第224話 「最悪のシナリオ」
「エデンに情報を送っていた裏切り者は、お前だろ? パイロ」
その言葉を耳にした瞬間、パイロの世界から色が消えた。
本来なら弁明の言葉を口にしなければいけないのに、なぜか口は動いてくれない。
だから次に口を開いたのも、ソフィアの方からだった。
「アリスの谷での襲撃事件……お前も知っているよな? 幻の食材という噂に踊らされ、魔王軍の第三調査隊が壊滅させられた事件だ。あの事件にはエデン内通者が何名か関与していることが、その後の調査で判明した」
「判明している内通者は、当時、隊長を務めていたリザードマンの『リード・ルード』。もうひとりは非正規雇用隊員のオークの『オーギュ』。リードは調査隊を上手く誘導する役目をし、オーギュは嘘の食材の噂をばら撒くという役を担っていたようです」
淡々と説明をするソフィアとアドバーン。
しかし、パイロの表情もまた淡白なものだった。
話に口を挟むこともなく、感情のない瞳でふたりを眺めている。
「リードは襲撃事件以降、現在まで行方不明。恐らくエデンに亡命したものと思われます。そしてオーギュの方は、私めがこの手で粛清しました。その彼がですね、死の間際にひとりの内通者の存在を口にしまして」
「それが俺の名前だった――――と?」
ようやく言葉を発したパイロだが、それは肯定でも否定でもなく、確認。
少なからずの狼狽を予想していたソフィアにとって、その態度に違和感を覚えずにはいられなかった。
「これまであなたは魔王国に貢献し、そしてイナホ殿の良き友でもあります。正直に白状していただければ、減刑も考慮しましょう。しかし……もし抵抗を考えているのならば――――」
業を煮やしたアドバーンが、腰の剣に手をかける。
途端に張り詰めた空気が場を支配し、息をするのにも意識を割かなければいけないほどの緊張が、皆の間を流れ始める。
あらゆる修羅場を潜ってきたアドバーンの威圧は凄まじく、腰の片手剣からは死の臭いが漏れ出していた。いままで生きてきて、これほどの殺気を向けられたことなどない。
「……………………俺は……」
歴戦の眼光から逃げるように目を逸らし、パイロが重たい口を開いた。
そのときだった――――
「待て! 待ってくれッ!!」
叫び声を上げながら現れたネロが、転がるように両者の間に割って入る。
「どうしてお前がこんな所に……」
「そんなことはどうでもいい!! 話が……話が違うじゃないか!? 僕は『疑わしい挙動は無し』と報告したはずだぞ!!!!」
地面に膝をついた、土下座のような格好でネロが吠える。
その姿に驚きを隠せないパイロは、それでも弟の放ったひとつの言葉が気になった。
「報告? どういう意味だ……?」
今度は、パイロがソフィアを睨みつける。
すると呆れたようなため息を漏らしてから、ソフィアは言った。
「前回のエデンとの戦の前に、オレはネロとある取引きをした。それは『ネロ自身が兄であるお前を探る代わりに、オレたちは強硬手段を行わない』というものだ」
「ああ! だから僕は戦に行かず、ずっと兄さんのことを見張っていた! この世でたったひとりの兄弟だ……そりゃあ辛かったさ! 胸が痛んださ!! でも、兄さんの無実が証明できるのなら、そんなものはどうでもよかったんだ! なのに!!」
「あれは方便だ」
ピシャリと言い切ったソフィアは、冷たい瞳をネロへと向ける。
「パイロだけじゃない。ネロ、お前自身も監視対象だったんだ。気が付かなかったのか? お前も、そしてオサにも常に監視の目はつけていた。あの取引きには、お前を試す意味もあったんだよ」
「そ、そんな…………! なぜ……なぜ僕たち家族が……!?」
「内通者のひとりがパイロの名前を出したんだ、その家族を疑うのは当然だろ」
絶望の表情を浮かべるネロと、弟にそんな仕打ちをした相手を睨むパイロ。
ソフィアはふたりの顔を交互に見渡したあとで言った。
