第227話 「天獄にて・・・1 終わりの始まり」
某日。
某所――――――
「…………………………ッ……」
後頭部への鈍い痛みを感じ、稲豊は深い眠りから目を覚ました。
鉛のように重い頭を持ちあげ、まだピントの合わない瞳を周囲へ動かす。
そこは薄暗い場所だった。
壁も床も無骨な石造りになっており、壁にかけられた小さな燭台がぼんやりと輝いている。
「…………え? ここ…………どこだよ……?」
見たこともない光景に、違和感を覚える。
そして稲豊は体を起こそうとして、己の身に起きている異変に気がついた。
「あ? なんだ……これ?」
眠りから覚醒したのだから、稲豊は自分が当然のように横になっているものだと思っていた。しかし、すぐにそれが大きな間違いであることを理解した。
稲豊の両手首には鉄の枷が装着され、そこから伸びる太い鎖は天井にまで達している。首を捻ってよく見れば、天井には釣り針状になった鉄杭が刺さっており、滑車のように鎖がかけられていることがわかった。
つまり稲豊は両の手枷につけられた鎖によって、吊られた状態で寝かされていたのだ。足がかろうじて地面についているので『浮く』にまでは至っていないが、横になることはもちろん、屈むことさえできやしない。
「腕だけじゃなくて……足にもか」
足枷は手枷と違い、右と左の足で鎖が繋がれている。
肩幅以上に足を開くことが不可能だと知るのと同時に、稲豊は気を失う前のことを思い出していた。
「そうだ! 俺はウルのせいでアキサタナの野郎に捕まって……それから……それから?」
今度はぼんやりとではなく、はっきりと周囲の光景にピントを合わせる。
窓がひとつもない石造りの壁に、苔の生えた石畳の床。
五歩も歩けば壁に当たってしまうような、小さな部屋だ。
ジメジメしたその場所には湿った生温い風が吹いていて、緑の苔がはえた床の上を這うのは、無数の触覚をもつ気味の悪い虫だった。
稲豊の数メートル前には頑丈な鉄の棒が格子状に張り巡らされ、錠のかけられた扉によって小部屋と外界を隔てている。とはいっても、格子の向こう側から漂う雰囲気も、小部屋同様の陰鬱な空気とそうは違わなかった。稲豊の視界に映るのは、人ふたりがギリギリ並べるほどの、狭い廊下だ。
「あ? これ……俺の服じゃない?」
今さらになって、稲豊は自分が薄汚れた茶色の服を着ていることに気がついた。無地のシャツとズボン。兵士どころか、市民の着ている物よりも数段は質が劣るものだった。そんな質素な服を着ているのは、限られた人間だけに違いない。
「考えるまでもない。ここは…………『牢屋』じゃねぇか!」
稲豊は記憶を総動員して、現在地の割り出しにかかる。
するとすぐに、心当たりのひとつに思い至った。
場所はエデンの南東部。湖によって市街地から隔離された施設だ。
放り込まれたら、二度と出ることができないという、エデンの誇る巨大牢獄。
「タルタロス監獄…………か?」
どこからか聞こえる水滴の音が、正解だと告げたような錯覚がした。
「たしかアキサタナの野郎が配属されたって新聞に…………。ああ、くそ! ついにやっちまった!! 敵に捕まったら終わりだって知ってたのに!! 生還はマリーのときの比じゃねぇぞちくしょう!!」
がしゃがしゃと鎖を鳴らし、自身の迂闊さを後悔する。
マリアンヌのときは魔王国内だったので、ルートミリアたちがすぐ駆けつけることができた。
しかしここは敵陣営の、それも警備がかなり厳重な部類に入る場所。
助けは期待できそうもなかったし、来て欲しくもなかった。自分の失敗のために、誰かに危険な真似はおかして欲しくなかったからだ。
「自力で脱出したいところだけど……」
トイレも、机や椅子さえもない小部屋。
目に見える範囲に使えそうな道具はなにもなく、動こうにも両手足は枷によって拘束されている。普通の囚人でも、ここまで行動を制限されることはそうはないだろう。脱出がいかに困難なものか、誰の目から見ても明らかなこの状況。
看守の姿が見えないことは、吉なのか凶なのか?
生まれて初めて牢屋に入れられた稲豊には、どちらなのか判断はつかなかった。
「くそ! くそ!」
鎖には遊びがほとんどないため、どう頑張っても自分の頬に触れることすら敵わない。それでも稲豊は、無駄な抵抗だと知りつつも脱出を試みるしかなかった。そうしなければ、じわじわと忍び寄る不安に押し潰されてしまいそうだったからだ。
鉄の擦れ合う音が石壁に反響し、自分がどこにいるかを思い知らされる。
耳を塞ごうにも、手枷のせいでそれも不可能なのだ。稲豊があまりの絶望に表情を歪めた、そのときだった――――――
「…………ぅ……むぅ…………!!」
水滴と鎖の音しか存在しなかった世界に、突如、奇妙な声が響いた。
「だ、誰だ……!?」
くぐもった声で、人間なのか魔物なのか、それどころか男なのか女なのかさえはっきりとしない。ただひとつわかることは、その声には苦悶の感情が込められているということだけだった。
音が反響し、どこから声が聞こえたのかはよくわからない。
遠いようにも、すぐ近くのようにも聞こえる。
それを確かめるため、稲豊は耳を澄ますことにした。
しかし次の瞬間、稲豊は自分のその軽率な行動を後悔することになる。
「んんぅんむぅぅぅぅぅぅ!!!!!!!!!!!!!!!!????????」
ぐぐもった声があげる、渾身の絶叫。
恐怖と痛みを伴う、文字通りの悲痛な叫びだった。
そしてその数秒後に、稲豊は奇妙な臭いを嗅いだ。
それは例えるなら、何かを焦がしたときのような酷い悪臭。
何がその臭いを放っているのか、考えることすら放棄したいような臭いだった。
「いったい、なにが起きて…………ッ!」
そこまで口にして、稲豊は息を止める。
この狭苦しい空間で、新しい音が反響を開始したからだ。
それは誰かの足音だった。
革靴が石畳を叩く音が、ゆっくりと移動している。
カツ……カツ……カツ……。
足音が反響しているにも関わらず、稲豊にはその音が近づいていることが理解できた。亀のようなのんびりとした歩みで、しかし確実に自分との距離を詰めていく。
「ハァ……ハァ……!」
足音が鳴るたびに、鼓動が速度をあげていった。
不吉で、不気味で、不穏なその足音は、やがて稲豊の檻の前で鳴るのを止める。
そして稲豊は、葛藤と躊躇に苛まれつつも、勇気を振り絞って面をあげた。
するとそこには――――――




