第178話 「人間だから」
「歩兵部隊を退却させ、こちらの喉元を敢えて晒す。敵は絶好の機会を逃すまいと押し寄せ、我々はそこを戻した歩兵部隊と遊撃隊で叩く。単純な手だが……バカ将軍には効果覿面だったようだな」
「魔王軍は魔王だけで保っている脆弱な軍……その噂を利用した策か」
会話するソフィアとルートミリアの前方では、今まさに両軍が激突している真っ最中。しかしそれは戦いと呼ぶにはあまりに一方的で、アキサタナ軍の混乱した様子は見ていて痛々しいレベルだった。
「しかし……妾たちにまで秘密にすることはないではないか。退却した兵たちをどうしようか、本気で悩んでしまったぞ」
「策の成功のため、万が一にも敵の耳に入れる訳にはいかなかったからな。まあ……兵士たちの中には『大将に申し訳ない』って、気が乗らない者も多かったみたいだけど」
「にしても、アレだけの数の兵士をよく操縦できたもんやなぁ。練習の時間もなかったのに、いつから兵士に作戦を伝えてたん?」
進軍を開始してから、ソフィアは一度も前線に足を運んでいない。
それどころか、歩兵部隊と会話すらしていないのだ。にも関わらず、歩兵部隊の足並みを揃えた動きは、不自然なほど自然な動きだった。
ソフィアは皆の好奇の視線を一瞥してから言った。
「最初からさ」
「最初?」
「ああ――――最初」
どれほど遡った『最初』なのか?
稲豊はソフィアの言葉に戦慄を覚えると共に、彼女には恨まれないようにしようと心に誓った。
猪車の中の稲豊には、もはや決着が見えている戦場は対岸の火事。
ふと視線を送ってみると、人と魔物が入り乱れ戦う姿が視界に映った。疲弊した体に鞭を打ってたどり着いた挙げ句、魔物の餌食となるアキサタナ軍……もとい人間たち。
「………………これが……戦争」
映画やドラマとは違う、本物の戦場。
それが偽物でないというだけで、全身に感じる現実感は凄まじいものがあった。
耳には誰かの叫びと剣戟の音が、
肌には地響きと魔法の振動が、
そして鼻には……人間が飛び散らせる血液の芳醇な香りが。
そのすべてが不快な感覚となって、稲豊の表情を強張らせた。
「あ」
雪で白く染まっていた平原は、いまや死体と血で彩られている。
そんな地獄の中を、黄金の毛並みが駆けるのを稲豊は見た。
躍動する黄金の魔物は、金色の剣を片手に戦場の真っ只中を疾駆している。
「…………ミアキスさん」
ミアキスだけではない。
狼人族もネコマタ族も、皆が一丸となって戦っている。
仲間のために、誇りのために武器を振るっているのだ。
いくら凄惨な光景が繰り広げられていようとも、稲豊は目を逸らす訳にはいかなかった。
「俺は……こんなところで何をしているんだ……?」
人間が死ぬ。
魔物が死ぬ。
そんな生死の際を眺めることしかできない。
仲間たちとは同じ土を踏んでいるのに、同じ場所には立っちゃいない。
稲豊が自分の不甲斐なさを嘆いたそのとき、アキサタナもまた不甲斐なさを嘆いていた。
「くそくそくそぉ!! こんな……こんなはずでは……!!!! 部下さえ無能じゃなかったら、こんなことにはなっていないのに!!!!」
もちろん、彼が嘆くのは自分ではなく部下たちのこと。
眼前にまで迫りつつある魔王軍の兵士を見て、アキサタナは体裁など放棄し部下を罵った。だがいくら部下を呪ったところで、そこに意味などあろうはずもない。
「アキサタナ!! 覚悟!!」
「ぐぅ!?」
遂には敵の剣が届く位置までの接近を許してしまう。
なんとか初撃は凌いだものの、このままでは捕縛も時間の問題だった。
「ハァ……ハァ……! まだ……まだ負けてはいない……。敗北などでは断じてない!!」
叫喚したアキサタナは、魔王軍に背を向けて走り出した。
「どけッ!!」
「ア、アキサタナ様……何を……!?」
近くにいた兵士から馬を奪ったアキサタナは、兵士の問いに答えることなく馬を走らせる。そして馬上から親衛隊のみ付いてくるように命令を下した彼は、もう振り返ろうとはしなかった。ただ一点だけを見つめ、アキサタナは鞭を馬上で振り上げる。
「――! アキサタナだ! 捕まえ……ぐわっ!?」
「邪魔だ凡夫が!!」
敗軍の将とはいえ、天使の名を冠するアキサタナ。
迫る魔王軍兵士を高火力の火魔法で寸断する。そして皆が火で怯んだ隙を見つけ、敵の合間を縫うように退却を続けた。
「我々も今は退くぞ!! アキサタナ様に続け!」
「おう!!」
