第204話 「霞の沼地」
「ソトナは私と一緒の馬で良いかしら?」
「ぜんぜん構わない……っていうか、そうなったら良いなって思ってたところだよ!」
「そ、そう? よかった」
まず利害の一致したふたりが、ペアの名乗りを上げる。
「じゃあオレはエルと乗る!」
「はいはい。その代わり、手綱は任せたわね?」
「フッ……ガキでござるな」
ティオスの希望により、残りのペアも決定した。
稲豊はレトリアが手綱を握る馬の背に乗り、シグオンはファシールの後ろへ移動する。ほどなくして、二人乗りの三頭の馬は、攫われた子供がいるであろう北東を目指し駆け出していた。
「うわっ!?」
「危ないからしっかり掴んでて!」
「わ、わかった」
どこを掴むか悩んだ稲豊だが、下手に掴んで落馬したらみっともないことこの上ない。乗馬に慣れた様子のレトリアの腰にしがみついた稲豊は、風で乱れる自身の髪の隙間から後ろの方を見た。
ぐんぐんと遠ざかる神都アート・モーロ。
稲豊はまるで、自分が風になったような錯覚を覚えた。
だが数分もすればその感覚にも慣れ、頭を働かせる余裕だって生まれる。
少々の危険を孕んでいたが、稲豊にはどうしても知っておきたい懸念があった。
「ハーピーが馬の足でも追いつけない場所にいたらどうします? 相手は鳥の魔獣、馬の足じゃどうやったって限界がありますよ?」
稲豊が訊ねたのは、となりを走るファシールにだった。
この場で一番の場数を踏んでいるのは、勇者である彼に違いない。
そう思って訊ねたのだが、返ってきた反応は稲豊の予想を裏切るものだった。
「あはは……それはきっと問題ないさ。ハーピーは必ず、そう遠くない場所にいると思うよ?」
きょとんとした表情を浮かべたのち、ファシールは困った顔でそう返した。
しかも呆けた顔をしたのは彼だけではなく、彼の背に掴まるシグオンも同様の表情を浮かべている。
いまとなっては、質問をした稲豊でさえ同じような顔になってしまっていた。
「兄ちゃんは何も知らねぇんだな~」
頭上にクエスチョンマークを浮かべる稲豊に、ティオスが話しかける。
「兄ちゃんは『獣』と『魔獣』がなんでわざわざ区別されてると思う?」
「なんでってそりゃあ………………………………なんでだろ?」
そんなこと、いままで考えたこともなかった。
皆が当たり前のように『魔獣が』『魔獣は』と口にするので、稲豊もなんとなくそう呼んでいただけに過ぎない。
熊という『獣』と、エンプティーベアという『魔獣』。
その違いを、稲豊は説明することができない。
この世界に来てもうすぐ一年。
稲豊はいまさらになって、魔獣に対しての好奇心を湧かせた。
そんな折、ティオスの後ろで横乗りするエルブが口を開く。
「簡単に言えば食事の違いですわ。木のみやキノコ、虫や小さな獣。色々な物を口にする獣たちとは違い、魔獣はあるモノを好んで摂取しますの」
「………………まさか」
少し遠回しな物言いだったが、それでも稲豊の頭にはひとつの仮説ができあがった。だが複雑な感情が邪魔をして、その答えを口にすることができない。
いや、あえて口にしたくなかったのかもしれない。
「魔獣は人間が好物なの」
後ろを振り返らないまま、レトリアが言った。
それは導き出した仮説と遜色ない内容だったが、稲豊は少なからずのショックを受けた。そんな稲豊の心の内を知ってか知らずか、レトリアは説明を続ける。
「熊や狼が人間の味を覚えて、また人間を襲うって話は聞いたことあるでしょ? でも、魔獣はそんなものじゃない。人間が美味しいと本能で知っているのか、最初から人を目掛けて襲ってくるわ。そして空腹のときは、仕方なく近くの獣を食す。獣と魔獣は、性質が根本から違うの」
「人間を……好んで襲う。それじゃあ、さっき勇者様が『問題ない』って言ったのは……」
