第205話 「ハーピー襲来」
「え?」
稲豊は虚を突かれた表情を浮かべ、言葉を失ってしまった。
「オレたちは全員孤児で、大きくなるまでずっとあの施設で育ったんだよ。だからあの施設のガキたちは家族みたいなもんだ。助けに行く理由としてはじゅうぶ――――いだッ!?」
得意気に語っていたティオスの桃色頭に、シグオンのゲンコツが飛ぶ。
「あにすんだよっ!」
「このスカポンタン! リアの秘密をバラすとはどういう了見でござるか! しかも、絶対にバラしてはいけない相手に!」
「……………………あ…………」
青を通り越し、黒に変わるティオスの顔色。
しかし口に出してしまった以上、いまさら誤魔化したところで後の祭り。とっくの昔に、稲豊の耳に届いてしまっている。
「良いのよティオ。私はあの施設の出身であることを、不幸だと思ったことは一度もないから。貴女たちと知り合えたこと、むしろ幸運だったと思ってる」
それは嘘偽りのない、レトリアの本心だった。
トライデントの三人はただの部下ではない。頼れる仲間であり、大切な家族でもあるのだ。
そんな強い絆を目の前で見せられては、もう『ここに残れ』とは言えるはずもなかった。
「少し手間はかかるけど、馬も連れて行くとしようか? 視界が完全に塞がれている訳でもないし、足下に気を付ければ問題ないだろう」
「それが一番かしらね。さっ、時間もありませんし、気を付けながら参りましょう? 人数が多いほうが、色々と助かりますし」
ファシールとエルブの空気を読んだ妥協案により、皆の止まっていた足が再び動き出す。一行はハーピーの住処を目指して、次第に濃くなる霧の中を進んでいった。
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「ソトナ、念の為にこれを持っていて」
「剣? これどうしたの?」
「さっきの屯所から持ってきたの。ちょっと頼りないかもしれないけど……持っていないよりはマシだと思うから」
「いや、十分だよ。ありがとう」
稲豊はいまでも、剣術の鍛錬は怠っていない。
毎日の素振りはもちろんのこと、時間を見つけてはミアキスやアドバーンに稽古をつけてもらっている。筋は良くなっていると、褒められることも増えてきていた。
だからこそ、稲豊が先ほど口にした台詞は強がりなどではない。
腕に感じるズシリとした重みは、そのまま自信となって稲豊の腰に収められた。
「嫌な臭いですわね」
しばらく進んだところで、甘く青臭い香りが鼻の奥を刺激する。
その香りに誘われるのか、稲豊が初めて見るような奇怪な虫がそこかしこで蠢いていた。
荒廃的な景色と相まって、精神は徐々に削られてきている。
「ん? どうしたでござるか?」
そんななか、シグオンの不思議そうな声が皆の気を引いた。
自然と集まる視線たちの中央で、彼女は自らの胸元に目を落としている。
するともぞもぞと忍者装束が持ち上がったかと思うと、小さな生き物が顔を覗かせた。
「ウキィ」
シグオンの胸元から出現したのは、鳥の羽を背負った小猿。
忍猿のエテ吉だった。
エテ吉は現れるなり、訝しげな瞳を稲豊の方へ向ける。
「どうしたエテ公? あの兄ちゃんが気になんのか?」
普段と違うエテ吉の様子を見て、ティオスが声をかける。
するとエテ吉は宙へと羽ばたき、何かを確かめるように稲豊の顔へと近づいてきた。
『ヤバイ!?』
反射的にそう感じた稲豊は、咄嗟に顔を背けた。
しかしエテ吉は旋回し、執拗に稲豊の顔を見ようとしてくる。
「何をやってるのでござるか?」
「ウキィ! ウッキキウキキ!!」
「と鳴かれても、何を言ってるのかさっぱりでござるよ」
