第193話 「悪夢」
簡素な住宅街に佇む、こじんまりとした洋食屋。
どこの町にもある、とくに珍しくもない風景である。
しかし、その洋食屋を遠目に眺める稲豊の瞳は、驚愕に見開かれていた。
「こ、ここは――――――――」
ズラリと並ぶ観葉植物の植木鉢。
その数十センチ上にある出窓からは、古風な店内の様子が窺える。壁にかけられた洋風のランプは、昼間だというのに電球色の光を放ち、木製のドアを優しく照らしていた。
『魔王』
店先のスタンド看板、そして出窓の上に飾られている看板には、その二文字が掲げられている。小さな洋食屋に似つかわしくない店名は、幼い頃の稲豊が名付けた、思い出の深い名前である。
「やっぱりここは……俺ん家だ」
稲豊が異世界に赴く前、ずっと過ごしてきた洋食屋。
要所要所にちょっとした違いはあるものの、そこは間違いなく、稲豊が心の底から帰ることを望んだ我が家だった。
胸に郷愁が押し寄せ、いまにも店に飛び込みたくなる。
だがそんな想いと相反するように、稲豊の足はまったく動いてはくれなかった。
「――――あ」
金縛りにあった稲豊の前で、店の扉がカランカランと陽気な音をたてる。
店の中から現れたのは、黒髪を後ろで束ねた中年の男だった。
男はズボンのポケットから一枚の紙を取り出すと、躊躇なく木製のドアに貼り付けた。
「お、親父! 帰ってきたぞ!」
動かないならと、稲豊は大声をあげる。
なのに稲豊の父は反応を見せない。まるで無視でもしているかのように、稲豊の方を見ることさえしなかった。
するとそこへ――――
『……どうも』
懐かしい声が稲豊の記憶を刺激する。
かろうじて自由な頭だけを動かして、稲豊は声の聞こえた方へと顔を向けた。
そこには、学生服を着た体の大きな男。
十数年の人生で両親の次に見た顔、悪友の大門 光が立っていた。
「ひか……!?」
『ああ、光くんか。部活おわり?』
『いえ、今日は休みッス。……試験中なんで』
苦楽を共にした親友ですら、稲豊の声に反応を示さない。
光はまっすぐに稲豊を横切っていく。
やがて稲豊の父の前で足を止めた光は、どこか寂しげな瞳を店の二階部分へと向けた。
『もうすぐ……一年ッスね』
『そうか、もうそんなになるんだな。まったく、あの放浪息子はどこで何をやってるんだか。連絡のひとつも寄越さねぇでよ。いったいどの辺で育て方を間違えたかねぇ?』
軽妙な話し方をする父親とは対照的に、光の表情は明るくない。
眉を潜めた、複雑な顔を浮かべている。
そのなんとも言えない表情は、張り紙を見ることでさらに複雑なものへと変わっていく。
『店……畳むんですか?』
『ん? まぁ、一身上の都合により一時閉店ってやつさ。てめぇの息子がどういう状況にあるかもわかんねぇのに、鍋振ってるのも落ち着かなくてな。しばらく店閉めて、もう一度あいつのことを捜そうかと思ってる』
『そうスか。スイマセン……お力になれなくて。これ少ないッスけど、受け取ってください』
光がスクールバッグから取り出したのは、一枚の茶封筒だった。
少し厚みのある封筒の中身は、光がいままで貯めてきた貯金全額である。
『気持ちだけ受け取ろうか。たしかに家の家計簿は赤字ばっかりだけどよ、息子の友人から受け取る訳にはいかねぇよ』
光の思いが詰まった茶封筒だったが、稲豊の父は首を左右に振る。
しかし、断られたにも関わらず、光は封筒を差し出した右手を下げなかった。
『違うんです……これは同情なんかじゃないんスよ。稲豊がいなくなったのは、俺の責任でもあるんです。俺があのとき声をかけたから稲豊は…………』
『まったく……何度も言っただろ? 稲豊は学校行事に遅刻したぐらいで、失踪できるような無責任な奴じゃない。んで、もしそれが誘拐だなんだってことだとしても、光くんが気に病むことは何もない――ってよ?』