「惑乱の森――かつてそこには、魔女の遺産『ヒャク』がたくさん実っていたそうだ。いまはお前たちも知るように、エデンの連中に根こそぎ略奪されてしまった」
「何を急に……? そんな話が僕たち家族とどんな――――」
「おかしいとは思わないか? 奴等はヒャクの存在を、どこで知ったんだろうな? わざわざこの魔王領まで命懸けで赴き、番人のネブを相手に多くの犠牲を出しながらヒャクを奪っていった。それは奴等が、ヒャクの重要性を最初から認識していたからに他ならない」
蛇がするような、じっとりとした視線をソフィアはふたりへ投げかける。
反応があったのは、ネロの方だった。
「たた……たしかに僕は昔ヒャクを幾つか失敬したが、だがその情報をエデンに送ってなんかない! そんな大それたこと、するわけが……!」
「安心しろ。立場上、疑っているとは口にしたが、お前とオサへの疑いは微々たるものだ。お前はヒャクの情報こそ他者に伝えたかもしれないが、それをエデンに伝えたのは別の野郎だ」
ソフィアはそういって怪訝な瞳をパイロへと向けるが、当の本人に堪えた様子はない。それどころか、ある種の余裕のようなものさえ感じられた。
「すべては憶測だ。内通者のオークが何か言ったのかも知れないが、裏を返せばそんな裏切り者の言葉を信じる方がどうかしてるぜ。俺がエデンの奴等と繋がってる証拠が、どこにあるってんだよ?」
ずい……と、パイロが一歩足を踏み出す。
その自信が本物なのか虚勢なのか、ソフィアには分からない。
だがそのどちらだとしても、やるべきことは決まっていた。
いや、最初からそのつもりでやってきたのだ。
遠回りした己の心の弱さに苦笑しつつも、ソフィアはもう引き返すつもりはなかった。
「ネロ……さっきオレはお前を疑っていないと言ったが、それにはひとつ理由がある。お前とオサの日課には――――鳥の世話が入っていないからだ」
ソフィアがそう口にしたとき、ふたりの反応は顕著に分かれた。
ネロは言葉の真意が分からず呆けた顔を浮かべるばかりだが、パイロの表情には明らかな動揺があった。
額にじわりと冷たい汗を滲ませ、瞳が落ち着きなく泳いでいる。
「なあパイロ。その抱いている鳥……オレにも抱かせてくれないか?」
「あ、あいにくだがこの鳥は怪我してんだ。慣れてねぇ奴に抱かせるわけには――――」
「違うだろ? 怪我をしてるから抱かせられないんじゃない。怪我を確認されてしまうから、オレに渡すことができないんだよな?」
もはやパイロの汗は額だけでなく、全身へと広がりをみせている。
その異常な反応に、パイロを擁護していたネロさえも違和感を覚えた。
「兄さん……?」
「鳥というのは便利な生き物だよな。肉だけでなく玉子も食えるし、羽はペンや衣服にも使える。世話もそこまで手が掛からないし、餌もあまり選り好みしない。そして何より……こういうことにも使えるからな!」
そう言うや否や、ソフィアは懐から取り出した物を周囲にばら撒いた。
白色のそれはヒラヒラと誂うように皆の周囲を泳いだあと、音もなく地面に落ちていった。
否が応でも、皆の視線は地面に撒かれたそれに集中する。
「これは……手紙?」
幾つもある中のひとつを摘み上げたネロは、それらの正体が白い便箋であることを知る。そしてそのどれにも、文字が認められていることに気がついた。
「この手紙は皆、モンペルガとアート・モーロを結ぶ区間で見つかったものでございます。……丁度、そこにいるような鳥の足に括られてね。ネロ殿なら、この筆跡に見覚えがあるのではないですかな?」
「…………く!」
便箋を握るネロの表情が苦悶に歪む。
現実を受け入れることへの抵抗から、その両手は震え続けていた。
言葉を発することができないネロの代わりに、ソフィアが口を開く。
「内容は取るに足らない日常の近況報告だが、実にこの手紙のすべてがトロアスタ宛てとなっている。お前はエデンからやってくる鳥の足に手紙を結びつけ、定期的に情報を送っていた。暗号の可能性も考慮し、悪いがコイツを見つけてからはすべてオレが代筆させてもらったぞ。もちろん、有ること無いことな」
