第192話 「ある天使の日常」 後編
威圧感のある銀色の鎧に、凛々しくも威厳のある顔立ち。
辟易とした顔で嘆息したのは、私のお母様こと『アルバ=ベルトビューゼ』。
言わずと知れたエデンの大将軍で、私から見れば天使でなくとも雲の上の大人物だ。
「くだらない時を過ごす暇があったなら、兵士の調練にでも行ったらどうなの? あなたはもう多くの部下を従える、エデンの天使なのよ」
「あの……その、前に調練に行ったとき、教官さんに『邪魔になるんで』って言われて」
「はぁ…………」
母のため息が、よりいっそう強くなる。
だって皆に過酷な命令を下すなんて……私には難しすぎる。
頑張ってみたこともあるけれど、『優しすぎてダメです』って教官さんに追い出された。逆に士気が下がるとかなんとか……。
「頼むから『天使』の名に泥を塗らないでちょうだい。孤児だったあなたを引き取ったのは、バカにされるためなどではないわ。もっと自分の立場を弁えた行動を心掛けなさい」
「は、はい……申し訳ありませんでした」
呆れた様子の母は、鎧をガシャガシャと鳴らしながら去っていった。
恐らく戦闘訓練にでも行くのだと思う。母は強いうえに、努力も怠らない人だから。
「泥を塗らないで――――か」
母のようになるために頑張ってきたけれど、もうとっくに結果は見えてしまっている。私がどれだけ努力を重ねようと、きっと母のようにはなれないだろう。それは言い訳などではなく、絶対的な事実。
例えば、小鳥が大鷲に挑むようなもの。
例えば、子犬が獅子の群れのリーダーを目指すようなもの。
生まれ持った性質が違いすぎるのだ。
「私だって、自分なりに頑張ってたつもりなんだけどな…………」
噴水の奥に籠もってしまったエレーロは、もう今日は出て来ないに違いない。なら私は、今からどうするべきなんだろう?
「――――あ!」
そこで私は、とうとつに思い出す。
今日は週に二回しかない、特別な日だった。
「時間は……あんまり余裕ないかも!」
シャワーで汗を落とした私は、急いで身支度を整える。
それは屋敷で着るような高価な服装ではなく、普通の町民が着る普通の服だ。見つかれば不審に思われかねないので、普段はタンスの奥に隠している。
「見てない見てない」
そう自分に言い聞かせ、使用人たちの目を避けるように屋敷の外を目指す。もし彼女らに見つかったとしても、服装を変え、ストレートをポニーテールにした私には、誰も気が付かないのかもしれない。
「脱出成功! ごめんね? 夕食までには帰るから」
誰も聞いていない謝罪を口にし、駆け足で屋敷をあとにする。
目的地は、住宅街の北側にある小さな公園。そこでは週に二回だけ、ある食べ物屋がお店を開く。
「ハァ、ハァ……。もうっ! 汗を流した意味ないじゃない!」
時刻は午後四時。
日が長くなってきたとはいえ、空はもう赤みを帯び始めている。
いつ店が閉まっても、おかしくはない時間帯だ。
こうして目一杯に足を動かしても、それは徒労に終わるかもしれない。
でもいまの私の頭のなかには、『引き返す』なんて選択肢は微塵もなかった。
それが功を奏したのか――――
「よかった……ハァ、まだ開いてる!」
公園にぽつんと佇む小さな屋台を見つけた私は、乱れた髪を手櫛で整える。そして深呼吸を何度か繰り返してから、悠々と足を踏み出した。
「あ、いらっしゃい! また来てくれたんだ?」
屋台に近付くと、私に気づいた店主の男の子が声をかけてきた。
「え、ええ。この近くを通ったから、つ……ついでにねッ!」
「そっか。いつものついでに感謝してます」
「~~~~! ほ、本当についでなんだから!」
このちょっと意地悪な男の子の名前は『ソトナ』。
年齢は私とほとんど変わらない。
そんな彼が売るお菓子はちょっと評判で、お茶請けにはもってこいだ。
ティータイムに紅茶と一緒に頬張るのが、最近の私のブームになりつつあった。
「来てもらったのに悪いんだけど、今日はいつもよりもお客さんが多くてさ……。実はいま店を閉めるところだったんだよね」
