第222話 「強襲」
見紛うはずもない。
今日まで一度たりとも思い出さない日はなかった宿敵が、いまや目と鼻の先で民たちへ話しかけている。
いますぐにでも飛びかかりたい衝動に駆られるマルコだったが、そこは拳を握り締めて我慢した。この機を逃せば、次の機会がいつ来るかなど分からない。だからこそ、失敗は絶対に許されないのだ。
『まだだ……もう少し…………!』
礼拝堂の二階部分。
その廊下に身を潜めながら、マルコは襲撃のタイミングを計っていた。
魔物である彼にとって、七メートルの高低差など無いに等しい。
「戦で失った生命もまた、神樹エデンと共にあり続けることだろう。彼らの魂の救済のために、我らができることは祈ることだけ。いま一度、犠牲者らの為に黙祷を捧げようではないか」
マルコの祈りが通じたのか、絶好の機会が訪れる。
信者たちが一斉に瞳を閉じて、静かに祈り始めたのだ。
そしてそれは、標的もまた同様だった。皆が祈りに執心し、無防備な姿を曝け出している。
『好機ッ!!!!!!』
心の中で歓喜の声を上げながら、マルコは鈍色の剣を鞘から解き放つ。
抜刀時に発生する些細な音など、彼にはもはやどうでも良かった。手摺りから身を乗り出し標的に襲いかかるまで、数秒にも満たない一瞬の出来事。もはや途中で気付かれたとて、回避する術などありはしない。
目的の遂行を確信したマルコは、左足を手摺りにかける。
そして――――――――――――
「…………つうッ!!!!????」
マルコはそのまま手摺りを乗り越えることなく、頭を全力で後ろに逸らした。
何故そうしたのか、彼自身にも理解できない。
思考するよりも速く、歴戦を経験した体が反応したのだ。
数瞬後、鋭利な短刀が鼻先を掠める。
「ぐぅ……!?」
鼻筋に走った痛みで表情を一瞬だけ歪めたマルコだったが、それでも体は『背後に飛び退き状況の把握に努める』という、この場では最善の働きを見せた。その甲斐もあり、襲撃者の正体を捉えることに成功する。
「どんなネズミが掛かったかと思ったら、野良犬とはな。犬好きとして心が痛むなぁ、サゼン」
不気味なほど感情のない声で話すのは、全身が真っ白な男だった。
白装束は言うに及ばず、頭までスッポリと白い頭巾で覆われている。唯一、肌を覗かせている手先、その右手のひらの上では、三角形の刃先を持つ短刀が踊っていた。
「問題ない。薄汚れているのはどちらも同じだ、ウゼン」
背後から聞こえたもうひとつの声の主を、マルコは首だけを動かして確認する。そこには正面の男と瓜二つな様相の男がいた。その男の手にもまた、同様の短刀が握られている。
埃とカビの臭いが蔓延する小部屋の中で、マルコは白装束の男ふたりに完全に挟まれていた。
「掛かった…………だと?」
絶体絶命の状況だが、訊ねずにはいられない。
慎重を重ねたつもりだっただけに、この結果はマルコにとって受け入れがたいものだった。
男たちは感情のない声で笑ったあと、口を開く。
「大司教様は、貴様の浅はかな行動など御見通しなのである。この大聖堂に近づいた時点で、貴様の命運は決していたのだ。なあ、サゼン」
「わざと警備の手薄な場所をつくり、貴様を誘い込んだという顛末。どうやってこのアート・モーロに侵入したのかは分からぬが、洗いざらい吐いてもらうぞ。なあ、ウゼン」
ふたりの男は、短刀を手に身構える。
どちらもただの素人ではない、相当の手練を匂わせる堂に入った構えだった。
その実力は、気配をまったく悟らせずにマルコを襲撃した時点で証明されたようなもの。そこまで考えてようやく、マルコは男たちの正体に思い至った。
「そうか、キサマらはトロアスタの親衛隊だな? 裏で働く殺人集団が聖者の真似事とは、片腹痛いわ!」
「薄汚い暗殺者が何を言うか。我々は神の代行人」
「すべては神の御心のままに」
男たちは会話を断ち切ると、ほぼ同時にマルコへ向けて短刀を突き出した。
その動きは鋭く、正確性も合わせ持っている。
だがマルコの身軽さは、男たちにとって予想外なものだった。
胸と背中に迫った短刀を紙一重で跳ねて交わすと、大きな布で覆われた机の上に着地する。
「むぅ! なんという俊敏さ。いよいよもって獣そのもの」
「だが袋小路は変わらず。サゼンは入り口を抑えろ、大司教様に近付けさせるな」
男のひとりが小部屋の扉を閉める。
手練の男の目を盗み扉を潜るなど、どう足掻いても不可能。