エテ吉が何かを訴えるが、シグオンは困った顔で首を左右に振るばかり。
そんな様子を見て、『助かった……』と稲豊は胸を撫で下ろす。
しかし、安心したのも束の間――――
「あん? あの兄ちゃんの顔に見覚えがあるって?」
「なんで分かるのでござるか…………」
ティオスが通訳したばっかりに、稲豊はさらなる窮地に立たされることとなる。
「そういや、オレも兄ちゃんのことどっかで見た気がするんだよなぁ」
「あらティオも? わたくしも彼の顔を見たときから、ずっとそんな気がしていましたの」
「拙者だけではなかったのか……。人を見ることに長けたエテ吉が言うのだから、間違いはないでござるな」
訝しげな瞳が、さらに三人分追加される。
稲豊は「か、勘違いじゃないですか?」と誤魔化すが、それは三人の好奇心を駆り立てる結果となってしまった。
「どこで会ったっけなぁ? オレたち三人と同時に会う場所ってのは、あんまりねぇと思うんだけどなぁ」
「い、いまはそんなことよりも、早く子供を救出に行かないと!」
「そうなんだけどさぁ。オレの勘が『知っておいた方が良い』って言ってんだよなぁ。なんつーか、大事なことを忘れてるような」
稲豊の顔をジロジロと覗き込んでくるティオス。
このままでは、バレるのも時間の問題だった。
もはや手段を選んでいられる場合ではない。
「あ~~!! あんなところに怪しい影がッ!! きっとハーピーだ!!」
「なにぃ!?」
追い詰められた稲豊は、適当な方向を指差して声を上げた。
ティオスが全力で釣られたことに少々の罪悪感を覚える稲豊だが、この場を切り抜けることが最優先事項である。
予想外だったのは、ティオスだけでなく皆が指に釣られたこと。
しかもその後、誰も言葉を発さなくなったことだ。
「い、いやぁ~さっきあそこに本当に影を見たんですけどね~! 一体どこ…………に…………」
バツが悪くなって指差す方へ目をやった稲豊は、一瞬で体を硬直させた。自分の視界に入り込んできた異形の光景に、脳の処理が追いつかなかったのだ。
稲豊は最初それが『沼に落ちてしまった人間の姿』のように見えた。なぜなら霧の漂う沼の上に、人間の頭だけがぽつんと浮かんでいたからだ。
しかし少し考えれば、距離の割にあまりにも大きな頭部に気がつく。一メートルはあろうかという巨大な頭は、皺だらけの肌といい、大きく尖った鼻といい、人間の老婆によく似ていた。
「お出ましだね」
ファシールの呑気な声を遠くに聞きながら、それでも稲豊は声を出せずにいた。不気味なその姿に、完全に目と思考を奪われていたのだ。
よく目を凝らせば、巨大な老婆の頭の下には体があることがわかる。
しかしそれは人間のものとはまったく違い、大きく張った胸筋と、大量の羽を携えていた。
だが、稲豊の思考を最も奪ったのは、怪物が口に咥えていたモノである。
老婆の顔をした異形が上下の歯で挟んでいたのは、紛れもない成人男性の頭部だった。
「う……!?」
次の瞬間、ファシールを除く一行は反射的に目を背ける。
皆が耳を塞ぐ必要があったと悟ったのは、その咀嚼音を聞いてしまった後だった。
「ぎょああぇえぇぇぇ!!!!」
目を背けたことを好機だと感じ取ったハーピーが、血に塗れた口で奇っ怪な叫び声を上げる。そして何メートルもある巨大な翼を広げると、巨躯を物ともしない速度で一行を目掛けて襲いかかった。
「ソトナ危ない!? 風魔法!!」
「うわっ!?」
眼前まで迫った大鷲を彷彿とさせる鋭い爪が、風魔法の邪魔にあい間一髪で逸れる。稲豊はハラリと舞う数本の髪の毛を見て、爪の鋭さに身震いをさせた。