真紅のローブに身を包んだ親衛隊も、続々と馬首を翻し退却を開始した。魔王軍兵士は逃すまいと立ちはだかるが――――
「ゴホ……ゲホ! くそ! 魔煙石か!!」
煙幕を張られたことで、位置を正確に捉えることができない。
黒煙に視界を遮られているうちに、親衛隊の背中は戦場から離れていった。
「報告します! アキサタナと親衛隊が退却を開始! 我々の包囲網を抜け、エデン国方面へと向かっているようです!」
「尻尾を巻いて逃げ出すか。まだ戦う兵もおるというのに…………」
「やはりここで仕留めるのは無理だったな。ルト姉――――」
「わかっておる。“作戦乙”じゃな」
再び紙のメガホンを手にとったルートミリアは、今度はそれを人間の兵士たちへと向けた。
「聞け、エデン軍の兵士たちよ! お前たちの大将は敗北を確信し、我先にと戦場を後にしたぞ!! もうこの場に戻ることはないだろう! それでもお前たちはこの無駄な争いを続けるのか? もしこれ以上の抵抗を続けるようであれば、我々は一切の容赦をしない!! しかし、ここで降伏を宣言するのなら身の安全は保証しよう!! さあ、いま決断しろ!! 無能な大将のために犬死にするか、我々の捕虜を受け入れるかを!!」
ルートミリアが勝利宣言とも取れる二択を迫ったことで、アキサタナ軍は自分たちが置かれている現状を知る。攻撃の手を止めて振り返れば、そこに大将の姿は存在していなかった。
「お、おい! 親衛隊の姿も無いぞ!?」
「じゃあ天使様は本当に……俺たちを見捨てて逃げたってのか……?」
「……どうする? このまま抵抗したって、全滅するのが目に見えてる」
「だからって魔物の捕虜になんて……」
取り残されたアキサタナ軍は混乱を極めた。
結論を出そうにも、それを決められる唯一の大将が退却してしまったのだ。戦う決断も降参する決断も下せず、往生するばかりである。
そんななか、ひとりの人間が声を上げた。
「素直に武器を捨てて降参すれば、魔物は絶対に人を傷つけるような真似はしない!! 俺自身がその証拠だ!! 魔王国の目的はエデンとの共存!! 無闇に命を奪うようなことは、絶対にないんだ!!」
皆に聞こえる大声で叫んだのは、猪車から飛び降りた稲豊だ。
自らの待遇を証明するかのように、稲豊は両手を広げて人間たちの前に立った。
「に、人間だ……!」
「彼が捕虜で、言ってることがもし本当なら……」
「いやしかし、魔物に脅されている可能性もあるんじゃないか?」
「けどこのままなら確実に死ぬ! 助かる可能性が少しでもあるのなら……」
ひとりの兵士が剣を捨てたのを皮切りに、次々と武器が地面に落ちて金属音を鳴らした。それはもしかしたら、兵士たちの心が折れた音なのかもしれない。この場にいたアキサタナ軍兵士のすべてが降伏を認め、遂にザックイールの丘での戦いは決着を迎えた。
「説得には時間が掛かる予定だったが、かなり時間が節約できた。礼を言うぜ」
「別にいいよ……。俺は人間として、無駄な争いに耐えられなかっただけだから」
ソフィアに褒められても、稲豊の心は晴れない。
人と魔物を含め、たった一日で数千の命が失われたのだ。苦悶の表情で横たわる兵士たちの無念を思うと、素直に喜べるはずもなかった。
「ウル――――すまんが起きてもらうぞ。当初の予定通り、捕虜の面倒はお前に任せる。妾たちは逃げたアキサタナを追うのでな」
「うぷ……分かったよぅ……。手負いの獲物は危険だって言うし、とりあえず気をつけてね。こっちも一段落したら追いかけるから」
「うむ。そちらも捕虜の扱いは十分に注意するのじゃぞ? 配慮も、そしてもちろん警戒もな」
魔王軍はその場で二つに分けられた。
ひとつはアキサタナを追う機動力の高い連隊。
もうひとつは丘に残り、捕虜へ対応する隊。
ルートミリアやミアキスなどは前者で、歩兵部隊を率いていたウルサは後者である。
「ここから危険度は更に増すことになる。シモンは――――」
「まさか『相棒』を置いていくつもりじゃないですよね?」
「うぐっ! そ、それを言えば許して貰えると思っておるなら……!」
「ダメなんですか?」
「ダメじゃ……………………………………ない」
嬉しいような悔しいような複雑な表情を浮かべたルートミリアは、小さく俯く。だがやはり悔しい気持ちは多く、「ええい! すぐに出発するぞ!」と兵士を急かす姿は、稲豊の目にとても愛らしく映った。
『少しでも傍にいたい』
稲豊のそんな小さな願い。
少年は後に、その選択を後悔することになる。




