第175話 「北の死闘と南の激闘」
「…………何か変だ」
湿地帯を強行していたアキサタナ軍の部隊長は、馬上でそんな呟きを漏らした。彼が感じたのは、周囲から注がれるいくつもの視線。しかし何者かの気配を感じるものの、その姿を視認するには至らない。彼の第六感は、小さくだが確かな警鐘を鳴らしていた。
「全体止まれ!!!! 何者かが潜んでいるぞ!! 周囲の状況の確認を…………」
号令をかけながら後ろを振り返った部隊長は、命令の途中にも関わらず絶句した。
「将を射んと欲すればー」
聞き慣れない声は、手の届きそうな距離からだった。
部隊長の背後、同じ馬上にちょこんと佇んでいるのは、頭から水を滴らせる魔物の姿。その雌黄色の瞳と目が合った瞬間、部隊長は自らの運命を悟った。
「先ず将を射れば良いと思うんだよねー。おれ」
暢気な声が聞こえるのと同時に、部隊長は自らの首の骨が折れる音を聞いた。バランスを保てなくなり、強かに体を地面へと打ちつける。もはや痛みに悲鳴を上げることも無くなった亡骸の前で、タルタルは自分の部下たちへ向けて言った。
「基本的に殺っちゃって良いけどー、降伏する奴はとりあえず昏倒させといてねー。敵は魔法兵ばかりだから、武器を奪っても油断禁物。捕まえるなら自分の責任でよろしくー」
「はーい」
「おー」
沼や水溜りから続々と現れる爬虫類人間を見て、アキサタナ兵たちは様々な反応を見せた。
「て、敵襲ー!! 敵襲ぅぅ!!!!」
恐怖にかられ狼狽する者もいれば、
「伏兵!? くそっ、読まれてたか! 火魔法!!」
勇敢にも迎え討つ者もいる。
命乞いをする者はいなかったが、それは蛮勇からではない。
魔物に捕まれば死ぬよりも悲惨な目に遭う――と信じて疑わなかっただけである。故に兵士たちは、無駄にその生命を散らすしかなかった。
「恨みは無いけど、面倒だからさっさとやられてねー」
レプタイラー部隊の動きは俊敏かつ奇天烈。
下から馬を這い上がってきたかと思えば、樹上から飛びかかってくる。そして距離を詰められてしまえば、鋭い爪や太い尾が肌に食い込むのだ。
アキサタナ自慢の魔法兵たちは、得意の魔法を披露することなくバタバタと倒れていった。
「こ、このままでは全滅してしまう! 一度この湿地帯を北に抜け、左回りに本陣を強襲するぞ! ついてこい!!!!」
「おお!!!!」
副隊長が指揮を代わり、アキサタナ兵は北方へと方向を転換させる。
「ああー! 逃げたー!」
「隊長ー追いますかー?」
足場の悪い湿地帯にも関わらず、アキサタナ兵はグングンと距離を離していく。水溜りに足を取られ倒れる馬もいたのだが、他の兵は後ろを振り返りもせずひた走っている。さすがに馬の足に追いつけるわけもなく、アキサタナ兵の大多数が湿地帯を離脱してしまった。
小さくなっていく敵方の背中を見送りながら、それでもタルタルはのんびりとした所作を崩さない。
「追わなくてもイイよー。相手するのは逃げ遅れた兵士だけだねー。おれたちの仕事は終わったようなもんだし、あとはアチラさんに任せようよ」
「はーい」
「おー」
レプタイラー部隊の被害が軽微なのに対し、アキサタナの北方遊撃隊の被害はそれなり。『大』とまではいかないながらも、金星なのは間違いない戦果である。多くを望まないタルタルは、早々に追撃を諦めた。
しかしそれは、慈悲の心などでは断じてない。
むしろ、無慈悲な行いだと指を差されてもおかしくはなかった。
「逃げてった人間たちには、ちょっとだけ同情しちゃうねー。おれたちに殺られた方がよっぽど安らかだったのになー。まあいいや、おれたちはしばらくここで待機ね」
タルタルは大きな欠伸をひとつ漏らすと、そのまま地面に仰向けに転がる。そして数分も経たないうちに、寝息を立て始めた。
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湿地帯を北に抜けた先の岩場では、タルタルの確信が現実のものとなっていた。
「ぎえぇ!!??」
「た、助け……ぎゃあ!!!!」
そこはまさに、阿鼻叫喚の地獄絵図。
狩りなどという生易しいものではない、殺戮の光景が繰り広げられている。
「殺せ!! 大地を奴らの血で満たすのだ!! 我々の領域に踏み込んだ愚かさを、魂の隅々にまで刻み込んでやれぃ!!!!」
巨大な狼の背で勇ましく叫ぶのは、半身が返り血で染まったマルコだった。彼は右手に身の丈よりも長い斧槍を持ち、数kgはあるそれを軽々と振り回している。
「火の精霊よ! 我が敵を討ち滅ぼすため、炎の加護を与え――――」
「遅いッ!!」
「ぐゔっ!?」
詠唱が終わる前に、斧槍の穂先がアキサタナ兵の胸を貫通する。
