第219話 「運命共同体」
稲豊が複雑な表情でエルルゥ家の玄関に入った頃、魔王城の自室にいたソフィアもまた、複雑な思いで窓の外を眺めていた。
「………………雲が出てきたな」
ほんの一時間ほど前には青空が広がっていたというのに、いつの間にやら灰色の雲に侵食され、いまや空の半分が鼠色に染まっている。
ソフィアは暗雲の広がる空模様を、まるで自分の心を映す鏡のようだと思った。
珍しく朝早くに目覚めた彼女は、そのときからずっと胸騒ぎに苛まれ続けている。こんなときは決まって不吉な事態が起きることを、ソフィアは経験から知っていた。
「――――ん?」
するとその胸騒ぎは正しいとでもいうかのように、扉が二回、音を立てた。
この時間にソフィアの部屋を訪れる者はそう多くない。そして誰かが訪れるときは、吉報よりも凶報の方が多かった。
「……入れ」
一呼吸をし心の準備を整えてから、ソフィアは扉の向こうへ話しかける。
失礼します――――という言葉が聞こえたのち、扉はゆっくりと開いた。
「アドバーンか、何用だ?」
部屋を訪れたのは、アドバーンだった。
どこかいつもと違う雰囲気の彼を見て、ソフィアは嫌な予感の的中を悟る。
そんな彼女の胸中を知ってか知らずか、アドバーンは一切の感情を省いた声で――――
「鳥がやってまいりました」
ひとことだけ、そう告げた。
普通の者なら首を傾げるか、そんなことをいちいち報告して何のつもりだと怒るに違いない。だがソフィアは「そうか」と呟き、深く長いため息をこぼす。
その表情には、沈痛の感情さえ浮かんでいた。
「どうなさいますか?」
「…………行くさ。お袋がいつも言っていた、汚い仕事は軍師の花形だってな。十分に猶予は与えたし、それにもう……あまり意味もないだろう」
「では」
「ああ、供をしろアドバーン。場合によっては、お前の腕が必要になる」
「…………承知しました」
ソフィアは外出用の黒いケープを羽織り、いつもの軍略書を手に取った。
そして躊躇なく部屋の扉を開ける。
その表情にはもう、一切の迷いはなかった。
:::::::::::::::::::::::
「あれ? 今日はクリスたちは居ない日か」
「クワクワ」
双子王女の屋敷に入った稲豊は、玄関で出迎えてくれたアヒル人間のカールに声をかけた。いつもならクリステラとアリステラのふたりが直々に出迎えてくれるのだが、稀に用事があって屋敷を空けることがある。
今日は偶々、そういう日だった。
「やっほーアヒルくん!」
「クワァ?」
普段は見ないウルサがいるので、カールは頭上に疑問符を浮かべる。
「きょ、今日だけな今日だけ! まあクリスたちが帰ってきたら、よろしく言っといてくれ。行くぞウル」
「は~い」
責められているわけでもないのに、稲豊は言い訳を残してそそくさとその場を去った。後ろめたさが、チクチクと背中に突き刺さる。
しかし稲豊は、気づかないふりを続けた。
階段を上がり、一目散にアリステラの部屋を目指す。
「どうも、問題ないスか?」
「はい。異常ありません!」
稲豊が挨拶をすると、部屋の前にいるふたりの兵士が敬礼する。
魔法陣があるアリステラの部屋は、稲豊にとっても魔王軍にとっても重要な拠点のひとつ。不測の事態に備えて、常にふたりの精鋭が控えていた。稲豊とウルサは寡黙な兵士らの脇を抜け、アリステラの部屋へと進入する。
「要領は分かってんな?」
魔法陣が描かれた洋服箪笥の前で、稲豊はウルサに問いかける。
「もちろん。子供のときなんか、姉さんの融合の扉でしょっちゅう遊んでたくらいだよ」
「なら良いけど、行ける人数と通れる回数には限度があるからな。忘れ物を取りにちょっと戻るとかはなしだぞ?」
「分かってるって! なんなら、ボクがひとりで行って来ようか?」
「そんなことしたら、ソフィに死ぬほど怒られるぞ」
「…………やっぱり、ひとりじゃ不安だからね! 一緒に行こっか!」
汗を豪快に流しながら、ウルサは稲豊の腕を掴む。
ふたりで行ったところでソフィアに叱られることに変わりないのだが、ひとりとふたりでは心強さがまったく違う。
稲豊はソフィアの前に正座する自分とウルサの姿を思い浮かべて、ひとり苦笑した。そして数秒後、頭を軽く叩いて想像を吹き飛ばす。
「よっしゃ! 覚悟を決めた。これから俺とお前は運命共同体だ。この扉を潜ってからは、生きるも死ぬも一緒だぜ!」
「運命共同体か……うん、分かった! よろしくね、もうひとりのボク」
「その呼び方はちょっと…………いや、なんでもない」
どうにも締まらないやり取りをしながら、ふたりは洋服箪笥の中へと消えていった。
稲豊たちが魔法陣からエデンへ向かった数分後――――
「ぐあッ!?」
「がはぁ!?」
アリステラの部屋の前にいたふたりの兵士が、奇声を上げて廊下に転がった。
兵士らはうめき声を漏らしながら、額に脂汗を浮かべながら悶絶する。
視界が次第におぼろげになっていく彼らの前に立つのは、黒いマントの男。
男はいきなり現れ、ふたりの兵士を一瞬の内に昏倒させた。
だが兵士のひとりは自分に拳が叩き込まれる一瞬、その刹那の時間に、フードの下の顔を目撃していた。
「どうして…………あんた…………が…………」
兵士はなんとかそこまでを口にしたのち、蝋燭の火が消されたときのように、フッと意識を失った。




