第170話 「説得(脅迫)」
「族長」
大岩に背を預けていた狼人族のマルコは、静かな太い声に面をあげる。右の瞼をゆっくりと持ち上げれば、目の前には神妙な面持ちの側近がひとり立っていた。
「……どうした?」
マルコが鋭い目を崩さずに問いかけると、側近もまた厳かに口を開く。
「本陣から出頭要請です」
「……なに? 出頭要請とは穏やかではないな。……理由と刻限は?」
「一刻後までにとのことです。理由は不明」
「理由は恐らくネコマタ族の件だろう。さっきの人間と話してから、それほど経っていないのが気にかかるが……。まあいい、本陣へ向かう。お前もついてこい」
本陣に呼ばれる理由など想像がつかないが、現実に召集はかかっているのだ。マルコは複雑な表情で大岩から背を離すと、側近の脇を抜けて移動を開始した。するとその背中に、側近から「あと……」と声が投げかけられる。
「なんだ? まだ何かあるのか?」
「はい。向こうが提示した条件がもうひとつ……」
「条件?」
本陣へ向かうのに、いったい何の条件が必要だというのか?
疑問符を頭上に浮かべるマルコへ、無表情だった側近が少しの当惑を覗かせながら――――
「……腹を空かせて来るようにと」
とても言いにくそうな様子で言った。
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本陣では着々とイベントの準備が進められていた。
大きなテーブルには白いクロスが掛けられ、その上では調理器具と食材たちが、使用されるときを今か今かと待ち望んでいる。
「これはココで良いのかにゃー?」
「あ、その食器は向こうのテーブルにお願いします。こっちの卓は調理用なんで」
「りょーかいしたにゃー」
「イナホくん。食材はもっと必要かい?」
「いえ、もうこんなもんで良いと思います。大量に作って失敗しても嫌ですし」
手伝いを買って出たエイムと護衛のふたりにより、イベント会場の出来も上々。通り掛かった兵士たちは「なにが始まるんだ?」といった好奇の視線を向けてくるが、マルコへの配慮で参加人数はかなり制限されている。飲食用テーブルの周りに衝立が置かれていることからも、気の使いようが伺い知れた。
「あ」
準備もそこそこに整ったとき、本陣の中央を一陣の風が吹き抜ける。稲豊は最初ただの突風か何かが通り抜けたのかと思っていたが、閉じていた瞼を持ち上げれば、その認識が誤りであることが分かった。
風の正体は、マルコの跨る巨大な狼。
ライオンを一回りほど大きくした狼は、灰色の毛並みを揺らしながら雄大に佇んでいる。その上に跨るマルコも、絵になってもおかしくないほど勇ましい姿だった。
「む?」
「にゃ!」
マルコとエイムの視線がぶつかりあい、ふたりは自然と複雑な表情を浮かべる。屋外だというのにじっとりとした嫌な空気が流れ、ふたりはこの場を離れたいと思っているのに、不思議と体は言うことを聞いてくれなかった。
「族長、天幕はあちらに」
「……ああ」
そこへもう一匹の狼が駆けてきて、狼上の側近がマルコに声をかける。その声にマルコが反応することで、嫌な緊張の糸はプツンと途切れた。エイムはそそくさと場を離れると、忙しさを装いながら準備を再開させる。
あまりによそよそしい、かつての仲間とは思えない悲しい姿。稲豊にふたりの心の内までは分からなかったが、この状況がよろしくないことだけは直感的に理解できた。
「すみません! 呼んだのは俺ッス!」
天幕へ向かおうとしたマルコを、稲豊が呼び止める。
「…………なに?」
出鼻をくじかれたマルコは、眉をしかめて振り返った。
幹部に呼ばれるのならともかく、戦闘にも参加しない料理人の……それも人間に呼びつけられるのは気に入らない。
マルコは颯爽と狼の背から飛び降りると、
「このオレに足を運ばせるとは、よほど重要な用件のようだ」
さも面倒くさそうな様子で、じろりと稲豊を見下ろした。
琥珀色の瞳には隠しもしない『不快』がありありと浮かんでいる。稲豊はこの場を逃げ出したい衝動に駆られたが、それでは何の解決にもならない。震える体を気合いで抑えつけ、獣の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「え、ええ重要ですよ。言ってみれば、軍の一大事です! だって攻撃の要になる傭兵たちが、心をひとつにしてないんですから」
口に出したあとで、稲豊の脳裏に小さな後悔がよぎった。
しかし挑戦的な言葉は自分の喉を飛び出し、もう相手の耳に届いてしまっている。後に引ける状況は、数秒前に終了しているのだ。
「人間の分際で……言ってくれる」
そこまでハッキリ言われるとは、マルコも予想していなかった。