『だ、だけど俺! なにか……あいつのためになにかしたくて! でも、何をどうすれば良いのかも分からなくて! だから、だから……!』
悔し涙を滲ませる光の肩を、稲豊父は優しく叩く。
『その気持ちだけで良いんだよ。皆があいつの帰りを望んだら、きっとあいつは帰ってくる。責任感だけは無駄にあるやつだからな』
『でも……戻って来なかったら? どれだけ信じても、帰って来なかったら?』
『そうだな、そのときは――――――――また信じるだけさ』
あっけらかんと言い放った稲豊の父。
その表情は、この場にいる誰よりも朗らかだった。
息子が戻ることを信じて疑わない稲豊父は、『話しは終わり』と店のドアノブに手をかける。
「ま、待って! 俺は……俺はここにいるんだ! 帰って来たんだ!!」
呆然と立つ友人の脇を通り抜け、稲豊は父の背中を追う。
金縛りがいつ解けたのかなど、気にもならなかった。ただがむしゃらに声をあげ、置いて行かれた子供のように無様に走る。
そして、父が消えた洋食屋の扉を乱暴に開き、前も見ずに中へ飛び込んだ。
「…………え?」
だがそこに、父の姿はどこにもなかった。
いやそれどころか、洋食屋の様相さえ呈していなかった。
『ボクと遭遇した不運を呪うがいい!!!!』
「なッ!? て、てめぇ!?」
稲豊の目の前にいたのは、焼け焦げた服を纏ったアキサタナ。
そして周囲の景色は、岩石ばかりの岩場へと変貌していた。
現代の名残など何もないその場所は、稲豊の記憶に新しい。忌まわしい場所である。
「ここは、まさかあのときの……?」
『イナホ君! キミも早く逃げろ!!』
「マースさん? ミースさん?」
突如として現れたマースとミースが、稲豊の前に躍り出る。
アキサタナの牙が届かぬよう、身を挺して稲豊を守っているのだ。
「い、いやです! 俺なんかのために、ふたりを犠牲にはできません!! 頼むから……頼むから死なないでください! お願いします!! 俺に……命を懸けるだけの価値なんてない!!!!」
『ああ~? 何をゴチャゴチャとやってんだキサマらは~? 誰ひとり逃さないから安心しろ。みんな仲良く、炭クズになるがいい!! 爆破魔法!!』
痺れを切らしたアキサタナが、渾身の爆破魔法を放つ。
「く……うあああああぁぁぁぁぁぁああ!!!!」
紅蓮の炎は護衛のふたりだけに飽き足らず、稲豊の体にまで舌を伸ばした。一瞬で全身が炎に包まれ、稲豊は耐え難い激痛に苛まれる。目を開けることもできず、苦しみが去るのをただ待つことしかできなかった。
「ううぅ…………ん?」
しばらくジッと耐えていた稲豊だが、ふとある違和感を覚える。
「燃えてない?」
先ほどまで体を蝕んでいた炎が、いつのまにか消失している。
火傷の痛みもなく、火など最初からなかったような錯覚さえ感じてしまう。
火の恐怖から抜け出した稲豊は、安堵すると同時に面を上げた。
しかしそこで、稲豊は気付く。
全身を苛む恐怖は、まだ終わりを迎えた訳ではなかったのだ――と。
「何なんだよ……これ……!?」
面を上げた稲豊の前には、もうアキサタナの姿はどこにもなかった。
ゴツゴツした岩場も完全に消え去り、あるのは光も通さない暗闇ばかり。
自分の手さえ見えない暗闇なのに、それだけははっきりと見えた。
「大勢の……兵士か……?」
それは何百、何千という兵士の行進。
人も魔物も入り混じった兵士たちが、暗闇の中をまっすぐに歩き続けている。
皆が一様に虚ろな表情をしていて、人間らしい感情など微塵も覗かせない。多くの兵士が稲豊の横を通り抜けて行くが、誰ひとりとして稲豊に関心を示す者はいなかった。
「ど、どこに向かって……あ」
