第208話 「天然勇者」
稲豊は最初、何かの冗談かと思った。
だが、視線を少し落としてしまえば、ファシールの腰にあるべき聖剣が無くなっていることが分かる。
「どっか行ったって……どこに!?」
「う~ん……。恐らく、さっき奴の攻撃を回避したときに」
「無くしたんスか!?」
もはや口調を偽るのも忘れ、稲豊は自分のことのように狼狽する。
いや、この状況は決して他人事ではなかった。稲豊が魔獣の前でも冷静にいられたのは、周囲に強力な戦力があったからである。
しかしいまや、トライデントの三人とは離れ離れになり、頼みの綱のファシールは聖剣を無くしてしまった。
「けぇぇぇぇぇぇえぇぇ!!!!!!!!!!!!!!!!」
「うわぁ!? きたぁ!!」
状況を好機と見たハーピーは急上昇したのち、最高到達点から下るジェットコースターのような勢いで、稲豊目掛けて襲いかかった。
「避けてソトナ!! 速度強化魔法!!」
光の結界が、レトリアを中心に展開される。
結界の範囲内にいた稲豊は、身が軽くなる感覚を味わう暇もないまま、転がるように沼とは逆の右方向へと飛んだ。
その直後、地鳴りにも似た風切り音が脇を通り抜け、凄まじい突風が駆け抜けていく。
「な、何とか避け…………ひぃ!?」
ハーピーの一撃を躱し安堵したのも束の間、振り返った稲豊は小さく息を呑んだ。数秒前まで自分が立っていた地面はかなりの深さまで抉れ、底に至っては、土の層まで変わってしまっている。
『もし避けるのが間に合わなかったら……』
ショベルカーの先端部分で潰されるよりも、悲惨な結果になっていたに違いない。稲豊は改めて、魔獣の爪の鋭さに恐怖を覚えた。
「こ、これ渡しますから! あいつを何とかしてください!!」
「これは君の剣じゃないか。良いのかい?」
奇跡的に避けることはできたが、次も回避できるかはわからない。
稲豊はレトリアにもらった剣をファシールに手渡した。
「ありがとう。この剣があれば、魔物など恐るるに足りないさ。知っているかい? 勇者というのは、人を救うのが仕事なんだよ」
頼もしい台詞を口にしたファシールは、いまだ上空で飛び続けるハーピーを見据え、ゆっくりと歩き始めた。やがてその歩みは段々と早くなり、早歩きから小走りへ、小走りから駆け足へと昇華していく。
そしてハーピーの真下へ移動したファシールは、
「人に仇なす哀れな獣よ! この勇者ファシールが、いま引導を渡してやろう!」
叫ぶなり、勢い良く地面を蹴った。
だが――――――――それがいけなかった。
「うん?」
軽い驚きの声を上げたファシールの半身が、地面に沈み込む。
たまたま獣が作った穴があり、たまたま穴が枯れ草で覆われ、たまたま勇者が踏み抜いた。ただそれだけなのに、状況は一気に不利へと変わる。
しかも、不幸はそれだけに留まらなかった。
穴に落ちた拍子に剣が右手を飛び出し、くるくると回転しながら宙を舞ったのだ。
そして稲豊とファシールが見守るなか、兵士の剣は吸い込まれるように沼の中へと消えていった。
「……ふむ。すまないが、助けてくれないか?」
「人に救われてんじゃないスか!? 天然も大概にしてくださいよ!! 丸腰の人間が増えただけじゃないッスか!!」
「アハハ、まいったねぇ」
身動きが取れなくなったというのに、ファシールはまるでどこ吹く風。
他人事のように笑っている。
そんなおり、ふとファシールの表情に真剣味が増す。
「いまはそれどころでもないか。とにかく逃げた方が良い、魔獣の狙いは君だ」
「は?」
ファシールの目線に誘導された稲豊は、上空で鼻息を荒くする魔獣の姿を見る。彼の言葉通り、魔獣の瞳の中には、稲豊しか映っていなかった。
「かぁぁああぁぁぁあ!!!!!!」
「なんで俺ぇぇ!?」
脱兎の如く逃げ出した稲豊だが、周囲に隠れられるような場所はどこにもない。毒のような色をした沼には、『飛び込む』などという選択肢は、最初から存在していなかった。
かといって、飛行する相手から走って逃げられるわけもなく。
「ギェエエエェェ!!!!」
「く、来るな! あっちいけ!!」
あっという間に距離を詰められた稲豊は、誂うように空を舞うハーピーに成す術がなかった。やがて誂うのにも飽きたハーピーは、獲物を仕留めるべく狙いをすませる。
そして、いざ仕留めんと鋭い爪を持ち上げたそのとき――――
