第186話 「いく者と残る者」
「邪魔だゴミどもぉ!!」
アキサタナの腕が振り払われたかと思うと、扇状に爆炎の波が広がる。それはサイズとしては小規模だったが、給仕隊の面々を吹き飛ばすには十分な威力を持っていた。
「ぐふっ!」
「ぐおおお!」
稲豊を守るように立っていた魔物の肉壁は、アキサタナのたった一振りで一掃される。全身鎧のマースとミースに怪我はなかったが、他の隊員たちは戦闘経験もない素人隊員。爆風に煽られ吹き飛んだ彼らは、多かれ少なかれ傷を負った。
だが問題なのは、体の傷よりも心の傷。
あまりにも違う戦闘力の差を見せつけられた彼らには、もう立ち上がるだけの気力さえ湧いてこなかった。
「退け! 退けぇ! 我らが奴の相手をしてる間に、早く遠くへ!!」
「急げ!! エデンの天使とはいえ、奴も人間! 逃げ切ることは十分に可能だ!!」
マースとミースの逼迫した声で、隊員たちはハッと面を上げる。
震える足でなんとか立ち上がった彼らは、荷や猪車もそのままに、散り散りに逃げ出した。
この場に残ったのは、アキサタナとふたりの護衛。
そして――――
「イナホ君! キミも早く逃げろ!!」
「い、いやです! ふたりを見捨てて逃げるなんて、俺にはできません!! コイツの狙いは俺なんですから、ここは俺がなんとかします!!」
「それはダメだ! 我々は君を守るためにこの場所にいる! 君を無傷で帰すことだけが、護衛の存在理由なんだよ! その目的を果たす為なら、我々はどんなことだって受け入れる!! 例えそれが……この命と引換えでもだ!!」
言い終えるや否や、マースは側にあった岩に向けて剣を振った。
もちろん乱心して岩を切ろうとしたわけではない。彼の狙いは、岩に括り付けられていたロープだった。
狙い通りロープは切断され、繋がれていたマルーが晴れて自由の身となる。
マースは「ブルル」と鼻を鳴らすマルーへ向けて、懇願するような口調で言った。
「マルー! イナホ君を運べ!! できるだけ遠くへ! 安全な場所まで!!」
「マ、マースさん!? 俺はここに残り――――うわっ!?」
言葉を遮るように、マルーは凄まじい速度で稲豊の襟首を咥え、そしてそのまま走り続けた。みるみるうちに小さくなっていく、ふたりの護衛。
稲豊は静止するように何度もマルーに呼びかけたが、巨猪は止まる気配を一向に見せなかった。
「逃がすかぁ!! 爆破魔法!!」
アキサタナの放った高速の魔弾が、マルーを背後から追う。
程なくして、魔弾は猪車に直撃した。
「うわぁ!?」
目の前で起こった爆発に、稲豊は堪らず両目を閉じる。
一瞬で死さえ覚悟した稲豊だったが、数秒経っても体に異変は訪れない。肌に感じる風も、相変わらず浴び続けている。
恐る恐る目を開いた稲豊が見たものは、遠くで悔しそうな顔を浮かべるアキサタナと、跡形も無いほど砕け散った猪車の荷台部分だった。
「荷台が無かったら…………」
考えるだけでも恐ろしい。
アキサタナが魔素を練る時間が少なかったとはいえ、直撃すれば確実な死が待っている。
稲豊は安堵を覚えながら、同時に恐怖も感じていた。
一番の獲物を仕留め損なったアキサタナの鬱憤は、次は別の誰かへと向かうだろう。近くにいるマースとミースが、今度はあの凶悪な魔法の餌食となるのだ。
それは避けられない事実であり、稲豊にはどうしようもない現実でもあった。
「頼むから……戻ってくれよマルー……!」
まるで走馬灯のように、ふたりとの思い出が頭を巡る。
異世界にやってきて、初めて会話をしたのがマースとミースだった。
あのふたりだったから、稲豊は今日まで生き長らえることができたのだ。
もしあのときに門番をしていたのが別の魔物だったなら、王都に入ることなく野垂れ死んでいたかもしれない。
「もう……嫌なんだよ……! もう……仲間を失いたくないんだ……!」
今度は、アリスの谷での光景がフラッシュバックする。
同じ志を持った仲間。彼もまた、皆を守るために命を懸けで戦った。
その最期は、稲豊の脳裏に鮮烈に焼きついている。
「………………レフト……」
無力な自分を、ここまで呪ったことはない。
