第225話 「裏切り」
遡ること――――五分前。
ウルサとエデンの仮宿の前まで帰ってきた稲豊は、門扉を潜ろうとしたところで複数のエデン兵士に包囲された。虚を突かれたということもあったが、それはあまりに一瞬の出来事。兵士たちの連携のとれた動きに圧倒されているあいだに、逃げ道は完全に塞がれてしまった。
驚愕する稲豊を他所に、兵士たちは標的を逃すまいと、ジリジリと輪を狭めてくる。その誰もが槍や剣などの思いおもいの武器を手にし、鋭い眼光を投げかけていた。
「なんで……!?」
なぜこんなことになっているのか?
必死に思考を巡らせるが、答えに辿りつく前にそんな場合ではないことに気がつく。代わりに考えたのは、この危機的状況をどう打開するかである。稲豊ひとりでも脱出は困難なのに、となりにはウルサがいるのだ。
「ウル……大丈夫だ。絶対に……なんとかするから」
左手でウルサを隠しながら、彼女だけに聞こえる声で話しかける。
どう足掻いても、無事では済まないこの状況。王女のウルサだけは守らねば――――と、稲豊は考えた。
だが稲豊の決死の覚悟を嘲笑うように、あの男がふたりの前に現れる。
「バカなことは考えるなよ。少しでも妙な動きを見せれば、全身が蟻の巣のように穴だらけになるぞ? まあ、ボクにとってはそれでも一向に構わないけどな。クックックッ!」
どこからともなく現れた男は、下卑た笑みを浮かべながら言った。
その嫌な笑みに見覚えがあった稲豊は、即座に眉をひそめる。
「て、てめぇは…………アカサタナ!!!!!!??????」
「ア・キ・サ・タ・ナだッ!! ふん……まあいい、くだらない言い間違いができるのもいまだけのこと。すぐにその減らず口さえ叩けなくしてやる。ボクの恨みの深さを知るがいい」
アキサタナの浮かべる醜悪な笑みのなかに、冷酷さが加わる。
このまま捕まったらどうなってしまうのか?
想像しただけで、稲豊の背中に悪寒が走った。
だが同時に、『絶対にウルサを逃さないといけない』という決意も強まる。
「へ! この状況を俺が想定していなかったとでも? 奥の手のひとつやふたつ、用意してるに決まってんだろ?」
平静を装いながら、稲豊は右手を腰に下げていた小袋の中に入れる。敵の動揺を誘う咄嗟のアイデアだったのだが――――――
「クックック……! 奥の手ね。いいさ、見せてみろ」
動揺どころか、アキサタナの表情には笑みが増しただけ。
周囲の兵士たちでさえ、釣り上がった眉を下ろし、小さく鼻で笑う。
それはまるで、最初からハッタリであることを見抜いているようだった。
嫌な汗が稲豊の頬をつたう。
「…………ウル。俺が兵士をなんとかするから、お前は急いで魔法陣から逃げろ!」
たとえ槍や剣に串刺しにされたとしても、ウルサだけはモンペルガに。
それで命を落とすことになろうとも、ふたりが殺されるよりはずっといい。
稲豊が決死の覚悟を決めた――――――そのときだった。
「シモン君……ごめんね?」
ウルサが稲豊の脇を通りぬけ、兵士らの方へと歩きはじめる。
稲豊は咄嗟に『危ない!』と叫ぼうとしたが、次の瞬間に見たありえない光景のせいで、完全に言葉を失ってしまった。
「え?」
この状況で敵の方へのんびりと歩くことですらありえない行動なのに、兵士たちはあろうことか、何事もなかったように彼女を後ろへ通したのだ。そしてアキサタナのとなりで振り返ったウルサは、いつも見せないような、真剣な顔を稲豊の方へ向けた。
「こういうことなんだ」
そう告げるウルサの横で、アキサタナがまた笑う。
だがいまの稲豊にとって、そんなことはもうどうでもよかった。
これ以上は開かない大きな瞳に映るのは、エデン軍の後ろに立つウルサだけだ。
「こういうことって……どういうことだよ? なんでお前が……そっち側にいるんだよ?」
なんとか言葉を絞りだすが、理解はまったく追いついていなかった。
いや、本当は心のどこかで分かっていたに違いない。いまの状況を作るには、この場所を知る者の協力が必要不可欠であること。誰かの裏切りが、この絶体絶命を招いたのだ――――と。
「なんでだよ……? お前は……魔王国のために動いていたんじゃねぇのかよ? 俺を……いや、ルト様を、マリーを、血を分けた姉妹たちを裏切るっていうのかよ!!!!」
「そんなことはしないよ。ボクが裏切ったのは、シモン君だけだ。この裏切りは、きっと魔王国のためになる。ひいては、姉さんたちのためにも……ね」
「はぁ!? 俺を裏切ることが……ルト様のためになる? どういうことだよ!? お前の言ってること、ぜんっぜん分かんねぇよ!!」
「分からなくてもいいよ。大義を成すためには、綺麗事だけじゃダメだってこと。時には、手を汚す覚悟も必要だってことだよ」
感情のままに言葉をぶつけても、ウルサは眉ひとつ動かさない。
無感情な瞳で、ただ稲豊を見つめている。
もはやなにを口にしようと、ウルサの心は動きそうになかった。
「注目されるのは嫌いだな。おい、抑えろ」
ふたりのやりとりに痺れを切らしたアキサタナが、兵士たちに命令する。
その直後、兵士らは一斉に稲豊へと飛びかかり、抵抗するまもなく稲豊は地面に組み伏せられた。
「ぐ…………くそッ……!!!!」
三人の兵士に抑えつけられ、身動きひとつ取れない。
いまできるのは、地面の固さを肌で感じながら、外れたカツラを呆然と見つめることだけだった。
そして次の瞬間、
「ガッ!?」
脳が揺れるほどの強い衝撃が、後頭部に叩き込まれる。
薄れゆく意識の中で稲豊が最後に見たものは、紅蓮の炎に覆われていく仮宿の姿だった。
稲豊がエデン兵士に拘束された頃――――――
街の北側にある小さな公園には、きょろきょろと周囲を見回すひとりの少女の姿があった。
「ふふん! 今日は一番乗りみたいね」
得意気に鼻を鳴らした少女は、小銭を手に公園のベンチに腰かける。
そして来るはずのない屋台を、今かいまかと待ち続けるのだった。




