第216話 「アドバーンとの誓い」
「ふふふ、捕まえてごらんなさ~い」
「まてまて~!」
ぱちゃぱちゃと浅瀬を走る背中を、稲豊は満面の笑顔で追う。
跳ねる水しぶきが、キラキラと輝いて美しい。
「あっ!」
「危ない!」
足を滑らせ、よろけた肢体を稲豊が咄嗟に支える。
自然と抱き合う形になってしまったふたりは、至近距離で見つめ合った。
熱っぽい視線を絡ませたあと、ふたりはゆっくりと顔を近づける。
そして稲豊は、その瑞々しい唇…………の周りにある口髭を眺めてから――――
「って、またこのパターンかよッ!!!!!!」
と、首にかけていたタオルを思いっきり川に叩きつけた。
「長いノリツッコミでしたな」
一緒に茶番を演じたアドバーンは、稲豊の様子にご満悦。
ふたりはそのまま水から上がり、適当な岩の上に腰を下ろした。
「っていうか、なんでアドバーンさんが……?」
ルートミリアの番を期待していただけに、この展開に稲豊は不満を漏らす。
さらにアドバーンが着ている水着がブーメランパンツであることも、不服に拍車をかけていた。
「まぁまぁ、そんなに嫌な顔をしないでくださいませ。女性陣に頭を下げて、無理に時間を作っていただいたのですから」
「へ? 無理に?」
「ええ。最近、イナホ殿とまともに会話もできませんでしたからな。この機会に漢同士、腹を割って話す時間が欲しかったのでございます」
ふざけた空気ではなく、真剣な雰囲気を漂わせるアドバーン。
一年間も顔を突き合わせていたら、真面目かどうかは分かるようになってくる。
稲豊は茶化すことなく、アドバーンの次の言葉を待った。
「イナホ殿はこの世界に来てたった一年だというのに、私めができなかったことを幾つも叶えてまいりました。貴方には、いくら感謝してもしたりないほどの恩義を感じております」
「買いかぶり過ぎッスよ。必死になってやってたら、たまたま上手くいっただけッスから」
「そんなことはありません。リリト様もきっと、お喜びになられておりますよ」
結界のために人柱となり、いまも屋敷の地下深くで鎮座するリリト。
ルートミリアの母で、エデンの元天使で、贖罪の魔女とも呼ばれている。
その数奇な人生は、稲豊に興味を抱かせるには十分なものだった。
「あの……ちょっと訊いても良いですか?」
「うん? なんでございましょう?」
「リリト=クロウリーはエデンの天使なんですよね?」
「はい。元でございますが」
「どうして、彼女は魔王国にやってきたんですか? 人間側だった彼女が魔物側に心変わりするって、結構その……すごい決断だなと思って」
魔物に拾われた稲豊と、リリトとの境遇は違う。
リリトは人間側に拾われ、その後に魔王国へ亡命した。
そして魔王の妻となり、一人娘のルートミリアを産むにまで至ったのだ。
これはエデンへの完全な背信行為に他ならない。
相手が相手なだけにオブラートに包んだ稲豊だったが、内心では『裏切り』という行為に些かの戸惑いがあった。
「そうでございますねぇ……。実を申しますと、私めもそれが気になってリリト様にお伺いを立てたことがあります」
「アドバーンさんも?」
「ええ。普通に考えたら戦争中の敵国に亡命するなど、間者かと真っ先に疑われるに決まっております。それでも彼女は、命を賭して魔王国へやってまいりました。実際、亡命の際には色々と波乱があったとかなかったとか」
「でも、そうまでしてでも……魔王国に来たかったってことですよね?」
稲豊が訊ねると、アドバーンは青空へと目をやった。
そして細い目をさらに細めて、ゆっくりと時間をかけてから口を開く。
「イナホ殿……亡命というのは、行きたいから行くというものばかりではございません。自分の国に居られなくなったからする、という場合もあるのです」
「ということは、リリト=クロウリーは……」
「そう。エデンという国に疑問を持ち、やがてそれに耐えきれずに亡命したのです。まあ、魔王様と出会ったというのも、大きな要因ではあったでしょうが」
アドバーンはやれやれと首を振る。
その表情からは、どういった感情なのかイマイチ読み取ることができない。
だから稲豊は、再び質問をぶつけてみた。
「確かにエデンの戦い方はなんつーかその……姑息なところもあるとは思います。でも、人々の暮らしを間近で見た俺としては、エデンがそこまで酷い国ってのは……違和感があるというかなんというか。これを言っていいのかどうか分かりませんけど、魔王国との大きな違いを見つけることはできませんでした。ルト様のお母さんは、いったいエデンの何がそんなに気に食わなかったんですか?」
「ハッハッハ! 実に正直に申しますねイナホ殿。いやけっこうけっこう」
稲豊のまっすぐな質問をぶつけられたアドバーンは、とても愉快そうに笑った。だがその笑みには一切の嫌味が込められていないので、稲豊も憤慨はしなかった。
「エデンではよほどの者でない限り、食糧に困ることはございません。食糧危機に晒されているこの国よりも、豊かであると言わざるを得ませんな」
「だ、だったら」
「しかしそれは、表向きの話でございます」
「……表向き?」
稲豊が訊ねると、アドバーンは深い頷きを見せる。