稲豊の瞳に溢れた涙によって、視界はひどく霞んだ。
そしてついに、霞んだ視界の向こう側にいた護衛の姿は…………岩に遮られ見えなくなった。
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稲豊が不甲斐なさを嘆いた、その数分後。
沈んでいた稲豊の意識は、半ば強制的に覚醒することとなった。
「いてっ!?」
全身に浴びた衝撃によって、稲豊は自分が投げ出されたことを知る。
ゴツゴツした岩の感触と痛みが伝わってくるが、雪がクッションとなり怪我にまでは至らなかった。
体を起こしたのも束の間、振り返った稲豊は声を上げる。
「マルー!? どうしたッ!」
振り返った稲豊が見たのは、足を震わせるマルーの姿だった。
立つのもやっとといった様子で、一歩進んでは体がふらふらとよろめいている。
そこで初めて、稲豊はマルーの異変に気がついた。
「お前……ケガしてるじゃねぇか!」
マルーの背中は焼け爛れ、破れた皮膚から漏れ出た血が、後ろ足をつたい地表の雪を赤く染め上げていた。爆破魔法の被害は猪車の荷台に留まらず、マルーにまで及んでいたのだ。
「フッ……フッ……!」
荒く息を吐きながら、それでもマルーは懸命に歩こうとする。
少しでもアキサタナから離れるように、少しでも稲豊を安全な場所へと運ぶために……。
「もういい! もう動かなくていいから!! 少しジッとしてろ!」
マルーに駆け寄り、慣れない手付きで治癒魔法を発動させる。
しかし生門の魔素が少ない稲豊では、満足に傷を癒やすこともできない。
「くそったれ! この役立たず!! 何が魔王だ……何が隊長だ!! 治癒魔法さえ……ろくに使えねぇじゃねぇか!!!!」
毎日欠かさず練習はした。
魔導書の類は数十冊は読んだし、腕の良い教師だってついている。
なのにいまの稲豊にできることは、気休め程度に痛みを和らげるだけ。
戦いにも、救護の役にも立てない。
流れる涙を隠そうともせず、稲豊はただひたすらに魔素を絞り続けていた。
しかし、そのとき――――
「役に立たないゴミが、なんで生きているのか?」
最も聞きたくなかった男の声が、頭上から響いてきた。
反射的に面を上げた稲豊は、声の主を見つけるなり絶句する。
「なんだその顔は? ボクがここにいることが、そんなに不思議か?」
「ア……アキサタナ……!? お、追いつけるわけが…………!」
「どうしてボクが貴様ごときに追いつけないと? 移動する足がないからか? それとも、優秀な護衛が足止めをしてくれているからか? フハァッハッハッハ!!!!」
醜悪に笑うアキサタナが、五体満足でここにいる。
その意味を考えることを、稲豊の脳が拒否をした。
しかしアキサタナはそんな稲豊の状態を知ってか知らずか、敢えてそれを口にする。
「しっかし魔物という生き物は、どうしてあんなに臭いんだろうな? 人間と違って、蒸し焼きになったときの臭いは耐え難い悪臭だ。まあそれでも、鎧の中よりはマシだろうけどなぁ?」
「…………ッ!?」
耳を疑うようなアキサタナの言葉に、稲豊の全身が総毛立つ。
マースとミースの無事を心から願うが、それを否定する自分も心のどこかにいた。あのふたりが無事ならば、アキサタナがこの場にいるはずがない。
そしてその矛盾を証明するように、稲豊の視界の端に『ある生き物』の姿が引っかかった。
「あれは……ミースさんの……!」
アキサタナの後方に放置されているのは、見間違うはずもないミースの巨猪。
そこで稲豊はすべてに合点がいった。アキサタナはマースとミースを撃破し、繋がれていた巨猪を使ってここまで辿り着いたのだ。
「血を辿るだけの簡単な追跡……これはもう神の啓示に他ならない! キサマを殺せと、神が言っているんだ!! さあ、魔物に味方したことを後悔しながら、地獄の業火に焼かれるといい!! ヒィッヒへヒィヒヒ!」
猟奇的な笑みを浮かべながら、アキサタナは再び魔素を収束させた。
猪車ですらバラバラにする魔法で、数メートルの超至近距離から狙われている。
「……もう……ダメだ……!」
稲豊の頭に、この状況を打開できる名案は――――――――浮かばなかった。




