第212話 「人生最悪の休日」
稲豊だって、マルコ同様にエデンへの恨みはある。
いや、恨みなんて生易しいものではない。もはや憎しみすら越えた、憎悪の感情だ。
「だけど……」
しかし、知ってしまった。
仇の現実を、事情を、想いを。
知ってしまった以上、以前と同じようにとはいかない。
そして何より、ルートミリアが復讐を望んでいないのだ。
「お互いの国が手を取り合うことこそが、食料改革への近道なんだ。きっとそうだ」
エデンとの戦争は、実に六百年も続いている。
魔王サタンという絶対的な柱を失ったいま、両軍の拮抗が破れる可能性は誰にも否定できない。不利な状況で戦うよりも、同盟を結んだ方が遥かに現実的なように、稲豊には感じられた。
「俺はルト様の相棒として、このメシマズ世界の改革を目指すのみだ!」
朝食の完成と同時に、稲豊は厨房で決意を新たにする。
そして、できたばかりの朝食を手早くワゴンカートへと載せていった。
そんなとき、視線がふと、となりの調理台へと泳ぐ。
「あいつら……なんでいねぇの?」
料理人のいない調理台を見て、稲豊は呟く。
『あいつら』とは、同じ料理人仲間のネロとタルタルのことだ。
朝食の用意は基本的に、王女の料理人が優先される。
なので朝のこの時間帯は、稲豊とネロとタルタルの三料理人が厨房に集まるのが、日常の光景となっていた。朝が遅いウルサとソフィアの朝食は、ほとんど昼食に近い時間に用意されている。
「今日はナナもミアキスさんもいないんだよなぁ」
ミアキスが鍛錬で参加できないのはよくあることだが、ナナが参加しないのは珍しい。稲豊よりも早く厨房に訪れては、いつも調理の準備を整えてくれている。
だからたったひとりでの朝食作りは、久方ぶりのことだった。
「本当どうしたんだろ?」
ナナが参加しない日もないことはない。
だが、連絡がないのは初めての経験である。部屋に行こうかとも考えた稲豊だったが、助手を催促しているみたいで何だか悪い気もした。
「まあ、朝食もつつがなく作り終えたことだし、『とっておき』もいい感じに仕上がったし、あまり考えすぎないようにしよう」
朝食を載せたワゴンカートを押しながら、鼻歌交じりに廊下を進む。
ルートミリアの気まぐれにより、最近は朝食を一階のサロンで摂ることが日課となっていた。
「失礼します」
サロンの扉をノックし、返事も待たずに扉を開ける。
ワゴンカートと一緒に入れば、そこには愛すべき仲間たちの姿が――――――
あるはずだった。
「へ?」
素っ頓狂な声を出した稲豊が見たのは、
「おはようございます。イナホ殿」
長テーブルに座る、アドバーンの姿…………だけだった。
そこには愛らしい幼女メイドの姿も、献身的な人狼の姿も、尊大だが笑うと可愛い主の姿も見えない。さらに言えば、時折やってくるマリアンヌの姿さえなかった。
「あの……皆は?」
稲豊がおずおずと訊ねると、椅子から腰を上げたアドバーンが、首を左右に振った。
「さあ? 私めはお嬢様からしか、言伝を預かってはおりませんので」
「ルト様から? なんてですか?」
「『食事は部屋で摂る――――』と」
「そ、それだけッスか?」
「はい。それだけ」
仲間と一緒に食事を摂ることを信条に置くルートミリアが、部屋で食事を摂るのは稀である。しかもその信条を知るナナや、ミアキスさえいないのはさらに珍しい。前代未聞といっても、過言ではなかった。
「やっぱり……昨日の件……か?」
思い当たる節があるとすれば、昨日の騒動が真っ先に頭に浮かぶ。
しかしそのことは昨日に何度も謝ったし、ナナとミアキスのふたりに至っては庇ってさえくれたのだ。
「それでは、私めが皆に配膳しておきましょう。もしイナホ殿が運んだら…………『えふぇふん!』なことになるかも知れませんので」
「“えふぇふん”ってなんスか!? っていうか、アドバーンさんまで行っちゃうの!?」