「えぇ~!? そんなぁ~…………」
落ち込む私を見て、ソトナが申し訳なさそうに右手で後頭部を掻く。
その際に彼の翡翠色の髪が揺れて、少しドキリとしてしまう。
ソトナは男の子なのに、繊細でとても美しい髪をしている。
顔もどちらかと言えば、中性的……に見えなくもなかった。
「だから――――」
肩を落としながら見ていたソトナの顔が、ふいに屋台の影に隠れる。
どうしたんだろう? と私が覗き込むと、
「こんな物しか余ってないけど、良いかな?」
「え?」
顔を上げたソトナの右手には、茶色の紙袋が。
受け取って中を見てみると、私がいつも買う『豆饅頭』と『芋餅』がひとつずつ収められていた。
「もしかして……取っておいてくれたの?」
「いつも贔屓にしてくれるから特別。もう冷めちゃってるから、お代はいいよ」
「いいの? ありがとう」
こういうところは……ズルい。
こんなサプライズをされたら、嬉しく思うに決まってる。
だから私は、もっとソトナと話したくなってしまった。
「も、もう店じまいなのよね? だったら、少しお話ししない? あの、ソトナが良かったら……でいいのだけれど」
「もちろん! 実は僕も同じこと考えてた。ちょっと待ってて、いま支度を済ませちゃうから」
おそるおそる訊ねると、ソトナは満面の笑みで快諾してくれた。
私はそんな彼の笑顔を見て、胸が暖かくなるのを感じる。母に叱られたやるせなさも、稽古で受けた屈辱も、あっという間にどこかへ飛んでいってしまった。
ソトナの笑顔を見るだけで、癒やされている自分に気付く。
でも、それがどういった感情なのか? 私はいまだ答えを出せずにいた。
「おまたせ。座るのはここで良い?」
「ええ、どこでも構わないわ」
ソトナが公園のベンチを指差し、ふたり並んで座る。
肩が触れそうなほどの距離に、私の心臓が高鳴るのが分かった。
聞こえるはずはないのに、『彼に聞こえたらどうしよう?』なんて考えがよぎってしまう。
私はそんな思考を誤魔化すように、敢えて自分から口を開いた。
「お父様の足の具合はどう?」
「まだまだ仕事への復帰は難しそうだけど、調子は悪くなさそうかな。元気も食欲もあるし、リアが心配する必要もないくらいだよ」
「そう、安心したわ」
リアというのは、いまの私の仮の名前。
名前だけでなく、天使という身分も明かしていない。
いまの私はどこにでもいる普通のエデン住民――――『リア』。
ソトナには申し訳ないけど、彼にかしこまられるのは……すごくイヤだ。
「偉いねソトナは。ちゃんとお父様の代わりを務めて。私なんか全然だもん」
「リアだっていつも母親の手伝いをしてるじゃないか。今日だって、そういう用事なんじゃないの?」
「え、ええ……まあね! でも私には、ちょっとした手伝いしかできないから。代わりを務めるなんて、とてもとても。恐れ多いっていうか」
「ふーん? しっかり者のリアがそういうんだから、お母さんは凄い人なんだろうね。ちょっと会ってみたいかも」
「え? そ、それって――――」
私の脳内で、お母様へ婚前の挨拶をするソトナの姿が浮かび上がる。
それが妄想であることは明らかなのに、その光景は消えるどころか、より広がりを見せていった。
『お母様、リアさんを僕にください!』
『どこの馬の骨とも分からない輩に、娘は渡さん!』
『だったら……駆け落ちするまで! さらば!』
結婚を認めないお母様の前で、私を攫うソトナ。
彼の腕に抱かれた私は、お姫様だっこのまま屋敷を――――
「リア? 大丈夫?」
「ハッ!? だ、だいじょーぶって何が!? わ、私はぜんぜんへーき!! 例え見知らぬ土地だって、ふたりで身を寄せ合えばきっとなんとか……あ! いや身を寄せ合うっていうのは、別にイヤラシイ意味なんかじゃなくて!!」
「本当に大丈夫? 顔真っ赤だけど、風邪でも引いてるんじゃ……?」
「はぅ!?」
お、おでこにソトナの手が!?
ただでさえ、ここに来るまでに汗をかいたのに!
いまだって、汗が次から次へと流れているのに!
