第19話 「ナナ」
嫌な汗が背中を流れるのが、稲豊に顕著に伝わる。
ナナが何の事を言っているのか? 少年は分かっていながら知らない振りをした。
「な、なにがだよ? 俺がナナを嫌いになることなんて……」
「――――ナナのこと、嫌いですよね?」
瞳に何の色も浮かべない少女は、間髪を入れずに畳み掛けてくる。
稲豊はその勢いに、為す術なく翻弄された。
「――気付いてました。イナホ様のナナを見る視線に嫌悪が宿っているコト。――気付いてました。ナナと触れ合う時、覚悟を決めてから触れていたコト。――気付いてました。ナナが近づくと距離をあけていたコト。全部全部、わかっていました」
最悪な事はそれがどれも真実であると言うこと。
ばれない程度には隠していたつもりだった稲豊は、少女の鋭さに驚くと同時に後悔する。
「でも、それは仕方の無いことなんです。屋敷でナナだけが“魔物寄り”ですし。ナナだって……人間のこと大嫌いですから」
「なら…………何で」
「献身したのか? ですか?」
稲豊の考えを先読みするナナ。この少女は見た目の年齢よりもずっと頭が良い。
「それはイナホ様が料理長だったからです」
「俺が料理長だから?」
意外な理由に動揺を隠せない稲豊。
だがそれはナナに取ってはとても意味のあることらしく、その目には力強い意志が宿っている。
「なんでそうなるのか? イナホ様には理解出来ないと思います。きっとそれは、私の話を聞いた後でも同じです。――それでも、ナナの話を聞きたいですか?」
ナナは大切な事を話そうとしている。その証拠に、小さな肩は僅かな震えを見せていた。
少女は勇気を振り絞ったのだ。だったらそれに相応しい覚悟を決めねばならない。
稲豊は力強く首を縦にふる。ナナはそれを見届けると。大きく深い息を吐き、ぽつりぽつりと降り始めの雨のように語りだす。
「実はナナは……純粋なアラクネ族じゃありません。アラクネ族の母と、人間の父の間に生まれました」
その告白に、稲豊は少しの驚きを覚える。
ナナもルトと同じく、人と魔物の間に生まれたハーフだったのだ。
「人と魔物が対立するこの世界です。半魔は人でも魔物でもありません。余程の覚悟がないと、育てることは出来ないんです。そしてナナの両親に――――その覚悟はありませんでした」
地面を見ながら心を殺して語るナナは、それを稲豊にではなく、自分自身に話し掛けている様にも見える。
「生まれてすぐナナは捨てられました。それはもうポイと、ゴミの様に捨てられていたそうです」
この明るい少女からは思いも寄らない壮絶な過去。
両親に恵まれた稲豊には、欠片も想像できない人生である。
「魔素も尽きかけて死にそうになっていた時。魔王様に拾われました。それからはずっと、あのお屋敷で使用人をやってます。皆様優しいですし、お仕事もやりがいがあって楽しいです。拾って頂いた事に感謝もしてます。――――でも」
そこでナナは一旦言葉を切り、両拳に込めれるだけの力を込めて握りつける。
面を上げた彼女の表情は、誰に向けたものか分からない、明らかな敵意を含んでいた。
「――――あの人だけは大っ嫌いでした」
あの快活なナナが、稲豊に見せたことも無い憎々しげな表情で怨嗟の声を漏らす。
「あの人?」
そこまでナナに嫌われる存在など想像もつかない。
眉を寄せる稲豊が聞き返すが、それは少女の耳にはまるで届いていないようだった。
「気持ち悪いから寄るな。視界に入るな。邪魔をするな。部屋には入るな。俺の服は洗うな。蜘蛛なら天井でも這ってろ! 舌のおかしいお前は厨房に入るな! 嫌なら出て行け無能な半魔が!!」
徐々に口調は強く厳しいものになって行き。最後の方はもはや叫びに近い。
それでもナナは止まらない。
「ナナは屋敷を出れば行く所なんてありません! 魔物でも人でもないナナを受け入れてくれる所なんて……、あの屋敷しか無いんです!!」
ナナの両目からは涙が溢れだし、その小さな頬を濡らす。
腕で擦っても擦っても次から次へと出て来る涙に、遂には両手でその顔を覆う。その姿を見た稲豊の胸に小さくない痛みが走った。
「あいつが屋敷にいる間は本当に地獄でした! 毎日毎日罵倒されながら、ナナはいつ屋敷を追い出されるのか分からない恐怖に怯えました。眠れない夜をいくつ経験したかも覚えてません!」
激情を隠さず慟哭する少女。
なぜナナがそこまで追い詰められなければいけないのか? 稲豊には理解出来ない。