そもそも、トロアスタがすでに移動した可能性も否定できない。
絶好の機会を逃したことを、マルコは奥歯を強く噛んで悔しがった。
「抵抗を止めて投降するのなら、命だけは保証してやろう。なあ、サゼン」
「ああ、ウゼン。保証してやるとも、命だけはな……くくく」
頭巾のせいでふたりの表情は見えないが、その下には下卑た笑みが隠れているに違いない。そう考えるマルコにとって、男たちの保証には欠片ほどの信用性も得られなかった。
「抜かせ! オレは貴様らのような簡単に尾を振る犬とは違う。敵の軍門に下るくらいなら……」
マルコは懐に手を差し込むと、いざという時のために用意していたある物を取り出した。
「それは……!?」
「火の魔石ッ!?」
ふたりの男の前で、赤色の魔石が妖しい輝きを放つ。
マルコは左手の中のそれを、男たちに見せつけるように頭上に掲げる。
「これは小さく燃える粗悪品とは訳が違うぞ。特別な方法で精製された、高純度の火の魔石だ。ヒビのひとつでも入ったものなら、この聖堂など跡形も残らん」
「ハ、ハッタリだ!!」
「そんな代物、魔物に作れるはずがない!」
「だったらその身を持って試してみるといい。襲撃が発覚してしまった以上、オレもただでは済まん。このまま、おめおめと逃げ帰るくらいなら…………せめて貴様らを道連れにしてやる!!!!」
尋常でない殺気が、怨嗟の言葉に乗ってふたりの男の思考を凍りつかせる。
その一瞬の隙を、マルコは見逃さなかった。
「間抜け共がッ!!!!!!!!」
そう叫ぶや否や、マルコは火の魔石を全力で床に叩きつける。
「ぐぅ!?」
「何ということを……!?」
身構える男たちの前で、魔石から飛び出した紅蓮の炎が踊る。
炎は周囲の家具や書物を呑み込みながら、瞬く間に小部屋の中を赤で満たしていった。
熱風が刺すような痛みで肌を刺激し、呼吸のたびに喉を焦がす。
「何が高純度! ただの魔石ではないか!」
「くそ! 奴はどこだ!?」
炎上と同時に、マルコの姿が消える。
迫りくる火の手に気を付けながら周囲を見回した男たちは、直後にガラスの割れる大きな音を聞いた。素早くそちらに顔を向けるが、もう何もかもが手遅れだった。
「ふん!!」
マルコはすでにバルコニーを飛び降り、着地。
そして顔をフードで覆い隠して、信者のひとりに擬態する。
大聖堂から足早に離れつつ、マルコは視線をチラリとバルコニーの方へと向けた。するとそこには、途方に暮れた様子の男たちがいた。男らはやがて何かを思い出したように、慌てた様子で小部屋の中へと戻っていく。
「消火し追いかける頃には、オレはもう遥か彼方だ。トロアスタ……その命、次こそは貰い受けるぞ!」
文字通り男たちを煙に巻いたマルコは、再び薄暗い裏路地を目指した。
例え暗殺に百回失敗しようとも、百一回目では成功させてみせる。燃え続ける復讐心は、一度の失敗くらいで消えることはなかった。
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裏路地の一角にしばらく身を潜めていたマルコだったが、追手がやってくる気配はない。それでも慎重に気配を探りながら、時間をかけて裏路地を辿っていく。
その途中――――
「なんだあれは?」
上空に浮かぶ、巨大な半透明の老人を見かける。
一瞬ぎょっとしたマルコだったが、それがエデン王だと気付くと、驚きよりも呆れの方が勝った。
「武術大会だと? こうして魔物が侵入しているというのに、呑気なものだ。…………しかし、腑に落ちんな」
マルコが気になったのは、エデンの対応だ。
『魔物の侵入』という非常事態が起こったというのに、警鐘ひとつ鳴りはしない。
宙に浮かぶ老人が民に警告するかとも思ったが、結局そんな話は最後まで出ることはなかった。
「……まあいい。いまはとにかく、一刻も早くここを離れることだ」
いまは居なくとも、いつ目の前に追手が現れるか分からない。
マルコは前後左右、すべてに気を配りながら稲豊たちのエデンの仮宿を目指す。
やがて、遠回りをしつつも、見覚えのある家が見えてきた。
それは間違いなく、魔法陣のあるあの家だった。
安堵の息が口から漏れ、自然と足が小走りになる。
そして、目的の家を完全に視界に捉えた、
そのとき――――――――
「なッッ!!!!!!!!!!??????????」
マルコは眼前の目を疑うような光景に、絶句した。