「燃焼魔法!!!!」
炎弾が稲豊の頭上を通り過ぎ、背後に迫るハーピーの顔で炸裂する。
紅蓮の炎が、瞬く間にハーピーの顔面を覆った。
「ぎぃぃいええぇぇ!!!!」
これにはハーピーも堪らず、翼を羽ばたかせるのも忘れ地面でのたうつ。
その隙を突いて、稲豊はハーピーの側から脱出した。
「ソトナこっちへ!」
「ありがとうリア! 助かった!!」
枯木を背負ったレトリアに駆け寄った稲豊は、彼女と同様に枯木に背を預ける。臨戦態勢をとりあえずとってみるものの、丸腰なのは変わっていない。
「さっき程度の魔法じゃ、あいつを倒せないわ。こうなったら一か八か、この枯木を使ってみましょう」
「この木を? 分かった……やってみる!」
すべて話さずとも、稲豊にはレトリアの狙いが何なのか理解できた。
体にはまだ速度強化魔法の影響が残っている。
現在の困窮した状況では、この作戦しか無いように稲豊には思えた。
「いだィ……あァ……ひどぃぃいいぃ!!!!」
レトリアの放った魔法では、負わせられても火傷程度。
一時しのぎになっても、戦意喪失とまではいかない。それどころか、相手の怒りの炎に油を注いだ結果となってしまった。
しかしそれも、レトリアの狙い通りである。
「キェええぇえぇえエエエエ!!!!」
奇声を発しながら、ハーピーは風のような速度で飛翔した。
目指す先は稲豊とレトリア。加速に加速を重ね、体当たりでふたりを破壊せんと迫ったのだ。
「水魔法!!」
レトリアが狙いを定めて放ったのは、手のひらサイズの小さな水弾。
ハーピーの突進を止めるにはあまりに心許ないものだったが、それで構わない。
むしろ、突進の勢いを少しでも止める訳にはいかなかった。
勢いを利用するのが、この作戦には欠かせないからだ。
「ぎぃぃ!?」
狙い通り、水魔法は右目に直撃。
一瞬だけハーピーの視界が奪われる。
その刹那の時間が、稲豊たちの好機だった。
「いまよソトナ!!」
「ああ!!」
ふたりはまるで何度も練習したかのような正確さで、同時に二手に飛んだ。
結果――――
「ぐぎゃあッ!?」
それは先ほどのリプレイ。
怒り狂ったハーピーが、シグオンの作り出した土壁に突っ込んだのと似たような光景。
視界を奪われ、かといって勢いも殺すことができなかったハーピーは、額から枯木に激突する。そのあまりの衝撃により、稲豊の胴の何倍も太い枯木が、一瞬で砕け折れた。
爆発のような轟音が響いたあとで、次に砕けた木片がパラパラと落ちる音が聞こえる。だがそれも数秒のこと、稲豊がゆっくりと体を起こしたときには、霞の沼地は元の静寂を取り戻していた。
「や、やったあ!」
レトリアが、達成感に満ち溢れた笑顔を浮かべる。
ボスハーピーは木片に塗れながら、ピクリとも動こうとはしなかった。
稲豊は深く長い吐息を漏らしたあとで、レトリアとハイタッチを交わす。
「おっとそうだ、勇者様を助けないと」
「その次は子供たちね」
魔獣との戦いという大仕事を終えたふたりは、いまだ穴に嵌るファシールの下へ、小走りで駆け寄る。
「やあ、待っていたよ」
「貸しひとつですからね?」
稲豊は冗談を言いながら、ファシールの背後にまわる。
そして両脇の下に腕を差し入れ、力を込めて引っ張り上げた。
「うぐぐ! これ結構…………ピッタリですね……!」
「ここまでジャストフィットするとはね。次からは、もっと抜けやすい穴に落ちることにするよ」
「できれば……穴に落ちない方向でお願いしま……す!」
それでも、少しずつファシールの体は持ち上がっていった。
やがて腹部が見え、さらに腰の姿が露わになる。
もう少しで片方の足が上がり、ファシールが自力でも脱出することができるだろう。そんな考えが稲豊の脳裏をよぎった。
――――――――そのときだった。
「あ」
ファシールと稲豊は、同時に声を出した。
そのどこか間の抜けた様子に、レトリアは小首を傾げ不思議がる。
そんな愛らしい表情を浮かべる彼女の後方に、巨大な影があった。
大きな翼を広げた影は、次の瞬間――――
「キョオオオオオオオオオオオオオオオおおおおおおおおおおおおオオオオオオオオオおおオおおおオオオおぉおぉぉぉっぉぉおおおオォぉぉぉオオオオオオ!!!!」
この世のものとは思えない咆哮を上げ、ハーピーは竜巻のような暴風を巻き起こした。




