第20話 「人+蜘蛛=ナナ」
宝石のように輝いていたはずの瞳は、今はくすんだ上に影が掛かっている。
静かに目を閉じ。「そう……ですか」と言葉を零す少女の心境は計り知れない。
そんなナナの姿を尻目に稲豊はスッと立ち上がると、
石壁を正面に見据え、冷たく固いそれに両手を添える。
俯く少女からは確認できないその瞳には、怒りにも似た光が宿っていた。
そして次の瞬間。稲豊は額を強かに壁に打ち付ける。
「うおおぉぉ!! このっ! こっの!!」
「な……何をやっているんですかイナホ様!?」
パーティリーダーのいきなりの奇行に、さすがにその表情を驚きで覆う少女。そして引きつつも慌てて止めに入る。
「大丈夫だ!」
止めに入るナナを左手で牽制する稲豊。
その額は少し割れ、流れる血が鼻の上で分かれて顎から落ちる。全く大丈夫に見えないその行動に、ナナは今までで最大の困惑した顔となった。
「いてっ」
ズボンのポケットから取り出した手拭いで強引に血糊を拭い。更に両手で顔の両側を叩き気合を注入する。その後、「うしっ」の言葉と共に勢い良く振り向き、困惑から未だに抜け出せないナナに話し掛ける。
「ナナ。触るぞ?」
「…………はい?」
両腕のコートの袖を捲り上げ、恐る恐る右手をナナの方へ伸ばす稲豊。
訳も分からず身を固くする少女。
そして稲豊は、その艶めかしくも美しい……、黒光りする足にゆっくりと触れる。
「――――お、俺を見ろナナ」
触れられている足をどこか恥ずかしげに眺めていた少女は、稲豊の言葉に顔を上げる。そして一言「あ」と発した。
ナナがそう零すのも仕方がない。何故なら稲豊の首や捲り上げた右腕には、夥しい数の鳥肌が立っていたのだから。
「わ、分かるだろ? 俺の体が、いや魂が! 全力でっ……きょ、拒否してるだろ?」
頬を引きつらせながらナナに語りかける稲豊。
その震え声は、彼の限界が近いことを顕著に表している。
そしてスッと足から手を離し、血にとって代わった額の汗をコートの袖で拭う。
「無理だろコレ! だって俺の意思と関係無いんだもん! 今の俺には克服とか絶対無理!!」
全力で拒否され、ナナの背中に更に影が落ちようとする。
「でもナナ……コレはお前のせいじゃないよ?」
しかし稲豊はそれを優しい言葉で止める。
ゆっくりと顔を上げる少女の感情は読むことが出来ない。それでも稲豊は言葉を続ける。
「確かに俺は拒否してるよ。嫌悪してるよ。でもそれは、俺が弱いせいだ……、俺がトラウマに負けているせいだ」
「――トラウマ?」
その言葉にようやく声で反応を見せるナナ。
少女がその心の内を、過去を語ったように……稲豊も自らの弱さを語る。
「俺は虫が苦手だ。特に毒を持ってる生物はどんなのでも体が拒否する。昔の事が原因でそうなった。まあ得意な奴なんてそうはいないと思うけど、俺は特にヒドイ部類だと思ってくれて良い」
「ナナだって……好きで蜘蛛に生まれた訳じゃ……」
ナナは自分のことが好きではない。むしろ大嫌いである。
蜘蛛に生まれた部分も、人に生まれた部分もナナの人生の邪魔でしかない、そう考えていた。
「でもな?」
そう言ってナナの頭を慈愛を込めて撫でる稲豊。
「俺はお前の人間らしいところが好きだよ?」
「う、嘘です!! 自分勝手なナナを好きになるなんて……あ、ありえません!」
そう発した稲豊の言葉に、髪を振り乱し涙目で否定するナナ。
自分の事が大嫌いな少女は、自分が好かれるなんて想像ができない。
取り乱す少女の頭を、稲豊はそっと自分の胸で包み込む。
生まれて初めての感覚に呆然とする少女は体を動かせない。
「短い付き合いだけど、お前には何度も救われてる。それは人としての部分でも、蜘蛛としての部分でもな。お前の思いはとっくに実ってるよ? お前の蜘蛛を嫌悪する自分の事は嫌いになれても。お前の事を嫌いになんてなれないよ」
「う、うそ…………で……す」
望んで止まなかった言葉のはずなのに、胸の中で弱々しく否定の言葉を吐き出す少女。そして時間を掛けて少女の頭を胸から離した稲豊は、先程と同じ言葉を掛ける。
「俺を見ろナナ」
そして先程と同じように、稲豊の体に視線を這わしたナナは、自らの瞳に輝きが戻るのが分かった。
「トリハダ…………出てませんね」
「だろ? 今は無理だけどさ。きっとお前の蜘蛛の部分も気にならなくなる…………。だってお前」
そこで稲豊は一旦言葉を区切り。
縋るような視線を向ける少女に笑顔を浮かべながら、言葉を綴った。
「好きな人の苦手な部分にはさ? ――――目を瞑りたくなるもんだろ!」
そこで、この穴の中で初めてナナは……。
「――――――――はい!」
笑顔を見せる。
その笑顔は涙を伴っていたものだったが。稲豊が見た中で、一番眩しく感じられた。
短い……な。




