第217話 「一世一代の大告白」
次に誰がやって来るのか?
期待に胸を膨らませ、落ち着きなく川辺を歩き回っていた稲豊は、
「この格好は、やはりなんだか――――こそばゆいのぅ」
と、はにかみながら現れたルートミリアを見て、再びの限界を迎えた。
鼻血は堪えたものの、地面に仰向けに倒れ、顔からは沸騰したヤカンのように蒸気を昇らせる。
この世でこれほど美しい物が、他にあるのだろうか?
例え目の前に拳大の宝石があろうが、見たこともない絶景があろうが、いまの稲豊にとっては些末な出来事に過ぎない。
後光が煌々と差すくらいに、水着姿のルートミリアは眩しく見えた。
「そ、そんなにおかしいかの? やはりいつもの服に着替えてくる!」
「まったぁぁ!! ぜんっぜん変じゃありませんから!! そのままの貴女でいてください!!」
「そ、そうか? ではとりあえず……一緒に涼むか?」
「はい! お供します!」
もはや座り心地にも慣れてしまった岩の上に、ふたりは横並びに腰を下ろす。
しかし岩の感触にはすぐ慣れたが稲豊だったが、ルートミリアの水着姿にはまだまだ慣れそうもない。
稲豊は視線を逸しつつ、慣れるまでの時間稼ぎの話題を模索する。
「えっと……そうだ! アドバーンさんって、どんな経緯でクロウリー家にやってきたんですか?」
「アドバーンの?」
「その! アドバーンさんって、けっこう謎なところあるじゃないですか? だからちょっと気になったというか何というか」
意識するあまり、遠い話題に着陸してしまう。
色気の『い』の字もない話題だったが、ルートミリアは嫌な顔ひとつ見せなかった。
「そうじゃのぅ。アドバーンに関しては、実は妾もよく知らんのだ。妾が産まれる前から母に仕えていて、父と共にエデンと戦った。母が身籠ってからは、クロウリー家の執事としてやってきた。妾が知っておるのは、そのくらいかのぅ」
「え? アドバーンさんが仕えているのって、ルト様のお母さんの方なんですか? 俺はてっきり、魔王に仕えているものだとばかり……」
「母とアドバーンがどこで知り合い、どんな関係を築いたのか妾は知らん。だが、ただの主従関係でないことだけは確かじゃの」
リリトとアドバーンの謎の関係。
稲豊は想像を巡らしたが、最終的に想像の域を出ることはなかった。
「あとは……そうそう! 幼き頃に、奴の両親について訊ねたことがある。アドバーンは少し悩むような素振りを見せたあとで、こう言った。『天使のような母と、悪魔のような父との間に生まれました』とな。どうやら、父親との折り合いは良くなかったようじゃの」
「アドバーンさんの両親かぁ。なんかあんまり想像できないッスね」
「何度も穴に落とされて、父が嫌いになったのかもしれぬのぅ」
「あはは! 違いないですね!」
森の中の小さな川辺で、ふたりはしばらく無邪気に笑い合った。
そして一頻りの笑いをこぼしたあと、どちらともなく空を見上げる。
少しの沈黙のあと、口火を切ったのはルートミリアの方からだった。
「シモン。間者をするのは…………辛いか?」
「いえ、俺が望んだことですので」
はっきりと告げた稲豊だが、その表情は晴れやかとは程遠い。
何か複雑なものを抱えていることは、誰の目から見ても明らか。
澄み渡る空から視線を外したことが、何よりの証拠だった。
「まだ、妾に報告を終えてないことがあるのではないか?」
「………………」
「言いたくなければ、それでも構わん。だが、それを口にすることでシモンの積み荷が少しでも軽くなるのなら、話して欲しい。妾は例えほんのわずかでも、お前の力になりたいのだ」
ルートミリアのまっすぐな想いが瞳に宿り、稲豊の心に訴えかけた。
嘘や見栄などのない、彼女の本心が伝わってくる。
だから稲豊も、誤魔化そうとは思わなかった。
「わざと報告しなかったわけじゃないんです。ただ、どう報告すればいいのか分からなくて……。心の整理がついてから、報告するつもりでした」
「そうか、急かすような真似をしてすまなかった。シモンが話したくなければ、妾は――――」
「いえ、良いんです。結局のところ、俺は自分で整理なんかつけられないのかもしれない。ルト様に訊いてもらえることで、納得できることがあるかもしれません」
