第172話 「楽園の先は」
胸糞注意報発令中。
ざくと音を立て、雪が足裏で潰れる。
最初は新鮮に感じていた感触も、数歩も歩けば皆の表情が乱層雲のように曇った。しかし、引き返すことも立ち止まることも許されていないアキサタナ軍の兵士たちは、白い吐息を置き去りにしながら、ただひたすら前進するしかなかった。
「雪中行軍するなんて……話が違う……。装備も準備も、全然足りてないってのに……」
兵士のひとりは、空を見て忌々しそうに漏らした。
吹雪いてはいないので視界は良好とはいえ、ブーツに纏わりつく雪はまるで鉛。肌を刺す冷気は、まるで茨の中を進んでいるようだった。
あとはもうモンペルガまでは一直線。
子供でも迷わない平原が続くばかりだが、それゆえに景色に起伏がなく、兵士たちは『本当に進んでいるのか?』という錯覚と戦うことを強いられていた。
そんな苦境のなか、アキサタナは相変わらず快適な馬車の中から出てこない。兵士たちの不満は、地上を覆う雪のように募るばかりだ。
「天の使いだってんなら、この雪をなんとかしてくれってんだ……!」
「お、おい……止めろよ!? もし聞こえでもしたら、首を刎ねられても文句は言えないんだぞ?」
「お前だって文句のひとつくらいあるだろう! 夜間行軍なんてしたもんだから、もう燃料の備蓄がほとんどないって話だ! このだだっ広い平原じゃ薪も手に入らない……。オマケに自慢の魔法部隊は、自分たちだけに温熱魔法を使うのが精一杯だとよ! ふざけんなよクソが! このクソ寒い中、薄っぺらい毛布ひとつで眠れるわけないだろうが!!」
いくらヒートアップしたところで、体の芯から凍る冷気は楽にならない。だが言わずにはいられないほど、彼の疲労とストレスは蓄積していた。
「も……もう……ダメだ…………」
文句を言っていた兵士の後ろを歩いていた兵が、どさりと音を立てて崩れ落ちる。比較的、年齢が高めの兵士だった。
「またか! これでもう何人目だよ!!」
強行軍の影響で倒れた兵士は、文句を言った兵士の周囲だけでも、両手両足の指では数えられないほど。倒れてしまったが最後、装備を剥がれて後方の支援班に送られる。その後がどうなるのかは、前方を歩く一兵士には知る由もなかった。
「どうして……こんなことに……」
先ほど倒れた兵士と同じくらい青い顔をした中年の兵士が、吐き出すように言った。
「参加して手柄を立てたら……報奨金がたくさん出るからと言われて……。おれはただ……妻の薬代が……欲しかっただけなのに……」
「おいあんた! しっかりしろ!」
声をかけても中年兵士の目は虚ろなままで、延々と独り言をつぶやき続けている。今回の作戦では、彼のような志願兵も少なくなかった。一攫千金に釣られ配置されるのは、そのほとんどが最前線の歩兵部隊。つまりはアキサタナにとっての、『使い捨て部隊』である。
「ちくしょう! 魔物ってのは人間よりも体力があるんだろう!? なのに何でいまだ魔王軍の影も形も見えねぇんだよ! 魔王領にはとっくに入っているってのに!」
いままで生きてきて、これほど魔物に恋い焦がれたことはない。兵士たちはその姿を今か今かと待ち望みながら、凍傷で痛む足を引きずりながら前へと進んだ。
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「よ、ようやく休める……!」
休憩の号令が本陣から伝えられ、歩兵たちは『もう動けぬ』とその場に座り込む。だがすぐに小隊長からの激が飛び、疲弊しきった体での天幕の設営が命じられるのだ。鉛のようになったのは、もう足だけの話ではない。ある者は怨嗟の声をつぶやき、ある者は血が滲むほど下唇を噛んだ。
「あんたはいいから、休んでろよ……」
若い兵士が、中年の兵士に声をかける。
足取りすら覚束ない中年の兵士では、天幕の設営に何時間かかるかも分からない。
「………………ありが……とう……」
か細く言った中年兵士は石の上に腰掛け、そのまま動かなくなった。若い兵士は一瞬ぎょっとしたが、よく見れば肩は上下している。若い兵士はホッと安堵の息を漏らした。
一方そのころ。
本陣の絢爛な天幕からは、アキサタナの怒声が絶え間なく漏れ出していた。
「食事? 燃料? そんなのボクの知ったことか! お前の話じゃもう魔王軍と会敵していて、ボクが完全な勝利を収めているハズだったよなぁ? なのに、いまだボクたちは手柄のひとつも立てちゃいない!! どういうことだ!! 連中は籠城に走ったのではないのか!?」
