第218話 「ウルサの頼み事」
遊宴会の翌日の朝――――
朝食を終えた稲豊はアート・モーロへ潜入するため、いつもそうするように自室で変装に勤しんでいた。
「前にカツラ飛んじゃったからさ、外れないようにできないかな?」
「う~ん……じゃあ、内側にすこし粘着性の糸を増やしてみます!」
ナナが背伸びをして、カツラの具合を確かめている。
「む、肩に糸くずが……コレでよし!」
ミアキスが稲豊の肩を払い、満足気に頷く。
朝の変装を手伝うのは、ナナとミアキスの日課のひとつだった。
声をかけずとも、自発的にやってきては丁寧に変装を手伝ってくれる。
稲豊はこそばゆく感じながらも、彼女らの好意を受け入れていた。
「よっしゃ、ありがとう! それじゃ行ってくるぜ!」
「はい! イナホ様、お気をつけて行ってらっしゃいませ!」
「武運を祈ってるぞ」
ふたりに見送られ、稲豊は意気揚々と自室をあとにする。
日頃の疲れも、自分の中での煮え切らない不安も、昨日の遊宴会ですべて吹き飛んでしまっていた。
代わりに思い浮かぶのは、ルートミリアの唇の柔らかい感触。
その感触を思い出す度に、稲豊は顔をだらしなく緩めるのだった。
「お?」
中庭に差し掛かったところで稲豊はある者の姿を見つけ、「今日も見送ってくれるのか?」と軽快に声をかけた。
「…………つーん」
ぷいと顔を背けたのは、稲豊とは対照的に不服顔のマリアンヌ。
彼女が見送りに来るのはいつものことなのだが、今日は少し様子が違った。
「どうしたんだよ? フグみたいになって」
「ふぐ? なんかよくわからんけど、褒められてへんことだけはわかった」
ますます頬を膨らまして、マリアンヌはへそを曲げる。
だがその不貞腐れた態度に、稲豊は悪い感情を抱かなかった。
そこまで機嫌が悪いにも関わらず、わざわざ見送りに来てくれたことを考えると、嬉しくもあったのだ。
「それで、いったい何があったんだ?」
稲豊が再び訊ねると、マリアンヌは渋々と話し始めた。
「だって……ウチ、昨日は全然ハニーとの時間が取れへんかった。まだ時間はあったのに、ルトのせいで……。しかもハニーは、そのルトとチュー……してたみたいやし。ウチにはしてくれへんのに……」
「あ、あれは不可抗力……って、見てたのかよ!?」
「…………つーん!」
またもぷいっと顔を背けるマリアンヌ。
ルートミリアに叱られたのは彼女に落ち度があるのだが、迫ってくるのを稲豊が拒んだのも、また事実である。どこか申し訳ない気持ちもなくはなかった。
そんなとき、稲豊の脳裏に昨日のルートミリアの言葉がよぎる。
『皆が心をひとつにせねば、エデンとの戦いは不可能なのだ。だからシモン、妾だけでなく……皆を愛せ。我が父がそうしたように、他の者にもお前の愛を分けてやるのだ』
昨日の今日なので、そう簡単に気持ちを切り替えることなどできない。
しかし、嫌われないための実践は必要だと稲豊は思った。
「じゃあさ、明日は一緒に街にでも遊びに行くか?」
「……へ? そ、それって…………デートってこと!?」
「まあ、そんなものかな」
「ほ、ホントにホント!? うわぁ、楽しみ! いますぐ明日になればええのに!」
マリアンヌは人目もはばからず小躍りする。
両手で頬を抑えて喜ぶ姿を見ていると、稲豊は自分自身も嬉しくなる気がしていた。
しかし、不意にマリアンヌの動きが止まる。
先ほどまで喜色満面だった表情には、いつの間にか影が掛かっていた。
「どうした?」
「あ……明日はアカン……! 先約があったんやった……!!」
がくりと項垂れるマリアンヌ。
彼女が色恋沙汰よりも他の用事を優先させるのは珍しい。
好奇心から、稲豊は何の用事があるのか訊いてみた。
するとマリアンヌは、もじもじと両の人差し指をくっつけながら――――
「明日は……ナナちゃんとタルトちゃんたちに、勉強を教える約束が……」
申し訳無さそうに、そう口にした。
「プッ! あっははは! そうか勉強か! なら仕方ないな」
「え? う……うん、やから明日はちょっと無理かも」
稲豊がとても楽しそうに笑うのを見て、マリアンヌは小首を傾げる。
折角のデートの誘いを断って怒られるかもと思っていただけに、マリアンヌはより一層に不思議がった。
だがそんな彼女の様子も、稲豊にはとても喜ばしいこと。
ティオスやアドバーンの不穏な話が続いたあとで、これほどほのぼのできる話題もそうはなかった。
「良いよ。遊びにはまた今度に行こう」
「ホンマ? 絶対に行ってくれる?」
「ああ、絶対。約束な」
マリアンヌは再びパァと顔を明るくさせる。
稲豊はそんな彼女の頭を優しく撫でたあとで、中庭に止めてあった猪車に乗り込んだ。
ほどなくして、猪車がゆっくりと動き出す。
「約束やで~!」
満面の笑みを浮かべながら手を振るマリアンヌが、次第に小さくなっていく。彼女は稲豊が見えなくなるまで、手を振り続けていた。
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貴族街にある、双子王女の屋敷。
門の前で猪車を降りた稲豊は、
「それじゃ、いつものお勤めに行ってきますか!」
気合を入れて門扉の取っ手部分に手をかける。
そのときだった――――
「待ってたよ! シモン君」
「うおわッ!?」
