第191話 「ある天使の日常」 前編
遠くで何かの金属音がする。
鉄と鉄がぶつかりあう、不快な音。
ああ……いやだ。
せっかく心地良い温もりのなかにいるのに、そこから遠ざけようとするなんて……なんて無粋な行いなんだろう。私はもっと、この暗闇に抱かれていたいというのに――――
カン、カン、カン。
時間が経つにつれて、雑音はどんどん酷くなっていく。
ああもう、分かったから。
ちゃんと起きるから、あと五分待って……。
そんな私の願いは、瞼越しに感じる陽光にあっさりと打ち破られた。
「レトリアお嬢様!! 起床の時間はとっくに過ぎておりますよ!」
私が頭から被っていたブランケット。
それを無慈悲に剥ぎ取ったのは、メイド長のカナン。
怒鳴るぐらいならまだ良いのだけれど、フライパンとお玉を持参するのは止めて欲しい。ふたつの金属の衝突音には、良い思い出があまりないから。
「ふわぁ、おはようカナン」
「おはよう――――ではありません! またお稽古に遅刻するおつもりですか! 朝食の準備も終わっておりますので、早くお着替えになって食堂へいらしてくださいまし!」
「……わ、わかってるってば。そんなに怒ると、また皺が増えちゃうわよ?」
「だったらお小言を減らす努力をしてくださいまし! 良いですね? 二分以内ですよ!」
「は~い」
プンスカと煙を立ち昇らせながら、カナンは私の部屋を去っていった。
彼女からすれば、年齢が二回り違う私など小娘でしかないのだろう。天使なんて肩書きは、彼女の前ではまったく意味を成さなかった。
でもそんな彼女だからこそ、私は心を許せるのだと思う。
変に取り繕われたら、逆にこっちが気を使ってしまうから。
「えっと、今日の稽古は舞踊と奏楽。あとは算学と……ああそうか、剣の稽古もあったのね……」
櫛を握っていた手が、急に重くなる。
剣の稽古は、私が苦手とする稽古のひとつだった。
:::::::::::::::::::::::
「あーあ、気が重いなぁ…………」
「お嬢様! 物が入ってるときは口を開かない! お行儀が悪うございます!」
「は~い」
大きな屋敷の、大きな食堂。
用意された朝食はとても美味しいのに、私の気は沈んだままだ。
「どうしてそんなに剣のお稽古がお嫌いなんですの? 昔は剣の筋が良いと褒められて、あんなにも喜んでおりましたのに……」
「だって」
あのときは、ただ剣を振っているだけで良かった。
それを戦争で使う意味も、誰かを傷つけるために使う感覚も、あのときは何も知らなかった。その恐ろしさを知ってしまった以上、昔と同じように喜ぶことなんてできない。
「それに――――稽古にはあの子もいるし……」
「んん? なんですの?」
「……なんでもない! ご馳走様、ルチアに今日も美味しかったと伝えて」
脇で控えていた給仕担当のメイドに声をかけ、私は二階の自室へと戻る。今度は稽古用の衣装に着替えなければいけない。面倒くさいけど、反抗して私服で行く勇気なんて持ち合わせていない。
「それじゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃいませ。レトリアお嬢様」
馬車に乗り込んだ私に、カナンが恭しく頭を下げる。
するとその後ろにいたメイドたちも、一斉に頭を下げた。
仰々しいといつも思うけど、いくら言っても止めないのでもう諦めた。
「ふわぁ……まだ眠いなぁ」
晴天の朝日というのは、なんでこうも暴力的なのだろうか?
夢の世界へと、何度も私を誘おうとする。なんて平和な暴力。
温暖な気候も相まって、さっきから欠伸が止まらない。
「平和――――か」
エデン軍と魔王軍がザックイールの丘で衝突してから、はや四ヶ月。
あのあとエデンは少しごたついたけど、現在ではすっかり元の様相を取り戻していた。大勢の命が犠牲になったというのに、それが必要なものだと皆が割り切ってしまったのだ。
薄情だと嘆くべきか、前向きだと喜ぶべきか。
私には……よく分からない。
「それは向こう側も一緒なのかな」
旧友が身を置いている、魔王軍。
彼らもまた、この陽光に眠気を感じているのだろうか?
なぜだかは分からないけど、そうあって欲しいと心から思った。
:::::::::::::::::::::::
「やっ! ハッ…………たぁ!!」
「アッハハハ! はえ~はえ~!」
くっ……まるで攻撃が当たらない。
どんなに早く木剣を振っても、彼女は簡単にいなしてしまう。
こっちは前髪が額にくっつくぐらいなのに、向こうは汗ひとつかいちゃいない。
「えい! やあ!」
「まっすぐなアタックも嫌いじゃないけど、単純なのはつまんなーい」
剣士として……いいえ、兵士としての格が全然ちがう。
そんなことやる前から分かっていたはずなのに、この悔しさだけはどうしようもない。私と彼女で、どうしてこんなにも違うのか?
