第209話 「決着、ハーピー戦」
ハーピーの起こした暴風は草木を薙ぎ倒し、沼には小さくない波を作った。
この突風の前では、人間でさえ小石と等しい。
「うわぁ!?」
「きゃああ!!」
穴に嵌っていたファシールとは違い、稲豊とレトリアのふたりは耐えきれず吹き飛ばされた。
子供に乱暴に放り投げられた操り人形のように、ふたりはされるがままに体を地面に打ち付ける。上下の感覚も失い、感じるのは全身に浴びせられる強風だけ。
死んだふりをし、虎視眈々と機会を窺っていた魔獣のしたたかさ。
そのことに気づけなかったことを、稲豊はいまさらになって激しく後悔した。
しかし後悔したところで、もう遅い。
激しく地面に打ち付けられたことで、全身は傷だらけになってしまっている。
「…………い…………ッ…………!」
じくじくとした、体の芯から伝わる痛みが後からやってくる。
頭も打っているので、いまだに頭が上手く働かない。
だが、ぼやけていた視界が少しずつ色彩を取り戻すのと共に、稲豊の脳もまた、少しずつ活動を始めていた。
「リア……は…………?」
重い体を無理やりに起こし、稲豊はレトリアの姿を探す。
突風の影響で霧が一時的に晴れたことが幸いしたのか、彼女の姿はすぐに見つかった。
「リア……! 大丈夫か!!」
横たわる彼女を抱き起こした稲豊は、無事を確認するため声をかけた。しかしレトリアは瞳を閉じたまま、一向に目を覚ます気配を見せない。彼女のこめかみからは、血が一筋の線となって流れ、美しい黒髪を朱に染め上げている。
「ごめん!」
稲豊は彼女が聞いていないのを承知していたが、自分への言い訳のために謝罪する。そして騎士が忠誠を示すときのように、彼女の手の甲に口づけた。
舌を通じ、様々なレトリアの情報が流れ込む。
それは彼女の正体を暴くとまではいかなかったが、稲豊にとって有益な情報をもたらした。すなわち、彼女の現在の状態である。
「………………無事か、良かった」
気絶しているだけで、命に別状はない。
稲豊は安堵したのも束の間、沼の方へと顔を向ける。
「きひひひ、ぎひひひひ!!」
沼の上には、醜悪な笑みを浮かべるハーピーがいた。
大きな翼を羽ばたかせているので、沼に波紋状の波ができてしまっている。
さっきの突風程度で溜飲が下がるか――――といった様子で、ハーピーはいまだ敵意の意思表示を見せ続けていた。
「大丈夫かい? 怪我は?」
「…………なんとか生きてますけど、次はないかもですね」
ファシールが声をかけるが、稲豊は返事をするのが精一杯。
次のハーピーの一撃を回避する手段は、到底思いつきそうになかった。
しかしそんな稲豊たちに配慮するほど、魔獣が謙虚なはずもない。
それどころか沼の上を旋回し、突進の素振りさえ覗かせ始めていた。
「くそ! なにか……なにか手がないのか……!」
もう残された時間はほとんどない。
稲豊は周囲に目を走らせるが、ここは何もない枯れた沼地。
目ぼしい物は何ひとつ見つからない。
「けぇぇぇええぇぇ!!!!」
そうこうしているうちに、ハーピーは距離を稼ぎ始めた。
稲豊たちから一旦距離をとり、より強い一撃を放つためなのは明白だ。
「…………くそ、ここで終わる……のか?」
諦めがじわじわと心を蝕んでいく。
死への恐怖心から、震えが全身を駆け抜けていく。
『もうダメだッ!』
血走る魔獣の瞳から目を逸した稲豊は、固く瞼を閉じ、現実から目を背けた。
視界が閉ざされ、全身の触覚に神経が集中する。だからこそ、稲豊は左手に感じる違和感に気づくことができた。
死ぬ前に、心残りは少しでも残したくない。
だから稲豊は、もう開けないだろうと固く閉じた瞼を、ゆっくりと持ち上げることにした。
ぼんやりと浮かんだ視界のなかで、違和感の正体は明らかになる。
「これって……?」
知らぬ間に稲豊の左手が触れていたのは、意匠の凝らされた剣の鞘だった。六枚の天使の羽が装飾された鞘には、銀色の柄をした剣が収められている。明らかに、一兵士の使うような代物ではない。
「…………トワイライト」
それは紛れもなく、聖剣トワイライトだった。
ハーピーの起こした突風によって吹き飛ばされたレトリアは、飛ばされた先で偶然トワイライトを発見したのだ。そして薄れゆく意識のなかで右手を伸ばし、しっかりと聖剣を握りしめたのである。
自分に駆け寄ってくるであろう稲豊が、気づいてくれることを信じて。
「ありがとうリア。君が作ってくれたこのチャンス……絶対に無駄にはしない!」
稲豊が聖剣を握ると、レトリアが右手の力を緩める。
気を失っているはずなのに――――などという疑問を抱くよりも先に、稲豊はファシールに向かって叫んでいた。
「ファシール!! 剣だ!!」
歩いて届けるような時間はない。
さらに、ファシールは稲豊らに背中を向けてしまっている。
しかし稲豊は一切の躊躇をせず、聖剣を彼の背中に向けて放り投げた。見た目よりも軽い剣は、勢いをつけて飛んでいく。
「カァァァァアアアアァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァ!!!!!!」
稲豊が剣を投げたのと同時に、ハーピーも猛烈な突進を開始する。
沼の水を切りながら狙ったのは、ファシールとその後方にいる稲豊たち。三人まとめて始末するつもりだった。
もはや一刻の猶予もない。
ひとつのミスすら許されない逼迫した状況で、
「よっと――――」
まるでそれが当然だとでもいうように、ファシールは後ろをまったく振り返らずに剣を受け取った。
そして、ひとこと呟く。
「おかえり」
それは戻ってきた剣への歓喜の言葉なのか?
それとも眼前に迫るハーピーへの最期の言葉だったのか?
稲豊には分からない。
分かったのは、ファシールは呟いた直後に鞘から剣を抜いた。
そして鞘から抜いた勢いで、剣を下から上に切り上げた。
下半身が動かせないので、上半身の力だけで剣を振るったのだ。
なのにそこから先の光景は、稲豊にはにわかに信じられない光景だった。
「え……?」
あまりの衝撃に、形容する言葉が見つからない。
稲豊は呆然と、その光景を眺めることしかできなかった。
それでも理解しようと、無理やりに働かせた彼の頭に浮かんだのは、ごく単純な事実だけ。
勇者ファシールは、
迫りくるハーピーの体ごと、
沼を割った。




