱くようにして項垂れた。そうしなければ、嗚咽が誰かに聞かれてしまうかもしれない。
「うぅ……う………………ハニー……」
いまどうしているかもわからない稲豊のことを思い、マリアンヌもまた、ルートミリアがそうするように涙を流し、ただただ稲豊の無事を願いつづけるのだった。
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「ハァ……ハァ……!」
足音が鳴るたびに、鼓動が速度をあげていった。
不吉で、不気味で、不穏なその足音は、やがて稲豊の檻の前で鳴るのを止める。
そして稲豊は、葛藤と躊躇に苛まれつつも、勇気を振り絞って面をあげた。
するとそこには――――――
「ご機嫌は如何かね? 窓もなく狭苦しい部屋だが、その代わり家賃は格安だ。まあ、のんびりとしていってくれたまえ」
黒衣の老人が、不敵な笑みを浮かべ佇んでいた。
演出の都合上、前話の文を引用した部分があります。ご注意ください。