たちまちのうちに絶命した兵士を雑に放り捨てながら、マルコは次の獲物を目掛けて突進を開始した。
逃げ惑う者も命乞いする者も、狼人族は容赦なく切り捨てていく。
その悪鬼羅刹を彷彿とさせる戦いぶりに、アキサタナ兵たちは武器よりも先に心が折れるのを感じていた。
「くたばれ魔物が!! 火魔法!!」
「それがどうしたぁ!!」
炎弾が直撃し全身を火だるまにされているにも関わらず、狼人族は一歩も退かず向かってくる。いやそれどころか、更に勢いを増して襲ってくるのだ。彼らを止めるには、生半可な魔法では意味を持たない。
「は、話が違う……! 誰だよ、魔王さえいなければ腑抜けだけだと漏らしたのは!!」
「このままじゃ……全滅だ。せめて……せめてこのことを本陣に!」
戦う意思を失ったアキサタナ兵は、無様な敗走を余儀なくされた。
剣も盾もかなぐり捨て、敵に撃つべき魔法は時間稼ぎの煙幕として地面へ放たれる。そこまでしても、連携のとれた狼人族の輪から逃げ出せたのはほんの数人。
しかもその数人も、自力で逃げ果せた訳では決してなかった。
「……族長、あの連中は生かすので?」
「ああ、ここは敢えて逃がす。奴らには大将に惨状を伝える語り部になってもらう。我々の領域に侵入すればどうなるのか、奴らも頭から足の先まで理解したことだろう」
マルコがぐるりと周囲を見渡せば、人間の死体が累々と横たわっているのが視界に映った。もはやこの場から悲鳴は消え去り、代わりにあるのは物言わぬ屍ばかり。恐怖に歪んだ死に顔が、凄惨さを物語っている。
「……死体はどうしますか? このまま放置するのは、皆の精神衛生上よろしくありません。タガの外れた若い衆が手を――いや、口をつける可能性もあります」
「そうだな。敵とはいえ、果敢に戦った勇者たちだ。我々と同様に、丁重に弔ってやれ」
「承知しました」
完全勝利を収めたマルコだったが、表情はまだ晴れない。
それは人を殺めた罪悪感でも、戦に参加したことへの後悔からでもなかった。
「…………殺られるなよ」
南方へと向けられたマルコの瞳は、不安と焦燥感で満たされていた。
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マルコの視線の先、魔王軍本陣の南にある森の中では、今まさに戦いが繰り広げられている最中だった。発端は、アキサタナ軍が樹上に設置されたハンモックを見つけたこと。
『魔物の寝床に違いない! 頭上に注意しろ!!』
そんな掛け声を地中で聞いていたネコマタ部隊は、その声を合図にするかのように地上へと飛び出し、ぎょっとするアキサタナ兵士たちに問答無用の奇襲をかけた。
「は、離せこの……!!」
「離せと言われて離すバカはいないのにゃー!」
「ぐふッ!?」
持ち前の俊敏さでアキサタナ兵に飛びついたネコマタ族は、鋭利な爪で兵士の喉笛を切り裂いた。一見は愛らしいマスコットの様相だが、それは相手を油断させるためのネコマタ族の進化。魔物としての本能は、狼人族に負けずとも劣らない攻撃性を持っている。
「く……ちょこまかと……! これでは照準が……」
飛んで跳ねて転がる。
体躯の小ささも相まって、魔法を当てられるどころの話ではない。
しかも人間や馬の背に飛びつくので、火魔法を使う訳にもいかないのだ。
森という慣れないフィールドでの、完全な虚を突いた奇襲。
この完璧に用意された状況のなかで、アキサタナ兵に為す術などあるはずもなかった。
「こんなバカみたいな魔物に……ちくしょう!」
「わっちはバカじゃないのにゃ! もう怒った! ボコボコのギッタンギッタンのグッチャグチャにしてやるのにゃー!!」
「グチャグチャはやめて……」
北の湿地帯と同様に、森を迂回して本陣を強襲しようと考えたアキサタナ兵士もいた。しかし、ひとたび森を抜けると、そこには機動力の高いミアキスの遊撃隊が待ち構えているのだ。二段構えの伏兵に攻撃され、アキサタナの南方遊撃隊はすでに壊滅的と言っても過言ではなかった。
「こ、こんな所にいられるか!? おれは本陣に帰るぞ!!」
「オレは帰ったら結婚するんだ! ここでやられてたまるかっ!」
「俺に任せて先に行け! なあに、すぐに追い付く……」
作戦の失敗を悟ったアキサタナ兵は、我先にと退却を開始する。
敗走する背中を見送ったエイム率いるネコマタ族は、歓喜の表情で勝鬨をあげた。
「人間共を追っ払ったにゃー!! わっちたちの完全勝利だにゃー!!」
「やったーオカシラー! バンザ~イ! バンザ~イ!!」
「マルコの奴は大丈夫かにゃ? ふふ~ん! あとでわっちたちの戦いぶりを自慢してやるかにゃー」
アキサタナに北と南に送った両部隊が全滅したと伝わったのは、エイムがふたつの尾を機嫌よく振った十数分後のできごとだった。




