第202話 「緊急事態」
絶体絶命。
ファシールの頭上に掲げられた白銀の剣は、振り下ろされるときを今か今かと待ちわびている。
「……あ…………ああ…………」
本当ならいますぐにでも逃げ出さなければならないのだが、稲豊の身体はまるで石にでもなったように動いてくれなかった。ただされるがまま、ファシールの意思に身を委ねるほかない。
もし身体が本物の石だったならば、剣の一撃に耐えうるだろうか?
目まぐるしく動く脳内で生まれた、くだらない疑問。
その答えを確認するためには、稲豊の身体は軟すぎた。
『もうダメだ…………!!』
振り上げられた剣がゆるりと動き出すのを見て、稲豊は死を覚悟する。
そして次の瞬間――――
「その反応、やはりこのポーズは不評のようだ……」
「……………………………………へ?」
両腕で頭を庇っていた稲豊は、呆けた表情で面を上げる。
すると眼の前で剣を翳していたはずのファシールが、どこかガッカリとした様子で剣を鞘の中へと収めていた。
「……ポーズ?」
「ああごめん、驚かせてしまったかな? 来月の武闘大会に参加することになっているんだけど、そのときにどんなポーズをするか悩んでいてね。君に助言を仰ごうと思ったんだよ」
「そ、そう…………ですか」
緊張の糸が切れた稲豊は、強烈な脱力感に襲われ体をよろけさせる。
レトリアに「大丈夫?」と体を支えられなかったら、そのまま尻餅をついてしまったに違いない。
「勇者様! ソトナは民間人なんですから、いきなり武器を振り上げたりしないでください!」
「失敬、配慮が足りなかったようだ。来年から改めるよ」
「い・ま・か・らにしてください!!」
自分の代わりに怒ってくれるレトリアに感謝しつつ、稲豊はなんとか体勢を整える。心臓に悪いファシールの気紛れのせいで、寿命が三年は縮んでしまった。
文句のひとつ言ったところで、罰は当たらないだろう。
そう考えた稲豊が、口を開こうとしたそのとき――――――――
「誰か!! 誰か助けてください!!!!」
耳を覆いたくなるような、悲痛な叫び声が辺りに響き渡る。
何事かと声の聞こえた方角へ顔を向けた三人は、必死の形相で助けを懇願する若い女の姿を見つけた。
状況がよほど逼迫しているのか、女は歩道を走りながら誰から構わず助けを求めている。
「あの人は…………」
稲豊は白いローブを着たその女に、心当たりがあった。
そして気が付いたときには、
「どうしました! なにかあったんですか!?」
声を上げながら、女の下へと駆け出していた。
「ああ……お菓子屋さん! サイセが……サイセが……!!」
白いローブの女は、数時間前に菓子店を訪れたサイセの母だった。
サイセの母は顔面蒼白で膝をつき、息も切れ切れに息子の名前を叫ぶ。
「落ち着いてください。サイセがどうかしたんですか?」
稲豊はこれ以上、彼女を興奮させないように落ち着いた声で話しかけた。
するとサイセの母は、涙でいっぱいに濡らした面を上げる。
「庭で遊んでいたサイセと……施設の子たちが……………………いきなり現れた魔獣に……うぅ」
「襲われたんですか?」
「……はい。目を離した私が悪かったんです! 助かった子供たちに聞くと、何人かの子が攫われて……。そのなかにサイセも……!」
「魔獣がエデンに!? そ、そんなはずは……」
遅れてやってきたレトリアが、驚きを露わにする。
アート・モーロ内に魔獣が侵入するなど、彼女にとっては寝耳に水だった。
本来、都市の外周には必ず歩哨が控えており、獣が近づけばグヤの木を炊くことになっている。つまり万が一にも、魔獣が侵入できない対策をとっていたのだ。
「人手不足の影響が出たのかもしれないね」
最後に到着したファシールが、ため息を吐きながら言う。
四ヶ月前の戦争の影響を考えれば、それも納得のできる答えだった。
「勇者様!? ああ……神樹セフィロトに感謝いたします。お願いしますファシール様、子供たちをお救いください!」
「もちろん、それが勇者の務めだからね。さあ、どんな魔獣がやってきたのか、僕に聞かせてくれないか?」
ファシールを見た瞬間、サイセの母は安堵の表情を浮かべる。
それが勇者という称号の効果であり、ひいてはファシールへの信頼の証とも言えた。
稲豊は勇者の実力を目の当たりにしたことはなかったが、皆の反応だけで、その一端を覗いた気がしていた。
「子供たちの話では、宙を飛ぶ薄気味の悪い魔獣だったと……。それと魔獣の物だと思うのですが、庭にこれが――――」
「これは……鳥の羽根のようだね」
ファシールがサイセの母に手渡されたのは、楕円形の模様が特徴的な、桃色の鳥の羽だった。魔獣に詳しくない稲豊には、それがどんな魔獣なのか検討もつかない。
しかしレトリアの反応は違い、羽を見るなり大きな声を上げる。
「私……この羽根に見覚えあるかも!」
「本当かリア!?」
「ええ! 私のぶか――ゆ、友人が使っていた弓の矢羽に、この羽根が使われていたはず! たしか……『ハーピー』っていう魔獣の羽根だったと思うわ」
「…………ハーピー」
その魔獣の名には、稲豊にも聞き覚えがあった。
ファンタジーを舞台にした創作物では、比較的ポピュラーな魔獣である。
巨大な両翼に、鋭い鉤爪。
空を自由に飛び回る、敏捷な魔獣として描かれていることが多い。
だがハーピーを語るうえで、欠かせない特徴は別にある。