「どうしてナナが追い出される話になるんだよ? 屋敷の皆だったら、そんな奴よりナナを優先してくれるんじゃないのか!」
もし自分だったらと稲豊は考える。
ずっと屋敷の為に献身してきた有能なメイドと、和を乱す料理人。
どちらかと問われれば、迷うこと無く後者を切り捨てる。しかし、ナナはそうは思わない。
「料理人がどのくらい重要な仕事なのかイナホ様だって知っているはずです。より魔素を増やす事の出来る料理を作れる者は、替えなんていくらでも利くメイドなんかとは比べ物になりません! しかも、ご主人様の目的を考えれば、ナナよりも……あいつを取るに決まっています!」
「ルト様の目的?」
反射的に問い掛ける稲豊だったが、ナナはそれに答えるつもりは無いようだ。
ならばと、この問題の根幹にある人物について、稲豊は尋ねる。
「そいつは……誰なんだ?」
話の流れから、それが誰なのか見当はついていたが。
敢えて稲豊はナナに問う。少しの時間を掛けて、ナナは喉から絞り出すような声でその問いに答えた。
「前の……料理長――――人間だったんです」
その言葉に稲豊は先程では無いにしろ衝撃を受ける。
前料理長である事は想像出来たが、人だったとは想定外である。少女の言った『あの人』とは文字通りの意味があったようだ。顔を覆っていた両手を下ろし少しの落ち着きを見せるナナ、だが話はまだ終わってはいない。
「あいつがクビになった時。ナナは心の底から喜びました……、ああもう怯えなくて良いんだ。追い出されずに済むんだって。その日の夜は、久し振りにゆっくり眠れたのを覚えています」
クビにされた人間の不幸を心から喜ぶ少女。
そう歪ませたのは前料理長に違いないのだ。見た事もないその人間に憤りを感じる稲豊は、もう既にこの世界の人間とは相容れない程に……、魔物寄りの思考をしていた。
「でも……そんな穏やかな日々は長く続きませんでした」
そこでナナはゆるりと顔を稲豊の方へ向け、互いの瞳を通じ合わせながら言葉を紡ぐ。
「イナホ様が新しい料理長として屋敷にやって来たからです」
稲豊を責めるように辛辣な言葉を吐き出したナナ。
だが、言葉を放った本人の方が余程苦しげな表情を浮かべている。
「その事をミアキス様に告げられた時、ナナは動揺しました。混乱しました。恐怖しました! だって! よりにもよってまた人間だったんですから!!」
感情の高波が押し寄せ、またも口調が強くなるナナ。
「今度こそ屋敷を追い出されるかも知れない。生まれた時みたいに、ゴミみたいに! だからナナは行動したんです。蜘蛛なら天井を這えと言われないように天井を歩き、無能だと言われないように先読みし、眠れなくなったから、就任初日の夜には服を編んで献身しました! 全部ぜんぶ! ナナは自分の為にやっていたんです!」
ようやく稲豊には合点がいった。
少女の異様なまでの献身の理由。嫌われない為に、稲豊の機嫌を全力で取っていたのだ。そこまでナナは追い出されるのが恐ろしかった。この世界の醜さを生まれた時から知っていたのだから。
「でも……イナホ様は半魔のナナに普通に接してくれました」
上がっていた声のトーンを下げるナナ。
その目はどこか虚ろに見える。
「イナホ様ならナナの事を受け入れてくれるんじゃないかって。最初はそう思いました。でも……」
そこで言い淀むナナの表情は、切れ味鋭いナイフとなって稲豊の心を深く抉りつける。
「ナナは気付いてしまったんです。イナホ様がナナに向ける視線の意味に。――その嫌悪に」
メイド服に皺が大きく刻まれる程強く、胸を右手で押さえつける少女。
その胸中は、稲豊よりもずっと深い傷を負っているに違いなかった。
「仕方無いです。ナナは半魔で、イナホ様は人間なんですから。でも……でも! せめて上辺だけでもナナを嫌いにならないで下さい。イナホ様に嫌われ屋敷を追い出されたら、ナナは死ぬしか無いんです! だから!!」
一度止まっていた涙が再び少女の頬を伝う。
そして押し黙る稲豊のコートの端を、小さな両手で縋るように握り締める。
「……お願いですイナホ様」
思いの全てを吐き出したナナは、消え入りそうな声で懇願する。
「ナナを……………………嫌わないで」
線香花火の終わりの時の様に、言葉をぽとりと落とし。
ナナは長く深い沈黙に身を委ねた。
怯える少女の怒りを、混乱を、恐怖を、悲しみを。
感情の全てをぶつけられた稲豊は、途中から全く言葉を挟まなかった。
静寂が支配する崖下の窪みで、憂いを帯びた表情を浮かべる稲豊は。
久方ぶりに口を開く。
「それは無理だ」