兵士のひとりの肩を掴もうとした稲豊だったが、伸ばした右手は何にも触れることなく空を切った。もちろん兵士が消えた訳ではない。触れたと思われた右手が、兵士の体をすり抜けたのだ。
「わけがわかんねぇ! くそ、俺は……どこに行けば良いんだよ!!」
得体の知れない空間に恐怖した稲豊は、それを誤魔化すように暗闇の奥へと走り出した。実態のない兵士たちのあいだを、全速力で駆け抜ける。
しかし行けども行けども、暗闇が続くばかり。
それがさらに、稲豊の焦燥感を駆り立てた。
やがて足が棒になり、走る心も折れたころ、
「ハァ……ハァ……!」
稲豊は暗闇に膝を折った。
周囲には大勢がいるのに、その誰もが反応を返さない。
大勢の中にいるにも関わらず、稲豊はいま誰よりも孤独を感じていた。
「俺が……悪いのか? 俺が……誰も救えなかったから?」
汗と一緒に、心が抜け落ちていくの感じる。
後悔と無力感が、容赦なく稲豊の心を苛んだ。
何もかもを諦めたくなり、このまま暗闇に溶けることも考え始めたとき――――
『限界ですか?』
稲豊の眼の前で、ひとりの兵士が足を止める。
緑のローブに身を包んだその男は、穏やかな声で稲豊に話しかけた。
『戻らなくても良いんですか?』
「…………戻りたいけど、何をすれば良いのか分からない。どこに行けば良いのか……分からない」
『大丈夫。貴方様の力があれば、きっと何とかできますよ』
「でも俺にそんな力なんて……」
『なら、小官と一緒に参りますか?』
ローブの青年は、膝をついた稲豊に手を差し伸べる。
それはあまりに温かく、優しい救いだった。
「…………あ……ああ……」
溺れたとき近くの木板に腕を伸ばすように、稲豊は藁にもすがる思いで青年の腕をとった。
その瞬間――――
「くっ!?」
世界が光に包まれ、すべての闇が払拭される。
あまりの眩しさに瞳を閉じた稲豊は、しばらくのあいだ目を開けることができなかった。
やがて、瞼の裏ごしに光が通り過ぎたのを悟った稲豊は、ゆっくりと瞼を持ち上げていく。
「あ?」
そこは真っ白な世界に、食卓がひとつある世界だった。
いや、正確にはもうひとつ。
先ほどまで青年が立っていた場所に、もうひとつ増えたものがあった。
「あ……ああ………………」
それは床に横たわった、ひとりの女性。
長い髪に隠れて顔は見えないが、稲豊にはそれが誰だかすぐにわかった。
そして次の瞬間、
「あああああああああああああああああああああああああああぁぁああああああああああぁああああああああああああああああああああああぁあぁぁああああああああああああああああぁあああああああああああああああああああああぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
稲豊は絶叫した。
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「――――わあああぁぁッ!!!!」
耳をつんざく絶叫で、稲豊はようやく夢の世界から帰還する。
ぼんやりとした頭で周囲を見渡すと、そこが魔王城の自分の部屋であることが理解できた。
外はまだ暗く、空気もひんやりと湿っている。
「ハァ……ハァ……………………夢……か」
頭から足先まで、水でも浴びたように汗に塗れている。
しかしいまはその気持ち悪さよりも、記憶に鮮明に焼き付いた悪夢の方が気がかりだった。
「わかってる……わかってるさ。俺にはまだ、やるべきことがある。俺にしかできないことがある。償いはまだ……終わっちゃいない」
自分に言い聞かせるように言い放ち、稲豊はベッドから降りる。
そして窓の外を眺めながら、四ヶ月前のことを思い出していた。