稲豊はすうっと大きく息を吸ってから、ぽつりぽつりと話し出す。
「俺は人と魔物の友好と、食糧改革を望みながら……心のどこかで復讐心を燻ぶらせていました。それはエデンの人たちと霞の沼へ行ったとき、首を擡げさせたんです。ハーピーを退治して、子供たちを連れて沼を出る途中、俺はトライデントのひとり…………レフトの仇の、ティオスと一緒になる時間がありました」
それは偶然が生み出した時間。
勇者が子供たちに武勇伝をねだられ、レトリアがエルブとシグオンにハーピー戦について語っていたとき、稲豊は隣りを歩くティオスの存在に気がついた。
ハーピーとの戦いに参加できず不貞腐れていたティオスを見ていた稲豊は、自身の心の奥から湧き上がる、黒いものを感じていた。それはどんどんと色を濃くしながら、肺を黒で満たしていく。やがて肺に収まりきれなくなった黒は、気道を通り、言葉となって口から溢れた。
『…………魔獣を殺せなかったことは、そんなに残念なことなんですか?』
会って間もない人間に、そんな質問をぶつけられると思わなかったティオスは、少し驚いた様子で稲豊の方を見た。
しかし、そんなことで稲豊の黒は消えはしない。
再び、悪意という名の言葉が口を飛び出す。
『敵を殺すことは、そんなに楽しいことなんですか? 魔物を殺すとき、あなたはおよそ……どんな気持ちで行っているんですか?』
不審に思われるかもしれない。
そんな思考は、黒によって完全に塗りつぶされる。
『ああ、お前はアレか? 人と魔物の共生運動だか何だかって連中のひとりか?』
だが幸いにも、ティオスの勝手な勘違いで事なきを得る。
ティオスはやれやれと首を横に振ったあとで、友達とでも話すような気さくな口調で言った。
『オレさぁ、ガキのときに親父とお袋を魔物に喰われたんだよ。それも目の前でボリボリってさ』
絶句する稲豊をよそに、ティオスは続ける。
『オレが生まれたのは、アート・モーロの南西にあるちっぽけな村だった。でもちっぽけだからこそ、村人みんなで手を取り合って暮らしてたんだ。足りない物も、豊富な物も、村人全員で分け合った。親父もお袋も、そんな暮らしに満たされてたみたいでさ。でもある日――――オレたちのささやかだけど幸せな暮らしは、魔物の襲撃によってあっけなく終わりを告げた』
ティオスは平然とした表情で語るが、それが辛くないことの証明にはならない。友人を失った稲豊は、身を引き裂かれるような苦痛を感じた。だが彼女は両親で、しかも子供のときの体験である。幼い心に、想像を絶する痛みを感じたに違いなかった。
『親父は仕事終わりの一杯を楽しみにする普通の農夫で、お袋は編み物が得意な普通の主婦だった。軍に入っていたわけじゃない。魔物どころか、虫を殺すことすら躊躇していた善良なふたりが、なんで惨たらしく殺されなきゃいけなかったんだ? オレが魔物を恨む理由としては、十分過ぎるとは思わねぇか?』
「俺は……ティオスに言い返すことができませんでした。だって、俺だってレフトが殺されたときには、エデンの全員を憎んだんですから。彼女のその話を聞いてから、悔しくてやるせなくて……。なんだか、ずっと心の中がもやもやしてて……」
すべてを話し終えた稲豊は、なんとも言えない複雑な表情で奥歯を噛んだ。
するとその頭に、小さな手がそっと添えられる。
そしてそのまま、ルートミリアは優しく稲豊の頭を抱いた。
温もりが、肌を通して伝わってくる。
「この世は理不尽で、辛くて悲しくて……そして冷たい。できればお前には、食糧改革の終わったこの世界を見て欲しかった。無力な妾にいまできることは……凍えるお前の心を、こうして温めることだけ。許せシモン」
「ルト様は何も悪くないです……何も悪くない。間違ってるのは、この世界の方です。俺たちで変えましょう。一緒に」
「うむ……うむ! 必ず変えよう。悲しい運命の鎖から、皆を解き放とう」
ふたりは静かに瞳を閉じて、温かな時間にその身を委ねた。