頭上からいきなり聞こえた声に、稲豊の体も心臓も飛び上がる。
恐る恐ると声の聞こえた方に顔を向けると、大きな門扉の上に腰をかける、ひとりの少女の姿が視界に入った。
少女は背中の羽根を羽ばたかせながら、稲豊の隣りに優雅に降り立つ。
「ウ……ウルか、脅かすなよ」
「ごめんごめん! まさかそんなに驚くとは思ってなかったんだよ」
少女の正体は、王女姉妹の末っ子のウルサだった。
ウルサは申し訳無さそうに、しかし楽しそうに謝罪する。
「あ~……びっくりした。それで、何か俺に用なのか?」
「お? シモン君は話が早くて助かるよ!」
大袈裟に喜ぶ姿を見せたあとで、ウルサは稲豊の瞳をじっと見つめた。
「実はボクね? エデンっていう所がどういう風なのか、ずっと前から興味があってさ。死ぬ前に一目見ることがボクの夢なんだ~」
「そ、そうなのか……いつか叶うと良いな! じゃあ俺は急ぐからまた――――」
「ちょっと待った! 話はまだ終わってないってば!」
門扉を開いた稲豊の腕を、ウルサが「逃さない」とばかりに掴んでくる。
ガッチリと掴まれたため、動くに動けない。
「分かった分かった! とりあえず話だけは聞いてやる」
稲豊は仕方なく、彼女の話を少しだけ聞くことにした。
するとウルサは、嬉々として語り始める。
「新しい文化に触れることで、色々と得るものもあると思うんだ。それと同時に夢が叶ったら、最高に素晴らしいことだよね? だからボクはアート・モーロの人たちの生活を通して、色々な刺激を受けたいんだ」
「回りくどい言い方をするんじゃありません。つまりは俺に『アート・モーロに連れて行って欲しい』って言いたいんだろ?」
「さっすがシモン君! やっぱり話が早いね――――って、どこ行くの!?」
にんまりと笑うウルサをその場に放置し、稲豊は大きな門扉を潜る。
その瞬間にたくさんの動物たちが寄ってくるが、もはや扱いも慣れたものだった。
適度に相手をしてやると、動物たちは満足気に去っていく。
それを見計らってから、ウルサは稲豊のあとを追った。
「ボクの夢を無視する気!?」
「その夢は食糧改革を果たすまでとっとけ。あそこには強くて危険な奴がたくさんいるんだ。物見遊山で行くような場所じゃねぇんだよ。っていうか、そもそも魔物のお前じゃ無理に決まってるだろ」
「ボクはクリス姉さんたちみたいに耳は尖ってないし、羽だって折り畳めば分かりっこないよ。ねえねえ、ちょっと見るだけだからさ? 危ないことは何もしないって約束するから!」
屋敷の玄関扉の前で、ウルサは稲豊を拝むように懇願する。
しかし、拝まれたくらいで引き受けるわけにはいかない。
人数が増えれば増えるほど、スパイ活動がばれる危険性は増していくのだ。
「ダメったらダメ。どうしてもって言うんなら、ソフィの許可を得てからにするんだな」
「…………そんなこと言うんだ。シモン君は、やっぱりボクのことが嫌いなんだ」
ウルサは震える声でそういうと、稲豊に背を向けてヨヨヨと泣いた。
泣かれてしまうと、放置して去るのはさすがに気が引ける。
「いや、嫌いとかそういう話じゃなくてだな?」
「ボクだってシモン君と親睦を深めたいと思ってるのに、なかなか時間がとれなくてさ……。だから昨日はシモン君と話せるって凄く楽しみにしてたのに、バーバラのせいでその機会も無くなっちゃうし……」
「うーむ、そう言われると…………弱い」
沸々と、ウルサに対する同情の念が湧いてくる。
稲豊は玄関扉のドアノブを握ったまま、金縛りにでもあったように動けずにいた。
「それに……シモン君はボクにひとつ借りがあるよね?」
「借り? えっと、何かあったっけ?」
「料覧会のとき、バーバラを貸してあげたの忘れたの? 『一度だけお前の頼みを何でも聞いてやろうじゃねぇか!』って言ったのは、シモン君じゃん!」
「うぐッ!? そういやぁ……そんなことを言った気が……」
料覧会の準備をしていたときの記憶が蘇る。
バーバラを借りるために、記憶の中の自分は確かにそう口にしていた。
今更になって『失敗したな』と思ったところで、後の祭りである。
「シモン君は、約束を破るような卑劣漢じゃないよね?」
「も、もちろんだとも……!」
約束を持ち出されては、もはや稲豊には観念するしかなかった。
もしここで断っても、ウルサなら黙ってやってくるかもしれない。
それに、ルートミリアにも他の王女たちと仲良くするように言われている。
まるで自分に言い聞かせるように、稲豊は彼女を連れて行くに足る理由を探していた。
「仕方ねぇ……ちょっとだけだぞ? エデンを少しだけ見たら、ちゃんと帰るんだからな?」
「もっちろん! えへへ、楽しみだなぁ」
「ハァ~~~~~………………」
笑みをこぼすウルサとは違い、稲豊は困り顔で大きく嘆息する。
そしてふたり一緒に、エルルゥ家の扉を潜るのだった。
「………………入ったか」
そんなふたりの様子を、建物の死角から窺う男がいた。
男の全身を覆う黒いマントには、動物が苦手とする木の樹液が刷り込まれている。
だから男がエルルゥ家の中庭に侵入したとき、動物たちが寄ってこなかったのは必然といえた。
「……………………」
男は屋敷の中の気配を慎重に探りながら、換気のために開いていた一階の窓に近づくと、するりと音もなく屋敷の中へ入っていくのだった。