「せ、斥候はたしかに魔王軍がこちらへ向かっているのを見ています。なのでこの道を進めば、必ずや対峙するに違いありません」
「じゃあなぜだ!? なぜ奴らと顔を合わせない!? 報告に来た斥候はどうした! 奴が虚偽の報告をしている可能性がある! ボク自身が尋問するから、目の前に連れてこい!!」
アキサタナは怒りに任せ、ワイングラスを放り投げる。
グラスは副官の足元に叩きつけられ、小気味のいい音を立てて粉々になった。それを掃除するのは侍女の仕事だが、その手際は実に慣れたものだった。
「彼なら再び斥候に出しました。およそ三日ほど前のことです」
「勝手なことをするんじゃない無能が!! くそっ!! あれだけ大見得を切ったってのに!!」
副官はもちろん、アキサタナに報告を終えている。
しかし、頭に血が上ったアキサタナはそれをすっかりと忘れ、また罵声を浴びせるのだ。ただでさえ疲れているところに、毎日のように浴びせられる怒声と罵声。
副官の辟易とした夜は、今日も長く続くのだった。
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翌朝。
「起床起床起床ーー!!!!!!」
大声のあとに、激しい銅鑼の音。
それが爆音となり、就寝中の兵士の鼓膜を刺激する。
「………………うるせぇ……」
目覚めとしては、決して良いものではない。
むしろ最悪のレベルだった。疲労困憊の体は「もっと休ませろ」と言っているのに、従わなければならないのは自分自身ではなく、口も態度も悪い上官なのだから。
もそもそと自分の天幕から這い出た兵士たちは、やはりのろのろとした動きで天幕の片付けを開始する。それが上官の癇に障り怒声が飛ぶことも分かっていたが、動こうにも動けないのだから仕方がない。
「…………あれ?」
若い兵士は、ある違和感を覚えた。
天幕がひとつ、片付けられずに残っている。その天幕は昨日、顔の青い中年兵士に用意した天幕だ。
「また隊長にどやされるぞ……まったく……」
親切心から、若い兵士は手付かずの天幕へ近付くと、
「おーい! 起きろおっさん! もう起床の時刻だ…………ぜ?」
狭い入り口を潜りながら声をかけ、そして言葉を失った。
親切心で中を覗いたことを、若い兵士は数瞬の後に後悔する。
天幕に入って最初に感じたのは、異様な寒さ。
狭い中で数人も寝ていれば、必然的に中は多少の温もりに包まれる。……にも関わらず、天幕の中は外気温とほとんど変わらない、設営直後の温度とまったく同じだったのだ。
そんな気温の中で、人間が眠れるはずもない。
「う……うわぁぁぁぁぁ!!!!????」
叫び声を上げた若い兵士の足元には、中年兵士を含む三名の凍死体があった。どれも皆、自分が眠ったまま死ぬとは思わなかったのか、安らかな顔で冷たくなっている。
「な、なんで……どうして……!?」
尻餅をつきながら、若い兵士は無意識に周囲に視線を走らせた。
そしてそこで、天幕の中に差し込む小さな光の存在に気付く。よく見てみれば、天幕に小さくだが、はっきりと穴が開いてるのが分かった。
「この小さな穴のせいで…………凍死……?」
安い粗悪な素材で作られた、数人が限度の天幕。
アキサタナ軍が用意した、安物の天幕が招いた悲劇だった。
しかし、悲劇はそれだけでは終わらない。
「だ、だれか! 中で……死……死んで……!?」
転がるように天幕の外へ出た兵士は、誰かを呼ぼうとしたところで息を呑んだ。なぜなら彼が面を上げた僅か数メートル先に、大将――――アキサタナの姿があったからである。アキサタナが自分の足で表を歩くなど、ここしばらく見ていない光景だった。
「――――どうした?」
息を切らす兵士に、アキサタナが声をかける。
若い兵士はいまの状況が掴めないながらも、報告だけはしっかりと全うした。
「凍死だと? ふん」
アキサタナはそれだけを告げると、体を屈め天幕の中を覗き込む。
そして数秒後に元の姿勢に戻し、まるで感情の入っていない声で言った。
「燃料が三つ増えて良かったじゃないか」
若い兵士は、今度こそ完全に言葉を失った。
天幕の中身にも、若い兵士の様子にも興味をなくしたアキサタナは、
「斥候が戻ってきたそうだな! どこにいる!」
そんな言葉を吐きながら、その場をあとにする。
若い兵士はしばらく呆然と立っていたが、やがて糸の切れた人形のようにガクリと腰を落とした。そして棺桶と化した天幕をぼんやりと眺めながら、
「楽園を抜けた先には……地獄しかないのか……?」
誰にも聞こえない声で、小さく呟いた。




