第154話 「誰のために」
「魔王が……異世界へ転生?」
再び魔法陣へ目をやった稲豊の表情は、驚きに溢れていた。
なぜ魔王ともあろうものが、異世界へ転生する必要があるのか?
転生したのなら、いま魔王はどこにいるのか?
もうこの世界へ戻るつもりはないのか?
たくさんの疑問が、浮かんでは浮かんでは消えていった。
「この魔方陣には起動された形跡がある。そして、こんな複雑な魔法陣を使いこなせるのは、父上をおいて他にはおらん。……父上が何を考えておったのか分からぬが、これが真実じゃ」
「つ、連れ戻したりはできないんですか?」
「色々と試してはみたが、どれも失敗に終わった。結局のところ、転生先の座標が分からない以上、捜しに行くことも呼び戻すことも不可能なのじゃ」
ルートミリアは、『忌々しい』とでも言いたげな様子で、魔法陣を睨みつける。
だがそうしたところで、魔法陣が王の行方を語ることはなかった。
「八方塞がりってわけですね……。ちょっと聞きたいんですけど、複合魔法陣ってなんスか?」
「魔法というのは基本的に、ひとりの者が同時に別種の魔法を使うことはできん。しかし、魔法陣という形で象徴化してしまえば話は別じゃ。この複合魔法陣を用いれば、一度に複数の魔法が使えるというわけじゃな。無論、魔法自体の難度は恐ろしく跳ね上がるゆえ、使い手を選ぶのには違いないがの」
「なるほど。じゃあ、なんで『転移』やら『時空』やら、別の魔法が描かれてるんですか? 転生だけじゃダメなんスか?」
「普通の転生魔法なら、宿主を連れてくれば問題なく発動できる。しかし、転生先が異世界となれば話は別。別途、魂を送る手段が必要になってくるのじゃ。それが転移魔法というわけじゃな。時空魔法に関しては、たしかなことは判っていない」
久し振りになる、ルートミリアの魔法の授業。
だが魔法の師匠である彼女ですら、分からないことも多く存在した。
そして分からないと言えば、稲豊にもひとつ、疑問に感じていたことがあった。
「…………なんでルト様は、俺に魔法陣を見せようと思ったんですか? だってこんな神聖な場所、いち料理人である俺が入っていい場所じゃないですよね?」
稲豊が訊ねると、ルートミリアの表情は一段と険しくなった。
緋色の瞳にいたっては、なにひとつ感情が浮かんではいない。
彼女の態度が何を意味するのか?
いまの稲豊には、まだ分かってはいなかった。
「いままでの情報に真実を踏まえ、妾はある仮説をたてた。荒唐無稽な話になるかもしれんが、口を挟まず聞くと――――約束してくれるか?」
「………………分かりました」
なぜかざわつく胸を押さえつけ、稲豊は首を縦にふった。
雰囲気や建前などとは関係なしに、そうしなければ、いけないような気がしたからだ。
申し出を受け入れられたにも関わらず、ルートミリアは深い息を吐く。
ため息と一緒に葛藤と不安を捨て去り、彼女はゆっくりと面を上げた。
「父上は、長きにわたるエデンとの戦いで疲弊しきっていた。膨大にあった魔素も少量になり、犠牲を払った五行結界も不発に終わる。きっとひとりで悩んだことじゃろう。自分と同等に頼れる者など、どこにも存在しないのだから」
当時の魔王を想像し、ルートミリアは悲しげに語る。
しかし、本題はここからだ。
「そこで父上は『最後の手段』に打って出た。それは“過去の異世界”へと転生し、魔素を蓄えたのち、再び戻る――という無謀とも取れる方法だったのだ。転生魔法で肉体を魂へと昇華させ、転移魔法と時空魔法を使って、魂を過去の異世界へと送り込む。普通では考えられん行動だが、あの父上なら不思議となっとくできる」
「過去の……異世界……」
そうつぶやいた稲豊の顔色は、みるみるうちに悪くなっていった。
胸は加速度的に鼓動が早くなり、頭の奥から痛みが響く。
『この先を聞いてはいけない』
稲豊は、まるで心臓と脳が、話を拒絶しているような気さえ感じた。
「目論見は成功し、とある異世界へと流れ着く。そこは食材も調味料も潤沢にあり、どれも味が素晴らしかった。父上は英気を養うと同時に、魔素を蓄えていく。しかしそのとき、予期しないアクシデントが発生する。何かしらの重大な問題が起こり、この世界へ戻れなくなってしまったのだ」
「戻れ……なく?」
「何があったのかは分からぬが、父上は焦りに焦ったはずじゃ。このままでは、魔王国がエデンに落とされるのは必定。そこで父上は、また打開の方法を考えた。思いついたのは、“自分の代わり”になる者を送り込むこと。願わくばそれは、自らの能力を受け継いだ、とっておきの者が相応しかった」
ルートミリアの仮説は、現実味に溢れていた。
話はもう後半。喉元に刃を突きつけられたような感覚に怯えながら、稲豊はそれでも口を挟みはしなかった。