「狙いは悪くないけど、それがバレバレじゃ意味ねぇって――――のッ!」
「え? きゃあ!?」
信じられないほどの重さで、彼女の木剣が私の剣に叩きつけられる。
その凄まじい力に耐えることができず、私は体をしたたかに地面に打ち付けてしまう。さっきまで手中にあった木剣は、どこかへいってしまった。
「そこまで! 勝者ティフレール!」
「どーも」
審判も務める剣術師範の声で、私はようやくこの苦難が終わったことを知る。
ここは兵舎の裏にある戦闘訓練場。そしていまの試合は、剣術稽古の最後にある模擬試合だ。
「だいじょーぶレトリアちゃん? 最後、ちょっとだけ大人気なかったかなぁ?」
実際は、彼女の方が私よりも若い。
なのに戦闘力は、大人と子供くらいの差がある。
彼女の言ってることも、的を外れている訳ではないのだ。
「へ、平気! ぜんぜん……痛くないから!」
「あー、怪我のことじゃなくて――――ソレ」
「え? あ……!?」
転けた拍子に、胸当ての紐が切れてしまったらしい。
革製の安っぽいやつなので、ちょっとの衝撃ですぐ切れてしまうのだ。
「くすくすくす」
何人かの生徒の小さな笑い声が聞こえる。
砂に塗れ、ベロンと剥がれた胸当てをつける私の姿は、彼女たちには滑稽に映ったことだろう。
今日もまた、彼女たちに嫌な話題を提供してしまった……。
「あれ? もう帰んのレトリアちゃん?」
「え、ええ。今日はちょっと……急いでいるから」
いそいそと帰り支度をする私にティフレールが声をかけてきたけど、用事のせいにして切り上げた。前に彼女に付き合ったことがあるけど、そのときはまるで人形かなにかのように色々な服を着せられ、彼女の取り巻きたちに嘲笑されたことがある。
そんな思いは、もう二度とごめんだ。
私は彼女たちの顔を見ないように、訓練場をあとにした。
:::::::::::::::::::::::
一日の稽古が終了し、屋敷に帰った私が最初にすることは――――
「ただいまエレーロ! 良い子にしてた?」
「キュイキュイ!」
庭の噴水に住む、『エレーロ』に帰宅の報告をすること。
水の精霊エレーロは、幼い頃からの私の親友。人間の言葉は話せないけど、知能は高く感情もある。以前メイドのひとりに人型スライムと勘違いされて、ひどく落ち込んでいたっけ。そういうところも、とても愛らしい子だ。
「キュイ?」
「あ……ううん、なんでもないよ。今日は剣の稽古で、少し疲れただけ」
彼女(?)は、人間の感情を敏感に読み取る。
私が気落ちしていたことも、エレーロには筒抜けだったみたい。
「昔はね? 剣の稽古、好きだったんだ。上達すればするほど強くなった実感も持てたし、一人前に近づくような気もしてたしね」
「キュイイ?」
「ううん、ティフレールがいるから嫌いになったわけじゃないよ。まあ、もちろん彼女がいることで色々と居心地も悪くなったし、馬鹿にされることも増えたけど……。でも、あの子は私とは違う本物の天才で、頭も良くてオシャレで、実はちょっと羨ましくすら思ってる」
「キュ?」
「剣の稽古を嫌いになったのは、私には無理だって……気づいてしまったから」
エレーロは、静かに私の愚痴に耳を傾けてくれる。
だからだろうか? 彼女にはすべてを打ち明けられる気がした。
「私の秘密……ううん、秘密なんて大げさなものじゃない。エデン兵士に志願したのは、ただ認められたかっただけ……」
覚悟や信念なんかじゃない。
独りよがりにも似た、身の丈を知らない小娘のわがまま。
そんなわがままが通るほど、この世の中は優しくできていなかった。
「あの人に少しでも近付こうと、努力は惜しまなかったつもり。でも……アリスの谷に初陣したとき、私の体は高熱を出して戦いを拒絶した。仲間の命を背負うこと、誰かの一生を奪うこと、悪に…………なること。私には何ひとつ……全うすることができなかった」
自分で自分が情けない。
民衆には天使なんて崇められているけど、私はいつまでもただのレトリア。
ちょっと背伸びがしたいだけの、落ちこぼれの人間なんだ。
「キュイっ!?」
「どうしたのエレーロ? なにが…………あ!」
エレーロが驚いた様子で噴水に隠れたので、私は反射的に振り返る。
するとそこには、こちらへ向けて歩を進める人影があった。
人影の正体は考えるまでもない。
エレーロがこんな風に隠れるのは、この屋敷にひとりしかいないからだ。
「空も白んでいないこんな時間から、また精霊を相手に愚痴こぼし?」
「はい……あ、いえ。ごめんなさい……」
穏やかだった中庭が、一度にピリピリした空気に包まれる。
大気すら震わせる高い声は、見えざる手となって私の体を握りしめた。
だが強張ることも、彼女の癇に障る行為に他ならない。
「まったく……いつになったら天使の自覚が芽生えるのやら……。無理だったなら遠慮なく言いなさい。あなたはまだ半人前、いつでも天使の座を降りることができるのだから」
そういって、私の母――――大将軍『アルバ=ベルトビューゼ』は、私に剣のような瞳を投げかけた。