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長い包容を終え、ルートミリアが再び岩に腰を下ろしたとき、稲豊はハッと面を上げる。
「そうだ! 忘れるところだった!」
「ん? どうしたシモン?」
「ちょっと待っててください!」
稲豊は急いで木の枝に干してあったズボンのところに駆け寄ると、おもむろにポケットを弄った。そしてポケットの中から小さな瓶を取り出すと、嬉々としてルートミリアのところへ駆け戻る。
「なんじゃ? その黄色い液体は?」
当然の質問をするルートミリアへ、稲豊は得意気な顔を向ける。
そして小瓶を差し出しながら言った。
「これは『蜂蜜酒』といって、ヒャクと蜂蜜を混ぜて作ったとっておきです! なんせ、魔女の遺産をふたつも使ったんですからね。ルト様が気に入るかなと思って、今朝方に作ってきました」
「ほ、ほう? 妾のためにとな……? そこまで言われたら、一口ぐらいは試さねばシモンに悪いな。うむ」
ルートミリアは母親が嫌いなので、仕方なくといった様子で小瓶を受け取る。しかし稲豊は、彼女がゴクリと喉を鳴らす音を聞き逃さなかった。
素直じゃないルートミリアの態度に心の中で笑いながら、稲豊は彼女の反応を待つ。
「ふわぁ、なんと甘く香ばしい……。よ、よし! 飲むぞ!」
なぜか気合を入れたルートミリアは、恐る恐ると小瓶に口をつける。
そしてそれをゆっくりと傾け、蜂蜜酒を一口分だけ口に含んだ。
その直後――――
「くうッ!」
「ル、ルト様!?」
ルートミリアが蹲り、苦しそうに呻く。
思いも寄らない反応に稲豊は狼狽し、具合を見るために慌てて駆け寄った。
するとルートミリアは、小刻みに震えながら口を開く。
「う、旨すぎる…………!」
「…………へ?」
呆け顔をする稲豊の前で、ルートミリアはガバっと立ち上がった。
「甘い香りだが、甘すぎることのないまろやかな口当たり。酸味と甘味が絶妙に合わさりあって、これはまさに……絶品。そう……絶品と断ずるのに、些かの迷いもない。シモン、でかしたぞ!」
再び岩に腰を下ろし、えびす顔で小瓶に口をつけるルートミリア。
稲豊はその微笑ましい様子に胸を撫で下ろすと同時に、彼女の眩しい笑顔に心を奪われていた。
『ああ、やっぱり俺は……ルト様の笑顔が大好きだ。もっともっと、この笑顔を見ていたい』
心の中でそんなことを考えつつ、稲豊はルートミリアの横顔を見つめる。
そのときだった――――
「やっぱり俺、ルト様が好きです」
「ぬあッ!?」
ルートミリアが、驚いて小瓶を落としそうになる。
だがそれ以上に、口に出した稲豊自身が驚いていた。
そんなことを口に出すつもりはなかったのに、完全に無意識のことだったのだ。
「きゅ、急にどうしたのじゃ?」
顔を林檎のように赤くしながら、ルートミリアが訊ねてくる。
それは稲豊も同様で、できることならこの場を逃げ出したい衝動に駆られていた。
しかし、心にもないことを口にしたわけではない。
むしろ本心だったからこそ、無意識の内に口をついたのだ。
言ってしまったものは仕方ない。稲豊はもう、自分の心に従うことにした。
「俺は……ルト様が好きです! 大好きです! だから、だからその……主従関係も嫌いなわけではないんですけど、俺としてはその……こ、恋人同士の関係になりたいと思っているわけで! だからその……もしルト様も同じ気持ちだったなら、俺とつ……付き合ってください!!」
言ってしまった。
稲豊の脳内は、後悔や気恥ずかしさや不安でぐちゃぐちゃだ。
でもその言葉は嘘偽りのない本心。これでダメなら、ある意味では納得できる――――という達観が、心のどこかにはあった。
チラとルートミリアの様子を窺えば、彼女は真っ赤になったまま凍りついていた。
「………………………………そそ、そうか……!」
少なくない時間を費やしたあとで、ルートミリアは声を裏返しながら言う。
そして嬉しいような困ったような顔をし、ちびと蜂蜜酒を一口飲む。
そこからまた、しばらくの時が流れた。
やがて蜂蜜酒をすべて飲み干したルートミリアは、
「妾も……同じ気持ちである」
ものすごく恥ずかしそうに、そう口にした。