そしていつもの明るい声ではなく、真剣味のある静かな声で言った。
「エデンの人口は年を追うごとに増え、いくら食料を生産しても追いつかない事態になっているのです。それはそうでしょう……。この荒涼とした世界で、極一部分に集まった食材と人間。これで食糧が底をつかないわけがない。だから彼らは血眼となって、我々の持つ数少ない食糧を狙って攻めてくる。ヒャクを執拗に狙ったのが、その証拠でございます」
「人口の増加……。そういえばエデンで発行されている新聞でも、そういう内容はよく目にします。でも、それがルト様のお母さんがエデンを去った理由になるんですか?」
「いえ、人口増加の食糧不足問題は、その前置きのようなもの。リリト様がエデンから去ったのは、エデン軍による人口調整…………即ち『間引き』について知ってしまったからなのです」
「ま……間引き?」
不穏な言葉が、稲豊の目を大きく開けさせた。
アート・モーロの住民たちの、幸福に溢れた普通の日常。
そんな彼らの背後に潜む、エデンの闇。
稲豊はその先を聞くことに抵抗を感じながらも、アドバーンの真摯な瞳から目を逸らそうとは思わなかった。
「人口の調整って…………何を……やるんですか?」
「無実の者を裁いたり、事故に見せかけたり、戦死と偽り葬ったりエトセトラエトセトラ。いま思えば、先の戦で大軍をアキサタナのような弱卒に任せたのも、調整の一環かもしれません」
「い、いったい誰がそんなことを……!?」
声に出してから、稲豊は自分の頭にとある人物が浮かんでいることに気がついた。そしてそれは、表情となりアドバーンにも伝わる。
「そう――――『大参謀トロアスタ=マーダーオーダー』。彼と、彼の率いる神咒教団が暗躍しているのです。表では布教活動と称し国民を選定し、裏では大勢を神の名の下に殺めておるのですよ。もちろん、それは教団内の一部の人間によって行われ、一般信者の知るところではないでしょうが」
「神咒教が……まさかそんな……」
サイセの朗らかな顔が蘇る。
あの親子が所属している教団が、そんな殺人集団など信じられない話だった。
だが、アドバーンの瞳に嘘はない。
稲豊は混乱を必死に抑えようとしたが、結局それは徒労に終わった。
「じゃあリリト=クロウリーは、その事実を知って?」
「私めは、そう伺っております」
「エデンの人たちに真相を話すのはダメなんですか? 神咒教がそんな危ない団体だって分かったら、皆が黙っていないはずです!」
「残念ながら、彼らが証拠を残すことはございません。しっぽを掴めない以上、敵側である我々の話になど誰も耳を傾けてはくれないでしょう。いえ、例えエデン側の人間が言ったとしても、信じる者は現れない。当時のリリト様も必死になって訴えましたが、結果は見ての通りです。リリト様は民衆を惑わしたと糾弾され、エデンでは現在でも魔女として語り継がれております」
「そんな…………」
リリト=クロウリーは民衆の為を思って立ち上がった。
しかし彼女は、その愛すべき民衆たちによって糾弾されたのだ。
稲豊は当時の彼女の心境を思い、胸が締め付けられる思いだった。
そして次に、エデンに失望し亡命した彼女の心中を察する。
「じゃあ……じゃあ…………俺たちはどうしたら良いんですか? 言っても分かってもらえない。訴えても信じてもらえないなら……。いったい俺たちは……何をどうすれば……?」
「彼らを救えるのか――――ですかな? ふふふ、さすがはイナホ殿だ」
「え?」
アドバーンは小気味よく笑うと、スッと立ち上がる。
そしてどこか呆けた表情を浮かべる稲豊の方へ顔を向けると、
「敵国の者をそこまで想える貴方だからこそ、彼らを救うことができるのかもしれない。お嬢様も、そんな貴方だからこそ、手を取り合おうと思ったに違いありません」
「でも……想いだけじゃ彼らは救えない。俺にはどうすればいいかさえ、分かっていないんですから」
「何をおっしゃいますイナホ殿! 貴方はすでに実践されてるではありませんか。彼らを救う、たったひとつの方法を」
「たったひとつの方法? それってまさか――――」
稲豊はハッとしたように面を上げた。
それはこの世界の問題の根本であり、原点。
人間だけでなく、魔物をも救う、稲豊とルートミリアの夢。
「…………『食糧改革』」
「それですよイナホ殿。このメシマズな世界の食糧を改革すれば、エデンも国民の調整など行わなくて済む。魔物も人間を襲わなくて済む。まさに大・団・円! それには大きな壁が立ちはだかることでしょう。ですが、人間と魔物の両方の心を持つ貴方ならできるはず! もちろん、我々も全力でサポート致します」
そういって、アドバーンは右手を差し出した。
ただの右手ではない。
その手のひらにあるのは、アドバーンの切実な想いだった。
稲豊はアドバーンと向き合うように立ち上がる。
そして――――
「我々でこの世界の理へ挑み、そして取り除きましょう。人間と魔物を分かつ【国境】を!」
「はい! 絶対に!!」
ふたりは互いの決意を確認するように、固い握手を交わす。
そのときの右手が痺れるほど強いアドバーンの想いを、稲豊は生涯忘れることはなかった。