こめかみに青筋を走らせ、射殺さんばかりに稲豊を睨みつけている。
「たしかに俺は人間だけど、軍師から正式に依頼されてる。俺の言葉は、軍師ソフィアからの言葉だと受け取ってもらって結構です」
「……………………ふん」
「文句がないのなら、マルコさんにお願いしたいことがあります。俺の仕事を手伝ってください」
「……仕事?」
「はい。立って手を動かすだけの簡単なお仕事です」
そこで初めて、マルコは周囲の状況へと目を見やる。
大きなテーブルに、いくつもの調理器具。そして数種類の食材たち。料理文化に疎い狼人族でも、これから何が行われるか一目瞭然だった。
「今から調理を始めるんで、その助手をお願いします」
「料理の……助手だと!? ふざけるな! 狼人族の長であるこのオレに、女子供の真似事ができるか!!」
「良いですよ逃げても? まあそのときは、『狼人族の長は女子供でもできる仕事から尻尾を巻いて逃げ出した』って、あることないこと吹聴して回りますけどね」
「脅迫する気か!?」
狼人族が命よりも重きを置いているのが、誇りと名誉。
もしそんな噂が魔王国内で広まったら、彼らには耐え難いほどの屈辱である。例え自分たちが「事実ではない」と訴えたところで、噂の出処は総大将の専属コックなのだ。国民がどちらを信じるかは、火を見るよりも明らかだった。
「狼人族に脅しなど効かん……!」
しかし脅しに屈することもまた、彼らの誇りが許さない。
どうせ後ろ指を指されるなら、戦って指されることをマルコは望んだ。長いものに巻かれないことが、狼人族の美徳でもあったからだ。
「脅しがダメなら純粋にお願いをします。戦闘ができない俺にとっては、この厨房こそが戦に参加できる唯一の場所です。俺にはこういうことでしか、皆に貢献できないんですよ。だからお願いします! エイムさんだって、内心は複雑な気持ちでいっぱいだったと思います。でも勇気を出して参加してくれました。気まずさから逃げずに、戦う選択をしてくれたんです!」
「……………………」
稲豊の必死の説得は、頑固な狼人族の心をわずかに融解させる。
それは小さな小さな変化に違いなかったが、マルコの視線を動かすだけの力を持っていた。彼が視線を向けたさきには、準備を進めるエイムの姿。その献身的な姿は、在りし日の同棲時代をマルコに思い出させる。
掘り返された過去の記憶は、大きな波となってマルコの心を揺れ動かした。
「………………むぅ……」
何が勇敢で、何が臆病なのか?
どうすれば誇りを保てるのか?
誇りと心情の板挟み。マルコはここ最近、これほど難しい選択を迫られることはなかった。脳をフル稼働させても、答えが出る気配さえない。
そんな八方塞がりにも近い状況を見かねたように、ひとつの足音がマルコに近付いた。
「まあまあ、マルコ殿。ここは私めの顔に免じて、この余興に興じていただく訳にはまいりませんかな?」
「……! 大将殿か」
「ええ、アドバーンです!」
マルコが視線を走らせたさきには、ピンと背筋を伸ばしたアドバーンの姿があった。神出鬼没な老紳士は流麗に頭を下げると、いつもそうするように自慢の髭へと手を伸ばす。
「この余興は元魔王軍と傭兵たちとの友好の儀式。謂わば『傭兵』という壁を取り去り、互いに心をひとつにしようという誓いの場でもあるのです。この配慮を蔑ろにすることは、私めからもお薦めはできませんな」
口調こそいつもの温和な調子だが、発せられる言葉に籠もった凄みはまったく違う。体を覆う覇気も、常人なら体を凄ませるほどの威圧感を漂わせている。マルコは有無を言わせない覇気を浴びせられながら、それでも勇敢に口を開いた。
「もし……儀式に参加しなかったら?」
「そのときは『腰抜け狼が裸で逃げ出した』と、あることないこと吹聴します」
「あなたもそれか!?」
ニヤニヤと笑うアドバーンと稲豊を見て、マルコは再び青筋を浮かばせる。しかしなぜだか、先刻までの不快な気持ちは湧き上がってはこなかった。代わりに湧いてきたのは、怒りとも焦りともつかない複雑な感情。ここで退くことを癪とする、一矢報いたいという気持ちだ。
「……チッ! たかが飯事! 逃げ出す必要などあるものか!! さあ人間! 何をすれば良い!!」
半ばヤケクソ気味に、マルコは調理器具が置かれたテーブルの前に立つ。籠に入った食材を睨みつける様子など、まるで臨戦態勢そのものである。
結果的にマルコは協力を了承してくれた。
しかしこれは最初の一歩に過ぎない。ここからどうするかが、稲豊の腕の見せどころだ。
「それじゃあまず、芋を洗ってもらっても良いですか?」
気合いを入れ直した稲豊は、マルコに芋を手渡しながら言った。