「……………………………………」
「これでもまだ白を切るというのなら、特別な方法で口を割らせることになる。父親や弟の為を想うのなら……白状しろ。包み隠さずな」
その言葉が止めだった。
途中からずっと口を閉ざしていたパイロは、無感情な瞳を遠くの空へと向けたあとで、一度だけ深く長い息を吐いた。
そして抱いている鳥の足へおもむろに手を伸ばすと、巻いている手拭いの隙間からある物を引っ張り上げた。皆に見えるように取り出されたそれは――――地面にばら撒かれた物と同様の白い便箋だった。
「――――届いていなかったのなら、もっと汚い字で書けばよかったな」
抱いていた鳥を地面に下ろしたパイロは、手の中の便箋を握り潰しながら言う。潰されてぐしゃぐしゃになった便箋は、乾いた音を立てて地面を転がった。
その便箋はさながら、いまのネロの心そのままだった。
「なぜ……? どうして兄さんが……? いったい、いつからそんなバカなことを!! だってそんな素振り……まったく見せなかった!! 兄さんはいつからエデンの手先になったっていうんだ!!」
ネロは顔面蒼白になりながら、怒っているような泣いているような叫び声を上げる。するとパイロは目を逸らしながら、静かな声で言った。
「……最初からだよ。この魔王国にやって来る前から、俺はトロアスタ様と繋がってた。だって俺は――――五年以上も前から、敬虔な神咒教徒だったんだからな」
その告白には、ネロだけでなくソフィアたちも少なくない動揺を覚える。
しかしそんなことはおくびにも出さず、冷静に魔王軍幹部の立場を優先した。
「五年前…………エデン軍が人狼族を襲撃した事件と同じ頃か」
「あの事件の数ヶ月前になるかな、アート・モーロの市場にいる俺の前に彼が現れたのは。それから何度か彼が市場を訪れるようになって、何回か教会に足を運ぶようになり、気がつけば…………神咒教徒になっていた」
先ほどまでの往生際の悪い態度とは一転し、パイロはもう一切を隠そうとはしなかった。
「ある日、彼は俺に教えてくれた。『エデン軍が、人狼族を襲撃する計画がある』。そして予定では反乱分子として、俺たちポタロ村の人間も粛清される予定になっていた」
「え?」
ネロが目を剥いてパイロの方を見る。
そんな事実は、いまのいままで知らなかった。
「彼は言った。『しかし私は、そうなることを望まない。ポタロ村の人間を救う方法がひとつだけある』。それはミアキスという人狼と共に魔王国に亡命する……っていう、信じられない方法だった。そりゃあ抵抗もあったが、村人全員の命を失うことを考えれば――――俺に選択の余地はなかったよ」
「そしてその見返りに…………情報を送ることを要求された」
「……ああ。トロアスタ様曰く、俺のようなエデンの間者は何名かいるらしい。亡命してすぐそのひとりが声をかけてきたよ。オーギュって名前のオークがな。そいつは伝言役で、俺は得た情報をオーギュを通してエデンへと伝えていた。まあ、そこの軍神さんが伝言役を切っちまったから、いまは鳥を使ってたけどな」
すべてを諦めたパイロの表情は、どこか清々しさすらあった。
それは投げやりにも似た、諦めの境地のような、暗い晴れ晴れしさだ。
その痛々しさが皆の胸に釘を打つが、軍への背信行為を見過ごす訳にはいかない。
「間者の件も含めて、お前には訊きたいことが山ほどある」
ソフィアが横目でアドバーンの方を見ると、
「では、こちらへ」
と、アドバーンが魔王城の方へ促す。
特に抵抗することなく、パイロはそれに従った。
「親父はこの件に一切関わってない。だから、すぐ釈放されるはずだ。ネロ、勝手で悪いが……親父とヒャクのことを頼む」
「そんな……そんな勝手な頼み……!」
複雑な感情がぐるぐると渦を巻いて、次の言葉が出てこない。
