第18話 「蜘蛛の意図」
町の中心にある大手スーパーマーケット、その野菜コーナーで頭を悩ます少年がいた。
少年の年齢は今年でようやく二桁の大台にのる。記念日に重きを置いている彼は、迫る母の誕生日に向けてサプライズの料理を準備している所だった。
「う~ん。このニンジンはダメだな~。ナスはこれでも良いけど……玉ねぎとジャガイモはうちの畑から使うから~」
喜ぶ母の笑顔を思い浮かべるその顔は、実に無邪気。
何を作るか悩むだけでも楽しそうである。
けど今の彼に作れる料理はほんの数種類しかない……。
だが将来父と同じ厨房に並び立つ為に、惜しまぬ努力を捧げるつもりだった。
「おぅ。何作るか決まったのか?」
「まだ~」
当面の目標である男が、手にスーパーのカゴを持って登場する。
カゴの中には主に生活用品、偶に酒。
「おいおい。いつも言ってるだろ? 【巧遅は拙速に如かず】ってよ」
「いみわかんない~」
「アレだ、アレ! 歌になってるやつ。もうあれで良いだろ?」
「あ~。うん、いいかもしんない」
待ちくたびれた父は、少年の悩みがようやく着地した事に安堵の吐息を漏らす。
そして幼く未熟な少年が、母に振る舞う事に決めた料理――――それは。
:::::::::::::::::::::::::::
「……さ………………い…………」
「イナホ様!!」
「うおっ!?」
耳元で響く少女の声に、稲豊は現実世界に帰還する。
「…………ナナ?」
その声の主は間違うはずもないが、ここに存在するのに多少の違和感を覚える人物。稲豊の覚醒したその視界の端に、メイド服を着たアラクネ族の少女。ナナの姿が映った。
ぼんやりとする頭のせいで、まだまだ状況の把握が出来ない。
それでも働いて貰わなくては困ると、稲豊は一つずつ確認をしていく。
場所は岩肌が何かの衝撃で削れた、高さ奥行き共に三メートルくらいの洞穴とも呼べない穴の中。自分は仰向けで寝ていて、体に目立った傷は無い。迫る脅威も今の所いない。隣にはナナがいる。
「ナナ……色々聞いて良いか?」
「はい! スリーサイズ以外ならお答えします」
いつもの軽いやり取りに、「ああやはりナナだ」と。稲豊は当たり前のことを噛みしめた。
「俺はどの位寝てた?」
「半刻程ですね」
三十分。
稲豊の感覚より、時間は経過していない。
「ここはどこだ?」
「惑乱の森の崖。その窪みの中です」
「俺はなんで生きてる?」
「ナナが糸を張ってキャッチしました!」
「緑色のドラゴンを見たか? あいつドコ行った?」
「どっか行っちゃいました!」
「なんでお前がここにいる?」
「実はお二人の後をずっと尾けて……あいたっ!?」
「すまん、助かった。お前は命の恩人だ」
最初から約束を守る気がなかったナナに稲豊はデコピンをお見舞いする。
涙目で額を押さえる少女だが、約束を破ったおかげでの現状である。デコピンで許した稲豊は、少女への感謝も忘れない。
ナナの話では取り敢えず脅威は去ったとのこと。
ようやく稲豊に蘇る実感と記憶。この少女のおかげで九死に一生を得たようである。
「本当死ぬかと思った。お前がいなきゃ絶対死んでた。ありがとな」
「いえ! イナホ様が無事で良かったです」
ナナにはいつも助けて貰っている。感謝してもしきれない稲豊だった。
しかし、今気になるのはもう一人の恩人のことだ。
「――――ミアキスさん見なかったか? 怪我してるんだ。早く捜さないと」
「見てませんが待ってくださいイナホ様! 一歩間違えれば死んでいました! もう少し休まないと」
しかし「ダメだ」と無理やり体を起こす稲豊。
自分の我儘でこの森に来たのだ。このまま負傷したミアキスを放って休むなんて、誰でもない稲豊自身が許さない。既に自身の不注意でミアキスの右腕は失われた。体の凝りを解し、耳掃除までしてくれたあの右腕は化物の腹の中に消えたのだ。その事を考えるだけで、稲豊は罪悪感に押し潰されそうになる。ジッとなんてしていられない。
そのまま立ち上がろうとした稲豊だが。その行動はナナによって制される。
「待ってくださいイナホ様! ミアキス様は無事です!」
少女の声によってピタリとその動きを止める稲豊。
振り返り「どういうことだ?」と少女に問い掛ける。するとナナは右手人差し指をスッと上げ、今度は逆に稲豊に質問を返した。
「見えますか?」
「うん?」
眉を顰める稲豊には、ナナの言葉の意図が良く分からない。
首を傾げ、掲げた指を凝視してみるが何も見えては来ない。そんな稲豊の様子に少女は少し得意気に胸を張り、それが何なのか説明を始める。
「この指先から、実はものすごーーく細い糸が出ているんです」
「――――全然見えねぇ」
稲豊は目を皿のようにして、更に凝視するがやはり何も捉えることが出来ない。
「んで……それがどうしたんだ? 馬鹿な俺にも分かる様に説明プリーズ」
「えっとですね。実はお二人が森に入る前に、この糸を背中につけさせて頂きました。ナナはこの糸から伝わる振動で、その人がどう動いているのか分かるんです。モチロン追跡だって出来ちゃいます!」
「何それめっちゃ便利。俺の背中にもついてんの? 全然見えないけど」
首を捻って背中を見るが、糸らしき物は確認出来ない。
不毛だと、稲豊はもう糸を探すのを諦めた。
「それでですね。ミアキス様は今普通の速度で歩いています。距離は結構離れてますけどね」
「――――そうかぁ。本当良かった」
心より安堵する稲豊。
ミアキスは治癒魔法を習得している。右腕の深手も生命に関わるような事にはならないだろう。まだ完全に安心できる状況までは程遠いが、絶望するにはまだ早い。
「にしてもナナ。お前物凄い有能なのな? 正直見直した!」
少女の頭を撫でる。稲豊からの惜しみない賛辞であったのだが。
その反応は彼が予想していたものと違い、どこか神妙な面持ちで目を閉じている。
「イナホ様。少しよろしいですか?」
なぜそのような表情を浮かべているのか? 頭上にクエスチョンマークを浮かべる稲豊の疑問に答えるかのように、ナナの方から口を開く。その声は今まで聞いたことが無い程の真剣味を帯びている。いつもと違う少女の様子に、「お、おう」とたじろぐ稲豊。
「ナナはイナホ様の命の恩人ですよね? なら一つ、ナナのお願いを聞いて欲しいんです」
「な、何だ……ハハ。そんな事か」
なんてことは無い。ただ人に何かをねだる事が苦手なだけだったんだろう。そんな風に考えながら、微笑ましいなと表情を綻ばせる稲豊。
「OKだ。俺に出来ることなら何でも言ってくれ」
当然快諾する。
ナナに言われるまでも無い。この命を救って貰ったのだ。
この感謝は行動で示さないと表現出来ないと稲豊は思っていたのだから。
神妙な顔から一変、どこか怪我でもしてるんじゃないかと疑う程の苦悶の表情を浮かべ、少女は弱々しくも強い言葉ではっきりと願いの内容を述べた。
「ナナの事――――嫌わないで下さい」
鈍器で頭を殴られた様な衝撃を覚える稲豊。