それは――――
「人面鳥か。厄介な相手に侵入されたものだね」
そう。
ファシールが口にしたように、ハーピーの最たる特徴は人面であること。
子供たちが不気味と表現したのも、頷けるものだった。
「ハーピーって、そんなに厄介な相手なんですか?」
稲豊が訊ねると、ファシールは何ともいえない複雑な表情を返した。
「魔獣としてはそこまで強い方ではないんだよ。だが、空を飛ぶうえに群れで行動するからね。子供たちを攫われたとなると、少し骨が折れそうだ」
「ゆ、勇者様……それではサイセは……私の息子は……!?」
「その点はご安心を。ハーピーは攫った獲物をすぐに食べるような真似はしません。獲物を巣に閉じ込め、弱るのを待つ習性があります。だからその間に息子さんを救ってしまえば、何も問題はありません」
ファシールの自信たっぷりな姿に、サイセの母は強張った表情を少し緩めた。
しかしこうしている間にも、時間は刻一刻と過ぎていく。
肝心のハーピーの巣さえ見つかっていない現状、無駄にしていい時間など一秒足りともないのだ。
「僕はこれから北東へ向かう。ママさんが子供たちに聞いた話じゃ、ハーピーはそちらへ向かったようだからね。君らはどうする?」
「行きます! 俺も一緒に連れて行ってください!」
稲豊は迷うことなく同行を決めた。
魔王国への帰還が遅れれば、それだけ皆に迷惑が掛かることも承知している。
それでも、稲豊はここで目を逸らすわけにはいかなかった。
父を戦争で亡くし、母ひとり子ひとりで暮らしてきた親子。
仲の良い家族が引き裂かれるなど、稲豊には絶対に許してはならないことだった。
そしてそれは、レトリアも同じ。
「私も行くわ! 子供を攫って食べるなんて、そんなの絶対に許せない!」
「気持ちは分かるけど、リアは付いてこない方が良いと思う。その……危険だし」
「いいえ! 行くわ! だって私……こういうことでしか、みんなの役に立てないもの!」
「で、でも…………」
「行・く・の!!」
頑なに意思を曲げないレトリアに、最終的には稲豊が折れる。
というより、問答をしている時間さえ惜しいのだ。
三人はサイセの母に『必ず子供たちと帰ってくる』ことを告げると、振り返ることなく走り出した。目指すは、アート・モーロの北東門である。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::
公園と場所が離れていなかったということもあり、三人はほどなくして北東門へとたどり着く。モンペルガでは巨大な石壁が街を守っていたが、アート・モーロはそれだけではない。都市と外界を隔てる石壁の間に、延々と続く水路が掘られているのだ。
水路は円環に流れるだけでなく、まるで血管のように街のあちらこちらへと張り巡らされている。それは景観という目的だけでなく、魔獣たちの侵入を塞ぐという壁としての役割も担っていた。
外界からアート・モーロへ入るには、本来なら巨大なダークオーク製の門を開き、さらに水路と扉を繋ぐ跳ね橋を通らなければならない。
しかし今回、そのどちらも魔獣の侵入を拒めなかった。
「やはり扉からではなく、壁を越えて侵入されたようだ」
「空を飛べるんじゃ、この壁たちには荷が重そうですね」
「ああ。だから最後の砦として、見張りの兵士が常時ここに張り付いているんだ。しかし魔獣はその壁も越えて、アート・モーロ内へ侵入してきた」
珍しく真面目な顔をしたファシールは、門の側にある兵士の屯所へと目をやった。小さな家ほどもある屯所は、石壁と隣接するように建築されている。
「普段なら何人かの兵士が駐在しているわけだが…………妙だな」
「え? 私には普段と変わらない、いつもの様子にしか見えませんけど?」
跳ね橋の上のファシールは、屯所へ目をやるなり小さく首を傾けた。
しかし稲豊とレトリアには、何が引っ掛かっているのか分からない。
「“普段と変わらない”から妙なのさ。魔獣に侵入されたというのに、ここは静かすぎる」
「そ、それってどういう……?」
「まあ、考えるより見たほうが早い。入ってみよう」
嫌な予感が、沸々と稲豊らの胸に湧き上がった。
だがここまで来て、尻尾を巻いて逃げ戻る訳にはいかない。
何より、攫われた子供たちのことを考えれば、こんなところで足踏みをしている時間さえ惜しかった。
「俺が開けます!」
「ソ、ソトナ……あまり無理しちゃダメだからね? 何かあったら、すぐに後ろへ下がってね?」
「わ、わかった……!」
色々と修羅場を潜ってきた稲豊だが、怖いものは怖い。
腰を引いた変な格好になりながら、それでも自らの足で屯所の扉の前に立った。
「ハァ~…………あ、開けます!」
そして深呼吸を一度してから、ドアノブへと手を伸ばした。
しかしそのとき――――――――
「うおっ!?」
「ソトナ!? 下がって!!」
稲豊がまだ触れてもいないのに、扉が勝手に動き出す。
予想外の事態に、レトリアも逼迫した様子で臨戦態勢へと移行した。
すると扉の向こう側から、
「む? レトリア様?」
レトリアの部下の三叉の矛。
そのひとりでもあるシグオンが、不思議そうな顔をして出現する。
そしてそんな彼女の姿を見るなり、
『やばい!? 正体がばれる!?』
稲豊とレトリアの顔は、空の色に負けないくらい真っ青になった。