ネロは何もできなかった悔しさから、拳で何度も地面を叩いた。
パイロはそんな弟を物憂げな瞳で見つめたあと、神妙な面持ちでソフィアの方を見た。
「牢にぶちこまれる前に、伝えておきたいことがある」
「なんだ?」
「何度も顔を合わせ会話した俺だから分かる。トロアスタ様はきっと、こうなることを予見していた」
「………………なに?」
それは、今度こそトロアスタの鼻を明かせると息巻いていたソフィアにとって、聞き捨てならない言葉だった。なので自然と、表情は険しいものとなる。
「トロアスタ様はすべてを見通している。俺たちのツメの甘さも、あんたの弱さも。彼がこうなることを予見していたなら、今回の作戦の要は俺じゃない」
「作戦? どういうことだ? 何が言いたい?」
ぞわりぞわりと、毛虫が這うような悪寒が足を登ってくる。
だがその正体が何なのか分からない。ソフィアはただただ、侵食する悪寒に耐えるしかなかった。
「数ヶ月前に、新しい伝言役が俺のところへやってきた。その伝言役が言ったんだ、『そのまま鳥を使い続けるように』ってな。伝言役がいるにも関わらず、鳥を使っての連絡を継続した理由――――いまなら分かる気がする。俺は多分…………囮だったんだ」
「…………囮?」
悪寒と嫌な予感が、交互にソフィアを苦しめる。
頭の中では、ひとつの過程が組み上がりつつあった。
「彼女は言った、『自分は絶対に疑われない存在だ』と。きっと彼女が……今回の作戦の要だったんだ」
その言葉を耳にした瞬間、ソフィアは叫んだ。
「アドバーン!!!! ルト姉はいま何処にいる!!!!」
「お、お嬢様なら今日は市場の視察へ……。ライトが共に行っているはずでございますが」
「すぐ呼び戻して身辺警護を強化しろ!! オレはもうひとつの方へ行く!!!!」
不思議そうな顔をするアドバーンの返事も待たず、ソフィアは駆け出した。
何度か躓きそうになりながら、それでも全速力で目的の場所を目指す。
「嘘だ……ありえない……!? ありえない……!!」
自分に何度も言い聞かせるが、どうしてもある考えが払拭されない。
もし自分がトロアスタの立場だったなら、手に入れた強力な駒をどう使うか?
それはソフィアが考え得る限り、最悪のシナリオに違いなかった。
「ハァ……!! ハァ……!! 見えた!!!!」
そこは貴族街にある、赤い屋根の屋敷。
庭にいる珍獣らには目もくれず、ソフィアは屋敷の中へと飛び込んだ。
目指すはエデンへの移動用魔法陣が置いてある、アリステラの部屋だ。
使用人たちが仰天の眼差しを向けてくるが、いまはそんなことどうでもよかった。
「もしオレが――――だったなら……! 狙うのは……!!」
破裂しそうな心臓など無視し、突き破るほどの勢いで扉を開ける。
そして汗に塗れた顔を上げ、部屋の中へ視線を這わすと、そこにはいるはずのない者がいた。
「マルコ? どうして……お前が……?」
魔法陣が描かれた箪笥の前で、マルコがソフィアにも負けないほどの大量の汗を流しながら項垂れている。その蒼白な顔面を見ているだけで、ソフィアの不吉な予感は留まることなく膨らんでいく。
マルコは言葉を忘れてしまったかのように、口を開かない。
しかし心の準備が欲しいソフィアにとっては、その方が都合がよかった。
この誇り高き狼人族が見せたこともない表情をしているからには、なにかとんでもない事態が起きたに違いないからだ。ソフィアはできることなら、いま聴こえている耳鳴りが途方もなく大きくなることを望んだ。そうすれば、マルコの言葉を聞かずに済む。
「ハァ……! クッ…………!」
だが誇り高い狼人族だからこそ、報告を蔑ろにするような真似はしない。
現実は冷酷なまでにはっきりと、ソフィアの耳へ届けられた。
「シモン=イナホは裏切り者の罠に掛かり、敵の手に落ちた!! 裏切り者の名は『ウルサ・ルフラプス・リオン』!!!! ウルサ王女は……エデンの内通者だ!!!!」