剣を握ったときの自信は瞬く間に瓦解し、代わりに現れたのは魔獣への恐怖心だ。
「さっきの彼には見覚えがあるな。たしか――――そう、北東門の見張りの兵士のひとりだね。やはりハーピーに攫われていたようだ」
「にゃろ~! なめやがってクソ鳥が~!」
枯れた大木の枝に止まったハーピーを見上げながら、皆すかさず臨戦態勢を取る。……が、事は一行の思い通りには進まなかった。
「ヒィヒィィィィーン!!」
「ど、どうどう……。落ち着くでござるよ」
魔獣に驚いた馬たちが、怯え始めてしまったのだ。
後退りして逃げようとする馬に気を取られ、シグオンとエルブは満足に動くことができない。
「魔獣として強さはそれほどでもないって言ってませんでしたっけ!? それに、人をすぐには食べないはずでは!?」
「おっかしいなぁ。本来、ハーピーは死肉を漁る臆病な性格をしているはずなんだけどね? ほら、この『魔獣解体新書』にもそう書いてある」
「い、いやそれは分かりましたけど! 後ろ、うしろッ!!」
魔獣の解説本を見せてくるファシールの背後には、枝から飛び立つハーピーの姿。稲豊は必死に声を上げるが、ファシールは未だ本を広げたままである。
『殺られる……!?』
勇者の背後から迫るハーピーの爪を見て、稲豊は直感的にそう思った。刹那の時間で目を閉じようかとも考えたが、なぜかこのときの稲豊の両目は、意に反してまったく閉じようとはしなかった。
だからこそ、その瞬間はハッキリと稲豊の記憶に刻まれる。
「君も読むかい?」
そんな軽口を叩きながら、ファシールはほとんど振り返らずに本を背後へと放り投げた。そこそこの重量を持った魔獣解体新書は、迫るハーピーの顔を目掛けて飛んでいく。
そして――――
「ぎゃあッ!? ぎえぇぇええ!!」
本はまるで吸い込まれるように、人の頭ほどもあるハーピーの右目に直撃した。予想外の攻撃に、叫び声を上げ硬直するハーピー。
そんな隙を見逃すほど、ファシールは博愛主義ではない。
「よっと」
神速の速度で剣を鞘から抜き取ったファシールは、半身だけ回転させながら、同時に剣を振るっていた。それはまるで舞でも踊るかのような優雅さだったが、ハーピーの巨顔を容赦なく切り裂く残酷さも合わせ持っていた。
「ぎょえ」
断末魔にもならない声を出し、ハーピーは地に落ち絶命する。
びくんびくんと痙攣する魔獣の亡骸の脇には、本についた土をはらうファシールの姿。
何事もなかったかのようなその仕草に、稲豊は言葉を失ってしまう。
「さっすが勇者様だなぁ! オレがやろうと思ってたのに、あっという間すぎて手も足も出なかったぜ!」
「本当ですわ。大勇者の称号は伊達ではありませんわね」
「にしても残念だなぁ。ハーピーの奴がこっちに向かってきてたら、オレの必殺技が披露できたんだけどよ!」
危機が去ったことにより、弛緩した空気が場に流れる。
安堵からか、稲豊もようやく冷や汗を拭う余裕がでてきた。
そんなとき、稲豊はひとつの違和感を覚える。
ファシールによって抜かれた銀色の剣が、まだ鞘に収められていない。
「僕はもうひとつ言ったはずだよ?」
稲豊の視線に気付いたファシールが、微笑みながら言う。
その直後――――
「ぎゃあぎゃあ!」
「けえぇけっ!!」
「あぎぃあぎぃ!!」
どこからともなく現れた三羽のハーピーが、皆の頭上を旋回してから巨木の枝へ舞い降りた。どの個体も目が血走っており、怒り狂ったように鳴き声を上げている。
再び訪れた危機に驚愕する稲豊の前で、ファシールはそれでも不敵な表情を崩さず言った。
「ハーピーは群れで行動する。ほら、この本にも書いてある」




