第198話 「仁義なき闘争」
ルートミリアに向き直った稲豊は、蜂蜜瓶を差し出しながら口を開く。
「ルト様。これは蜂蜜といってですね、それはもう甘くて美味しい液体なんです。しかも栄養満点で滋養強壮にも良くて、上手く保管すれば長期間の保存も可能な――――」
「ええい! 妾はいらんと言ったらいらん! そんな得体の知れんもの、口にできるか!」
「う~む、とりつくしまもない…………」
子供のように駄々をこねるルートミリア。
その思わず出た声の大きさのせいで、客間にいる皆の視線が彼女に集中する。
シンと静まり返った客間の中は、いまや重い雰囲気の亜空間。
言葉を出すのも憚られる、なんともいえない空気に支配されていた。
「では、得体が知れたら食べてくれるんですね?」
しかしここで諦めてしまっては、彼女は二度と蜂蜜を口にしないかもしれない。それは稲豊にとって、どうしても許容できないものだった。
蜂蜜を少しだけ小皿に移し入れた稲豊は、それをスプーンでゆっくりと掬う。そして皆に見えるように、蜂蜜を自分の口内へ流し入れた。
「うっ」
途端、芳醇な香りと共に、濃厚な甘みが口の中いっぱいに広がった。
舌が溶け出しそうなほどの凄烈な旨味は、生門の器が小さな稲豊でも分かるくらいに、劇的に魔素を活性化させていく。
「美味い! 美味すぎる!! これだけでもこんなに美味いってのに、これでデザートでも作ったりしたら……」
大袈裟でも、ルートミリアの背中を押すための嘘でもない。
さっきまでの思考が吹き飛んでしまうほど、異世界産の蜂蜜の味は稲豊に衝撃を与えた。
稲豊の反応を見ていた皆の視線は、器に入った蜂蜜に釘付けとなる。
ゴクリと喉を鳴らす者も少なくなかった。
「ルト様。俺の舌が『この食材は安全だ』って言ってます。母親の愛情が詰まった、最高の食材だって。もう、得体の知れないものなんかじゃありません」
「む……むう、屁理屈を……!」
「それに、この食材は俺が命懸けで採ってきたものですよ? ルト様のために、魔王国のために、ふたりの――夢のために。謂わば、俺の想いの証みたいなもんです。ルト様は、俺の想いを受け取ってはくれないんですか?」
「うぅ…………そ、それは………………」
大きな葛藤が、ルートミリアの中で渦を巻く。
緋色の瞳は困ったように泳ぎ、二の句を告げない口が「あぅあぅ」と意味もなく開閉する。
細く白い右手は躊躇いながらも持ち上がり、少しずつではあるが、蜂蜜入りの小皿に伸びつつあった。
「シモンの想いなら…………いやしかし、ああでも……!」
誰の目から見ても分かるくらい、ルートミリアは迷いに迷う。
もうちょっと! あと一押し!
スプーンを握る稲豊の手にも、自然と力が入る。
そして皆が身を乗り出し、食い入るように見つめていた。
――――――――そのとき、
「もうじれったいな~! ルト姉さんが要らないなら、ボクがもらっちゃうね!」
軽快な声色で緊張した空気をやぶったウルサが、稲豊の手から素早くスプーンを奪い取る。
「ああっ!?」
眼の前で蜂蜜入りのスプーンが奪われたルートミリアは、まるでおもちゃを取り上げられた子供のように、名残惜しそうに右手を伸ばした。しかし、そこにはもう蜂蜜入りの匙はない。
「あ、そうか――――」
空気を読まないウルサは、スプーンを口に運ぶ寸前で動きを止める。
そしてニコニコと小悪魔的な笑みを浮かべながら、
「これってシモン君と『間接チュー』だね! なんだか照れるなぁ」
多少の悪気と共に、そんな言葉を口にした。
「んなっ!!??」
それはルートミリアだけでなく、いままで静観していた者たちの間にも稲妻のような衝撃を与える。稲妻はビリビリと皆の間を行き渡り、やがてそれぞれが電気ショックを浴びたかのように活動を開始した。
「ウル、ちょっとお待ちなさいなぁ。そういう抜け駆けみたいなの、お姉ちゃんは嫌いかなぁ? 罰としてこのスプーンは没収ねぇ」
「は、早いもの勝ちって言葉知ってる? それに、こーゆーのは年下に譲るのが姉ってもんじゃないの?」
「ウルこそ年功序列って言葉は知ってるかしらぁ? あなたこそお姉ちゃんに譲るべきだと思うわぁ」
頬をピクピクと引き攣らせ、スプーンを奪い合うアリステラとウルサ。
表情こそ笑ってはいるが、内心が穏やかでないことは火を見るよりも明らかである。
しかし、たったふたりの奪い合いで終わるほど、争奪戦は生ぬるくはなかった。
「あっ!?」
どこからともなく現れた手によって、争うふたりのスプーンが強引に奪われる。軽い驚きの声を上げたふたりが見たのは、不敵な笑みを浮かべるマリアンヌの姿だった。
「年功序列なんやったら、ウチに権利があるわけやんね? ふふん、次女で良かった~」
「そんなのってズルい! ただちょっと早く生まれただけなのに!!」
「早いもの勝ちって言うたのウルやん? それに、腕っぷしでも負ける気はせぇへんで」
「横暴ですわ! この馬鹿力ぁ!」
「なんとでも言うとええわ。この勝負、ウチがもらった!」
勝ち誇った笑みを浮かべるマリアンヌだったが、勢い良く向かったスプーンが口のすぐ前でピタリと止まる。
「うん?」
