第211話 「聲」
ハーピー戦後の翌日の朝――――
「………………ふぁ~…………ねみぃ……」
魔王城の自室のベッドで目覚めた稲豊は、重い頭と体をフラフラと持ち上げる。両の目の下には、大きなクマができていた。
それは、昨日の王女騒動を収めるのにかかった苦労の証であると共に、夜遅くまで続いた説教の証明でもある。
「やっぱり……連絡を入れないのはまずかった……」
ルートミリアや他の王女たちから『連絡は必ずするように!』と、こんこんと説教された。彼女たちの言い分はもっともで、稲豊も小さくなって反省するほかなかった。
後少し戻るのが遅れていたら、大変なことになっていたに違いない。
もはや稲豊という存在は、魔王国に置いて、それだけ大きな存在となってしまっているのだ。
「みんなには心配をかけちゃったからなぁ……。次からは気をつけよう」
言葉に出して肝に銘じた稲豊は、両手で顔をパンパンと二度叩き、無理やりに意識を覚醒させる。そしてベッドから飛び出すと、急いで身支度を整え、部屋を後にした。
「あ、おはようございます」
自室を出て厨房を目指していると、知った顔と廊下で対面する。
以前よりも瞳に鋭さが増した、狼人族のマルコだ。
マルコは先の戦でソフィアが約束した通り、魔王軍の正式な部隊長として迎え入れられていた。
「……ふん」
挨拶をしたにも関わらず、マルコは不服そうに鼻を鳴らし、稲豊のことを睨みつける。その表情には、抑えきれない苛立ちがありありと表れていた。
「それで、成果の方はどうなんだ」
「色々な情報を得ることはできましたよ。エデン住民たちの生活とか、彼らが普段どんなことを考えているのかとか――――」
「そんなことはどうでもいい!!!!」
廊下の石壁にマルコの右拳が叩きつけられる。
大きな音が反響し、強制的に稲豊の言葉は遮られた。
「オレが聞きたいのは、奴らを打倒する手段だ!! 見つかったのか! 奴らの弱点は!! 魔女の遺産は!!!!」
マルコは感情の赴くままに捲し立てる。
そもそも、マルコは今回の作戦に対して、最初から不満があった。いいや、不満しかなかった。
武力行使を望む彼にとっては、『まず情報を得る』という遠回りな方法が気に入らなかったのだ。
「それは…………」
「見つかっていないのなら、すぐにでもエデンに攻め込むべきだ!! アート・モーロとモンペルガを結ぶ道ができたというのに、何を悠長なことをしているのか!! さっさと兵士を送り込み、エデン王の頸を獲ってしまえばいい!!」
「その件は何度も説明したじゃないですか。あの魔法陣を通れるのは数人が限界だし、仮にその数人で攻めたとしても、ガーデン・フォール城は恐ろしく厳重なので近づけないって」
「そんなことはやってみないと分からんだろうが!」
「分かりますよ! 常に結界で侵入者を見張っているうえに、天使だって常駐してるんですよ? 城の近くにはあの勇者だって住んでいるようですし、失敗するのは火を見るより明らかです」
魔法防御型と感知型の結界が常に城を覆い、ネズミ一匹の侵入さえ許さない。しかも城は湖の中心に建っているので、侵入を試みることすら一筋縄ではいかないのだ。さらにエデン王は城の中にずっと籠もっていて、民衆の前に姿を見せるのは稀ですらある。
トリシー新聞と民衆から聞いた情報がほとんどだが、稲豊自身も遠目にガーデン・フォール城を見た。その結果に基づいた結論は――――難攻不落。
つまり、城を落とすのは不可能に近いということだった。
「だったらルートミリアが行けばいい! 凄まじい魔法が使えるのだろう? その魔法で、王ごと城を潰してしまえばいいだろ!!」
「たしかに、ルト様なら城の結界も破壊できるかもしれない。でも……ルト様は魔王軍の大将ですよ? もし失敗したら、それは魔王軍の敗北を意味しています! そんな危険な賭けを、ルト様にさせる訳にはいきません!!」
「戦で命を懸けるのは当然のことだ!!」
「“無駄”に懸けるのはダメだって言ってるんですよ!! それに、俺たちの目的はエデン王を倒すことじゃない! お互いに歩み寄れたら、それが一番良いんです!!」
お互いに一歩も譲らず、廊下で火花を散らし合う。
近くを通りがかったメイドが『何事か?』と視線を向けてくるが、やがてそそくさとその場を離れていった。
「歩み寄る必要など無い! 魔物の本能は闘争にこそある! 下等種族を支配こそすれ、手を取り合うなど以ての外だ!!」
「その下等種族に、魔王軍はずっと煮え湯を飲まされ続けてきたんじゃないんですか? 前回の戦でだって大量の犠牲者を見たのに、また同じことを繰り返すんですか?」
「犠牲者が出たからこそだ! 死んでいった我が同胞らの為にも、奴らに目にもの見せねば気が済まん!!」
「ほら本音が出た! 同胞の為って言いながら、結局は自分の気を晴らしたいだけじゃないですか!」
ヒートアップした両者の議論は、最高点に到達した。
息の続く限り言葉を発していたふたりは、しばらく「ハアハア」と息を吸うのに専念する。しかし、少しの沈黙が流れる間でも、お互いに瞳を逸らすことはなかった。
やがて呼吸と心の落ち着きを取り戻したマルコは、さっきとは打って変わった、静かな口調で言った。
「…………お前は違うのか?」
「ハァ……ハァ……何がですか?」
「知っているぞ。お前も、エデンには大切な者たちを奪われたのだろう?」
稲豊の頭の中に、三つの顔がフラッシュバックする。
この異世界で、一番の余所者に違いないのに、他の者と対等に扱ってくれた優しい門番のふたり。そして、異世界で初めてできた魔物の親友。
マースに、ミースに、レフト。
稲豊にとって、かけがえのない者たちだった。
「悔しくないのか? 悲しくないのか? 死んでいった者の無念の声が、お前には聞こえないのか? オレには聞こえる。同胞らの苦痛の叫びが! 彼らの為にも、オレの為にも、オレは人間共が許せない」
「…………俺は……」
そこまで口にしたものの、それ以上は言葉が出ない。
幾つもの想いが浮かび、そして消えていった。
やがて稲豊が言葉に詰まってから、三十秒が経過しようとしたとき――――
「ふん。やはり貴様も、ルートミリアと同じだということか。所詮は人の血が流れる、エデンの回し者だ」
そう吐き捨てて、マルコは去っていった。
ただひとりその場に残された稲豊の脳内には、先ほどのマルコの言葉がずっと反復している。
『死んでいった者の無念の声が、お前には聞こえないのか?』
聞こえない訳がない。
何度、彼らの最後の瞬間が夢に現れたか分からない。
ときには悲壮で、ときには怨嗟で、夢の中の彼らは稲豊に訴えかけるのだ。
お前のせいだ――――――――と。