「そう。魔獣は必ず、人間の住む場所の近くに根城を用意するわ。その証拠に、いま向かっている方角には『霞の沼地』がある。ハーピーの住処にはもってこいね」
レトリアの言葉通り、目を凝らせば薄っすらとした灰色が見える。
それが枯れた大地特有の灰褐色であることに気付いた稲豊は、武者震いとは違う震えを感じていた。
「あそこに魔獣が……」
本来なら、人間を食べる獣になど近寄りたくもない。
いまの稲豊の動かしていたのは、子供たちを救いたいという一心だった。
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馬で三十分も走れば、霞の沼地はその形象を露わにする。
灰褐色の大地に、大きな水溜りのような沼が顔を出す。泥を思わせる濁った水は、至るところで小さなあぶくを立たせるものの、その汚れ具合から底は覗えない。
決して美しいとは呼べない沼の周囲にも目を走らせれば、そこには枯れた草木が、ぽつんぽつんと寂しげに天を仰いでいた。
「……さっきまで晴れてたのに」
馬から降りた稲豊は、灰色空を見て呟いた。
「沼から出る霧のせいで、この沼は一年中、濃霧に覆われているんだよ。だから空も灰色に映ってしまう。ここが霞の沼地と言われる所以だね」
曇り空のような稲豊の顔とは違い、ファシールの表情にはまだまだ余裕があった。トライデントの三人も職業柄、冷静に状況の確認を急いでいる。そしてそれは、レトリアも同じだった。
「みんな見て! どうやら当たりみたい」
しゃがんでいたレトリアが、立ち上がりながら言う。
そんな彼女の右手には、アート・モーロでサイセの母から預けられた、ハーピーの羽と同様のものが握られていた。
「それじゃあ、さっそく捜索開始と行こうぜ!」
「ちょっと待った。ここは足場も悪いし、馬を連れて行くのは得策ではない。この辺の木にでも繋いで、誰か見てるのが良いでござるよ」
「そうねぇ。ハーピーとの戦闘でも邪魔になりかねないし、私もシグに賛成かしら」
トライデントの三人が話を進める横で、稲豊は静かに己を鼓舞していた。
霞の沼地は視界が塞がれるというほどではないが、一帯に薄い靄がかかり、不気味な雰囲気に拍車をかけている。鼓舞でもしなければ、とても立ち入る気にはなれない場所だった。
子供たちの為――と勇気を奮い立たせる稲豊の下へ、ひとつの足音が近づく。
「ソトナ、あなたはここに残った方が良いわ」
レトリアだった。
民間人でもあり、気になっている存在でもある稲豊を、危険な目に合わすのは忍びない。不安で堪らないといった表情をしたレトリアは、稲豊への戦線離脱を提案した。
「ど、どうして!?」
「だってその……あなたは戦闘訓練とか受けてないでしょ? ハーピーは何体もの群れで行動する魔獣だから、もしかしたら『事故』が起きるかもしれないし……」
「そりゃあ確かに俺は弱い方だと思うけど……でもそれはリアだって同じじゃないか? 女の子のリアが行くっていうのに、俺だけここに残るなんてできないよ」
「そ、それは――――」
自分を町娘であると偽ったことを、レトリアはここにきて後悔した。
正体を明かせば問題なく救出に向かえるのだが、それは幸せな時間の消滅を意味する。
だが人命のかかったこの状況で我を主張するほど、レトリアは自分本位ではない。
「実はソトナに言ってなかったことがあって…………」
覚悟を決めたレトリアは、苦渋の思いで口を開く。
しかしそのとき――――
「リアとオレたちには、ガキ共を助けなきゃいけねぇ理由があんだよ」
意外な人物からの援護射撃が入る。
「理由?」
反射的に尋ねる稲豊。
するとティオスは、どこか神妙な面持ちをしてから言った。
「リアもオレたちもガキ共と同じ、神咒教の保護施設……『宿り木の家』の出身なんだよ」