「申し訳ございません。お嬢様のお叱りを受けるのは、老体に堪えますので」
稲豊の食事をテーブルに並べると、アドバーンはどこか怯えた様子で、ワゴンカートと共に去っていった。広いサロンにぽつんと残された稲豊は――――
「…………ルト様そんなに怒ってるのか……」
ひとりだけの、孤独な朝食を余儀なくされた。
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孤独な朝食が終わり、食器洗いと昼食の下ごしらえを済ませたあと――――
「ま、まあ……なんとかなるだろ! とりあえず土下座でも何でもして、ルト様の機嫌を回復させないとな。あとはそうだな、皆の様子を確認しようそうしよう!」
わざと明るく声に出し、小さな問題であると思い込む。
そしてそれを現実の物にするために、稲豊は現在、ナナの部屋を目指していた。
「ナナ~? ちょっといいか?」
部屋に到着し扉をノックすると、中からドタバタと誰かの動く気配がする。
何かの倒れる音と「ああ~!?」という悲鳴の数秒後、扉が少しだけ開き、どこかぎこちない笑顔のナナが顔を覗かせた。
「な、なにかご用ですか? イナホ様」
「えっと用ってほどのもんじゃないんだけど……。今日は朝食に参加しなかっただろ? 何かあったのかな~? って思ってさ」
「ぜぜ、ぜんっぜん何もないですよ!? ほんっとうに! 何でもありませんから!!」
親しい仲じゃなくとも分かるほど、ナナは目に見えて狼狽する。
それが何からくる動揺なのか?
少女には悪いが、稲豊は少しカマをかけてみることにした。
「そうか……俺との食事は、用事がなくとも避けたいレベルなのか……死のう」
どこからともなく取り出したロープを、稲豊は近くにあった燭台に結ぶ。
もちろんロープの先には、人の頭がすっぽり入るほどの輪っかを作ってあった。
ただの冗談なのだが、純真なナナはそれをスルーする術を持たない。
「ウソウソ! ウソですイナホ様!! ナナとしては参加したかったんですけど、どうしても必要な用事があったんです!!」
「……用事? どんな?」
「そ、それは…………」
「やっぱり死のう」
「わぁ~! ご主人様から頼まれた用事です! こ、これ以上はもうムリです~!!」
ナナは両手を口に当て、涙目になって懇願する。
さすがに良心の呵責が仕事を始めたので、稲豊はそれ以上を聞き出すことができなかった。
「なんか忙しいとこ邪魔して悪かったな。他の誰かに訊いてみるよ」
事情を知っている者はナナだけではない。
稲豊は朝食に参加しなかったもうひとりに会うため、兵舎となりの鍛錬場を目指すことにした。
「あ! いた!」
鍛錬場に到着するや否や、目的の姿はすぐに見つかった。
「ミアキスさん! ちょっといいスか?」
ニ百キロのベンチプレスを持ち上げるミアキスの下へ駆け寄り、息を弾ませ声をかける。するとミアキスは、バツの悪そうな顔を稲豊へと向けた。
そして次の瞬間――――
「す、すまないッ!!」
ミアキスは狼というより、脱兎の如く鍛錬場を去っていった。
「え? ええぇ~~!?」
あまりに突然な出来事に、稲豊は呆然とするほかない。
あの優しさの塊のようなミアキスが、拒絶するかのように走っていった。
その事実が、少年の精神に容赦のないダメージをあたえる。
「ぐ……ぐぐ……くじけるものか……! こうなったら、手当たり次第だ!」
昨日の報告怠慢を心から反省し、何度も頭を下げ手を合わせたのだ。
このような仕打ちは、どうしても納得できない。稲豊は事情を知る者に片っ端から当たり、問い詰めることにした。
しかし――――
「あ! お前らにちょっと訊きたいことが!」
「忙しい!」
「ごめんねー」
廊下で見つけたネロとタルタルに声をかけるも、目が合っただけで逃げてしまう。
「ライト! お前何か知ってないか!?」
「す、すみませんが職務中ですので……」