不思議に思ったウルサがマリアンヌの顔を覗き込むと、彼女の顔はまるで林檎の実のように赤く染まっていた。
「……ハァ……ハァ……! か、間接チュー……!」
声に出したことで、よりマリアンヌの興奮が増していく。
先ほどまでの不敵な顔はとっくに鳴りを潜め、いまは嬉しいような困ったような複雑な表情で、しっかりと握られたスプーンを眺めていた。
――――――――その数秒後、
「ふわぁ……!?」
声にもならない声を上げ、マリアンヌは空中に鮮血の弧を描き卒倒する。
バタンという大きな音が響いた客間内で、アリステラは呆れた表情を浮かべていた。
「うぶのくせに無理するからですわぁ……じゃなくて、スプーンはッ!?」
弧を描いたのは鮮血だけではない。
投げ出されたスプーンもまた空中を泳ぎ、やがてひとりの少女の手の中に収まった。
「…………これが魔女の遺産か」
まじまじとスプーンを眺めるのは、先ほどまで読書を続けていたソフィアだ。
「ソフィ姉さん! 素直で可愛いボクにそれを!」
「ソフィアお姉さま! 優しくて愛らしいアリステラにくださいませ!」
「お前ら……どの口がそれを言ってるんだ?」
嘆息をひとつこぼしたソフィアは、再び眼の前のスプーンに視線を落とした。小さな銀色の匙の中では、黄金色の液体が誘うように煌めいている。
「…………………………」
「え? ちょっと、ソフィ姉さん?」
「あの……ソフィアお姉さま?」
無言で手元を眺めるソフィアの姿を見て、ウルサとアリステラの表情に焦りの色が浮かぶ。そんなふたりの嫌な予感は、次の瞬間に的中することになる。
「あー」
あろうことかソフィアが口を大きく開き、蜂蜜を食べようとスプーンを動かしたではないか。
「あ~~~!!!!!!!!」
奪い合っていたふたりの絶叫が、客間内に響き渡る。
だがあまりに距離があるため、もはやどう足掻いても間に合わない。蜂蜜入りのスプーンは、無慈悲にもソフィアの口の中へと消えていく。
しかしまだ、決着の時間は遠かった。
「ダメです!」
険しい声が響いたかと思うと、ソフィアが握っていたはずのスプーンがどこかへ消える。
「いてッ」
ガチと歯を鳴らしたソフィアが不服そうに面を上げると、
「たかが間接……チューぐらいでケンカしないでください! 子供たちの前で、恥ずかしいと思わないんですか!」
行方不明の銀の匙は、激昂するクリステラの右手に握られていた。
彼女のあまりの剣幕に、争っていたふたりも小さくなって俯くことしかできない。
気絶していたマリアンヌも意識を取り戻し、ようやくこの不毛な争いも終結を迎える。
――――かに思われた、次の瞬間。
「この匙は責任を持って、私が処分させていただきます!」
クリステラが頬を染めながら言ったひとことで、消えかけた闘争の炎が再び燃え上がる。
「させるかぁ!!」
誰かがクリステラに飛びかかったのを皮切りに、現場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
「風魔法!!」
「ぐへぇ!?」
誰かの放った風魔法で、ターブが壁へと叩きつけられる。
「魔法まで使うなんて! そっちがその気なら……!」
「ぐはぁ!?」
今度はネロが水魔法の餌食となった。
その傍らでは、パイロが昏倒している。
「タルトちゃん! こっちへ!」
「………………ナナちゃんもたいへんだね」
部屋の片隅では、ナナが糸のバリケードを張りタルトの身を守っている。
空中を飛び交うのは魔法だけでなく、家具もあるからだ。
もはや戦場となった客間だが、
「罪作りなお人ですなぁ、イナホ殿は。おや? そろそろ噴火しそうですな」
さすがというべきか、アドバーンは窓の外から一連の流れを鑑賞していた。
「魔能まで使う!?」
「そっちがスプーンを離せば解決かしらぁ!」
より加熱していくスプーン争奪戦。
仁義なき闘争に終止符を打ったのは、
「…………いいか……げんに……! せんかぁ!!!!!!」
ルートミリアの放った、激怒の雷魔法だった。
「アバババババ!!!!」
「ビビビ……ビリビリ…………ビビ」
「な、なんでオレまで…………」
ついに決着。
騒々しかった室内が、ようやく静かになる。
しかしまだ怒りの収まらないルートミリアは、つかつかとアリステラに歩み寄り、強引にスプーンを奪い取った。
そして――――
「はむ!」
皆の見てる前で、豪快にスプーンを頬張る。
「あ~~~~~!!!!????」
アリステラたちの無念が聞こえるなか、暴力的な甘みはスプーンからルートミリアの舌に移り、口内を蹂躙しながら喉の奥へと流れ込んでいく。
「ど、どうですか姉上?」
瞳をカッと開き、小さく震えるルートミリアを見て、クリステラが心配そうに声をかける。そしてしばらくの沈黙が客間内を流れたのち、
「…………シモン」
ルートミリアが背を向けたまま稲豊の名前を呼んだ。
「は、はいぃ!」
母が娘のために用意した改心の食材は、口に合わなかったのだろうか?
稲豊の不安を表すように、大粒の汗が頬を流れる。
やがてゆっくりと振り返ったルートミリアは――――――――
「でかしたぞ! シモン!」
こぼれ落ちんばかりの眩い笑顔を、稲豊へと向けた。