――――というより、激しくなる頭痛のせいで、挟むことができなかったのだ。
「やがて父上はある女性と契りを交わし、魔能を受け継いだ子供が産まれた。そして子が成長する頃合いをみて、異世界へと我が息子を送り込んだのだ。正確には送り込んだというより、アドバーンにでも召喚してもらったのだろう。父上が座標をあやつに託していたのなら、不可能なことではない」
もういい。
もう聞きたくない。
稲豊の心がはっきりと悲鳴を上げるが、体はぴくりとも動かない。
ただ棒立ちになり、必死に思考を拒否していた。
「だが、アドバーンの慣れていない召喚魔法の影響により、子は王都より少し離れた場所へ召喚されてしまう。しかしそこは父上も想定していたのだろう、特別に美味い調味料を息子へと渡していたのだ。いくら場所がずれるといっても、魔王領を出るほどでもない。魔神の魔能と調味料があれば、必ず誰かの目に止まる。そして最終的には、魔王候補の目にも触れるはずだ。父上はそう考えた」
酷くなる頭痛のなかで、稲豊の頭に浮かんだのは、いつもの父の顔だった。
少し変わってはいるが、どこにでもいるような普通の父親。
そんな父親像が、頭のなかで音を立てて壊れていく。
「どこか魔王の面影があったのかもしれない。結果、息子は王女らの目に止まった。そして、彼は持ち前の機転と魔能の力を使い、今日まで目覚ましい活躍を上げてきた。自らの正体に、気付かぬまま…………な」
長く重たいルートミリアの話が終わった。
しかし稲豊は言葉を発することさえできず、驚きと悲しみが入り混じったなんとも言えない表情で、ただルートミリアを見つめることしかできない。
「…………シモン」
全てを語ったルートミリアも、胸中は穏やかとはいえなかった。
稲豊に負けず劣らず、その胸は強い痛みに苛まれている。
本当なら語りたくはなかった。
だが稲豊のことを想えばこそ、隠し通すという選択肢は選べなかったのだ。
「これはただの仮説じゃ。しかし、その可能性は低くないと妾は考えておる。つまり……妾とシモンは……」
「それ以上は口にしないでください」
なんとか絞り出した言葉は、現実を拒絶するひとことだった。
頭では理解しても、心がぐちゃぐちゃで追いつかない。
『何か言わないと』
心のどこかでそう思っても、口からは乾いた息しか出てこない。
やがて沈黙に耐えられなくなったルートミリアが、音もなく竜の首を引いた。
再び現れた横壁により、姿を消していく隠し部屋。
そして完全に部屋が見えなくなったころ、
「……シモン。お前は妾にとって、いつも最高の結果を残してくれた。お前以上の『相棒』はおらん。だからこそ、夜の逢瀬は……今宵限りとしよう。それがきっと、お互いのためだ……」
ルートミリアはそう言い残して、静かに部屋を去っていった。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::
真実を告げられてから、短くない時が流れた。
時間の感覚を失っていた稲豊は、やがて重い足取りで魔王の部屋をあとにする。
覚束ない足取りで自室を目指す途中、不安げな表情のミアキスが心配の声をかけるが、稲豊は「ひとりにしてください」とだけ告げて、自室へと戻っていった。
部屋へ戻るなりベッドへ倒れ込み、生気の失った瞳を天井へと向ける。
暗く静寂な部屋のなかで、稲豊の脳裏をよぎるのは、この異世界へ来る前の父の姿だ。
『――そんじゃあ行って来い、頑張れ』
異世界へ召喚される前にかけられた言葉が、何度も頭のなかを反復する。
「…………あの言葉は……全てを見越しての言葉だったのか? 俺が……どういう目に合うのか分かってて、俺をこの世界へ飛ばしたのか?」
遠く地球にいる父に話しかけるが、答えが返ってくることはない。
ぼんやりとした視線を棚へ向ければ、ガラスの小瓶が視界に飛び込んできた。
最後の味噌を入れていた、御守り代わりの小瓶だ。
「親父……俺、頑張ったよ?」
ぽつり呟くと、目頭がふいに熱くなる。
「最初は……ただ帰りたいっていう一心で、自分のために頑張った。毎日のように地球の夢を見ながら、それでも頑張るしかなかったから――頑張った」
溢れそうになる涙を堪えながら、稲豊は父に話し続けた。
「次は……仲間のために頑張った。俺を助けてくれた、恩人のために頑張った。死ぬほど痛くて、死ぬほど辛かったけど、仲間のために頑張ったんだ」
苦しくなる心臓を、枕を使って押さえつける。
それでも針が刺すような痛みが、稲豊の胸を苛み続けた。
「でも……途中から変わったんだ。帰りたいっていう思いよりも……いまの俺は……多分きっと……」
体を限界まで縮こませた稲豊は、
「ルト様の笑顔が見たくて…………頑張ってたんだ!!」
もう涙を堪らえようとはしなかった。