謁見の間でライトに声をかけるも、そそくさと行ってしまう。
その後も稲豊は色々な者に声をかけたが、結果は散々たるものであった。
誰もが申し訳無さそうな表情を浮かべ、足早に去っていく。
「いくらなんでも…………徹底しすぎじゃない?」
ここまできたら、憤慨よりも恐怖が勝ってしまう。
城の全員に伝わるほどルートミリアが怒っているのだとしたら、それは相当な怒り具合だ。稲豊の心に、急激に心細さが押し寄せてきた。
「……もっかい謝ろうかな?」
頭を下げるのは簡単だが、それだけでは心許ない。
稲豊はルートミリアの機嫌を良くする方法を考え、やがてひとつの答えに辿り着いた。
「そうだ! あのとっておきを持っていくことにしよう!」
ルートミリアのことを考え、ルートミリアの為に作った『とっておき』。
いまの稲豊には、剣よりも頼もしいアイテムに違いない。
稲豊は踵を返すと、厨房を目指して駆け出した。
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「これこれ!」
厨房の棚から細長の瓶を取り出した稲豊は、その中身を眺めてほくそ笑む。
「これさえあれば、ルト様の機嫌だって良くなる……はず!」
もう一度、ルートミリアの太陽のような笑顔が見たい。
稲豊がそんなことを考えていた、そのとき――――
「妾が…………どうしたって?」
「うわぁ!? ル、ルト様!?」
無防備な背中に声をかけられた稲豊は、思わず飛び上がる。
大袈裟な反応が気に入らないルートミリアは、不満気に眉をひそめた。
「なんじゃ、化け物でも見たような顔をして」
「ちょ、ちょっと考えごとを……。って、そんなことより! ルト様がどうして厨房に?」
「決まっておるじゃろ。シモンに用があって参ったのだ」
「俺に?」
ルートミリアは頷いたあとで、「ゆくぞ」とひとこと告げて歩き出す。
「え? ど、どこに?」
「ついてくれば分かる」
本日はエデンへ偵察にいかない、謂わば稲豊の公休日。
朝昼晩の食事作りを除けば、完全フリーな一日である。珍しく誰かに声もかけられていないので、用事らしい用事も何もない。
にも関わらず、ルートミリアは稲豊を厨房から連れ出した。
「えっと……その…………」
「なんだ?」
「い、いえ! 何でもありません!」
ルートミリアの表情からは、笑顔が一欠片すら覗えない。
『怒ってます?』とさえ訊けないほど、殺伐とした雰囲気が漏れ出していた。 後ろを歩く稲豊の不安は、歩みを重ねるごとに増幅していく。
「乗れ」
「え? 外……に?」
稲豊が連れられてやってきたのは、城門前。
そこには、先ほどはなかった猪車が控えていた。懐かしさを感じさせるその猪車は、クロウリーの屋敷にいた頃によく使用していた猪車だ。
懐かしの猪車を牽くのは、当然――――といった顔をするマルー。
そして御者台では、ミアキスが手綱を握っていた。
「シモン」
「は、はい! 乗りますとも!」
ルートミリアに急かされ、仕方なく猪車に乗り込む。
それを見届けたあとで、ルートミリアは稲豊と向かい合う形で椅子に腰を下ろした。
そしてその数秒後、
「は!」
ミアキスの気合の入った声が響くのと同時に、マルーの牽く猪車がゆっくりと動き出す。やがて少しずつ勢いをつけていった猪車は、魔王城を出て、モンペルガの町並みを走り出した。
「………………」
「………………」
手を伸ばせば届きそうな距離なのに、猪車内のふたりには一切の会話がない。不機嫌そうに腕を組んだルートミリアは、考え事をしているときのように、目を瞑り口を閉じていた。
そして、たまに開いた目と視線がぶつかり合うことがあっても、ルートミリアは「ぷい」と顔を背けてしまう。
「…………胃が痛い……」
気不味さの増していく猪車の中で、稲豊の唯一の頼みの綱は、咄嗟にコートのポケットに隠した細長の瓶だけだった。