耳を疑うのと同時に、歓喜の感情が稲豊の胸に押し寄せてくる。
可能ならば、大声で叫び、踊りだしたいほどだった。
「そ、それじゃあ!?」
「しかし、待つのじゃシモン」
小躍りしそうになるところを、ルートミリアに制される。
彼女の表情は先ほどまでと違い、どこか憂いを帯びていた。
「妾も同じ気持ち……だが、それは妾だけではないのだシモン」
「え? それって……どういう?」
ルートミリアの言葉の意味が分からず、途端に不安になる稲豊。
そんな稲豊を諭すように、ルートミリアは続ける。
「お前はもう、ひとりだけの体ではないし、妾もただのルートミリアではない。妾は魔王軍の総大将で、お前は多くの者に慕われておる。マリーもクリスたちも、あの色恋沙汰には無縁だったミアキスでさえ、お前に淡い恋心を抱いておるようじゃ。この状態でもし妾たちが婚約でも発表しようものなら、どうなると思う?」
「そ、そりゃあその皆が祝福…………ってわけには、いきませんよねやっぱり」
素直に祝福する者もいないわけではないだろう。
むしろその方が大半かもしれない。
しかし中には、反発しへそを曲げる者も現れるかもしれない。
稲豊はこのときになってようやく、ルートミリアの言いたいことが分かった。
「皆が心をひとつにせねば、エデンとの戦いは不可能なのだ。だからシモン、妾だけでなく……皆を愛せ。我が父がそうしたように、他の者にもお前の愛を分けてやるのだ」
「そう……ですね」
お互いの立場という壁が、立ちはだかる。
せっかく仲の良くなった王女姉妹を、こんなことで再び仲違いさせるわけにはいかない。そんなことは、稲豊でなくとも分かることだった。
OKをもらえたような、振られたような。
複雑な感情が稲豊の中で渦を巻く。岩に腰を下ろした稲豊は、呆然と川を眺めた。
「だがなシモン? お前を慕う者がどれだけいようと――――」
「……へ?」
落ち込む稲豊の顎を、ルートミリアがくいっと持ち上げる。
そして――――
「んむ!?」
ゆっくりと、かつ濃厚に、稲豊へ口づける。
それは全身を溶かすほどの熱となって、稲豊のすべてを駆け巡った。
やがて永遠にも一瞬にも感じられる時が過ぎたあとで、ルートミリアはゆっくりと唇を離す。そして稲豊が大好きな不敵な表情を浮かべてから――――
「一番は妾だ。それだけは……忘れるな?」
吐息が掛かるほどの距離で、ルートミリアはそう口にした。
「は、はひ!」
先ほどまでの複雑な感情は一瞬にして霧散し、天にも昇るような気持ちが稲豊を覆う。
いったい何を悩んでいたのか?
ルト様と付き合えないわけじゃない。
この戦が終わってさえしまえば、堂々と婚約だってできるはずだ。
すべてから解放されたような、逆にすべてが満たされたような心地よさ。稲豊はより一層、食糧改革への決意を固めるのだった。
「さて、少しお前を独占しすぎたかな? そろそろ、次の者に変わってやらねばの」
稲豊の様子を満足気に眺めたあとで、ルートミリアは皆が待つであろう後方の森へ振り返る。するとそのとき――――
「ちょ、次はボクの番だってば!?」
「イナホ! 敵襲だ!!」
「逃げてください~!!」
緊迫した大勢の言葉が響き、稲豊らは何事かと警戒する。
そして臨戦態勢をとったふたりの前に、それは現れた。
「みんなで楽しそうなことをやってるじゃないかい! アタシも混ぜてもらおうさね! 久しぶりに、この美貌で皆を悩殺さね!」
現れたのは、用事を終えてやってきたバーバラだった。
彼女が来るのは別に良いのだが、問題なのは彼女がどこから入手したのか、極小サイズのビキニを着ていたことだ。
血のように赤い極小ビキニを着込む、最醜形態のバーバラ。
それはもはや凶器を通り越して、兵器の域にまで到達している。
「ぐああ!! 目が……目が潰れる!!!!」
「お? 坊主はここにいたのかい。さあ美人にお杓子しな!」
「イナホ殿!! いまお助けに…………ぐおぇぇ……!」
アドバーンやライトも止めに入ろうとするが、バーバラを見るだけでノックダウンしてしまう。現場はまさに大混乱。
酒池肉林で始まった森の中での祝宴は、阿鼻叫喚の地獄絵図で幕を下ろすのだった……。