「わわ、わわわらひ……用事を思いらしたから!! ま、また来る!」
「あ、ああ。お菓子また用意して待ってるから。お大事に~」
この場にいることが耐えられなくなった私は、熱くなった顔を抑えながら駆けだした。後ろからソトナの声が聞こえたけど、いまは振り返るわけにはいかない。だっていまの私の顔は、夕焼け空のせいにできないくらい、真っ赤だろうから。
街角をいくつか曲がったので、もう彼の姿はどこにも見えない。
それでも私は、紙袋で顔を隠し続けた。この自然と綻ぶ頬をどうにかしない限り、誰とも顔を合わせられない。
「ああ、もう!」
どうしようもなく恥ずかしいのに、どうしようもなく困っているのに…………悪い気分じゃない。
「――――ふふ」
次に彼が来る日も、また行こう。
そのときはもっと話せるように、深呼吸は多めにしたいな。
私は茜色の夕日を背にしながら、そんなことを考えていた。
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町娘の姿をしたレトリアを見送ったあとで、ソトナは首を傾げながら腰をあげた。
「よっこいせっ」
そして移動式屋台の持ち手部分を握ると、いつもそうするように帰路へと着く。いつもの街並みを抜け、いつもすれ違う住民たちと挨拶を交わす。やがて見えて来るのは、豪華でも質素でもない彼の家だ。
屋台を壁に立てかけ、本日の売り上げが入った袋を片手に家の中へと入る。
後ろ手に扉を閉めたソトナは、次に家の奥へと声をかけた。
「ただいま~。父さん、留守番ごくろうさま。今日は何もなかった?」
「ああ。今日も平和な一日だったよ。やることが無さすぎて、暇を持て余してるぐらいだ」
奥から杖をついて現れたのは、無精髭を生やした中年の男。
ソトナは男に、売り上げの入った袋を預ける。
「それじゃ、ちょっと二階に行ってくるから。夕食はあとでもいい?」
「家にいるだけじゃ腹も減らんからな。オレのことは気にせず、のんびり休憩してくるといい」
「ありがとう。それじゃ、お言葉に甘えようかな」
簡単な言葉を交わし、ソトナは疲れた体で二階へと上る。
そして廊下の奥にある部屋へと足を踏み入れ、まっすぐに洋服箪笥を目指した。
どこにでもある普通の家の、どこにでもある普通の光景。
だがそんな『普通』は、数秒後に一変することとなる。
ソトナが開いた洋服箪笥は、ただ服を収納するための物ではなかった。
観音開きの洋服箪笥の中には、たしかにいくつかの男物の洋服がかけられている。しかしソトナはそのどれにも目もくれず、服をまとめて右側へと寄せた。そうすることで、衣服の奥に隠されていた『赤い魔法陣』が姿を顕わにするのだ。
「………………集中」
ソトナは魔法陣を確認したのち、静かに魔素を練る。
すると体内で練った魔素に反応して、洋服箪笥の奥に描かれた魔法陣は、赤みのある輝きを帯びていった。
そして――――
「よっと」
小さな掛け声と一緒に、ソトナの姿は洋服箪笥の中へと消えていく。
もちろん、箪笥の中に隠れた訳ではない。文字通り、姿そのものが煙のように消えてしまったのだ。
それは神隠しなどではなく、れっきとした移動手段。
赤い魔法陣は、対になる魔法陣へとソトナを導く。
やがて暗闇で目を開いたソトナは、慣れた手付きで洋服箪笥の扉を開けた。
「んん~……!」
狭苦しい場所を抜けた解放感から、背伸びをひとつ。
ついでに周囲へと目を走らせる。
そこは先ほどまでいた彼の部屋ではなく、高価な家具ばかりが目立つ若い女性の部屋だった。通ってきた洋服箪笥も赤い魔法陣こそ同じだが、質もサイズも明らかに違うものである。
「ん?」
伸びが終わったタイミングで、部屋の扉が音をたてる。
可愛らしく装飾された扉から現れたのは、ひとりの可憐な少女だった。
「本日のお勤めご苦労さまです。お食事になさいますか? お風呂になさいますか? それともあ・た・し?」
「いい加減にこのやりとりにも既視感を覚えるようになっちまったよ……。今日は食事の前に風呂に入りたい。悪いけど、城まで猪車を出してもらってもいいかな?」
呆れた様子のソトナに頼まれた少女は、拒まれたことも意に介さず笑顔を浮かべる。そして頷くように、軽く頭を下げてから言った。
「もちろんですわぁ。ご一緒しますね――――お父様」
「ありがとう。いつも助かるよ――――アリス」
そう感謝を口にしたのち、『ソトナ』……改め『志門 稲豊』は、まるで帽子でも脱ぐときのように、翡翠色のカツラを外した。




