第13話 「毎日食わせろ!byじいさん」
この世界の食べ物が不味かったから、皆が干し肉を物欲しそうに眺めたのだ。味噌を溶かしただけの、料理とも呼べない料理が劇的に魔素を回復させたのだ。舌の肥えていないこの世界の住人には、特別美味に感じられたのだろう。
この世界の食べ物が不味かったから、稲豊でも作ることの出来る、『そぼろ味噌大根』がルトの琴線に触れたのだ。元いた世界で、アレが作れたぐらいで料理長に任命される事などまず有り得ない。
朝食の件だってそうだ。
絶賛された朝食も、稲豊はアドバーンとミアキスが気を遣い大袈裟に言ったモノだとばかり思っていた。しかし現実は違った。この世界の料理に比べると、あんな拙い料理でも遥かにマシだったのである。
この世界の食材は今まで確認してきたその全てが、一つも漏らさず酷い味だ。肉は酷く生臭く、野菜は舌が痺れる程苦い。調味料は舌がおかしくなりそうな程甘い物だったり、逆に辛かったりする。桃に似た緑の果実に至っては、スポンジの様な食感にセロリの青臭さを三倍強くした様な味が口全体に広がった。
それが高級食材となると少しだけ味は向上する。
しかしそれも-8が-6に変わった程度だ。
更にそれが飲食店では少し上がり、-4ぐらいになる。
この国の食文化の遅れも原因があると言えるだろう。
高級店でも、凝った風に見えるのは形だけ。基本的にはただ焼いた、茹でた食材を混ぜ合わせ出しているだけに過ぎない。
だがそんなどうしようも無い食材達でも、非人街の人達にとっては比較的味の良い物に変わるのだ。だとしたら、捨てるなんて選択肢はそもそも有り得ない。
屋敷に帰って来た後でも、稲豊は一人、厨房で頭を抱える。
「どうすりゃ……いい?」
自分に問いかけても答えが出ない。見つからない。
現在の時刻は午後二時。タイムリミットは夕食までの五時間である。
「なんで俺はハードルを上げた」
「記念日だ」と保険をかけたとは言え、味噌汁以上の物を期待されていないという保証はない。しかもルトに至っては、元の世界で稲豊が作れる限界の料理を既に食べている。
「今手に入る食材でアレ以上なんて死んでも作れねぇ…………ん?」
「死?」と、その口が意図せず開く。
稲豊は気付く。気付いてしまった。今頃に、今更に。恐るべき真実に辿り着いたのだ。
「このまま美味い物が作れなかったら? 俺は――――どうなる?」
この世界の住人なら魔素を活性化させる食事でも。
稲豊にとっては“そうではない”という事だ。
舌の未熟なこの世界の住人ならある程度美味しいと感じる食材でも、元の世界で舌の肥えた稲豊には美味しく感じられないのである。つまり、稲豊は“魔素を増やせない”。
生きているだけで魔素は消費される。
味噌を使えばある程度は持つだろう、だが近い将来……、味噌が尽きた暁には。
「――――し、死ぬのか?」
あまりの絶望的な真実に、頭が痛みを伴う悲鳴を上げて、視界は酷く揺れる。
今思えば、非人街で過ごした時に感じた倦怠感。それも魔素不足によって引き起こされたものだろう。タルトから貰った芋もどきも、体力を回復させるどころか減退させていたのだから救えない。その残酷な真実は墓まで持って行く事を決意する。
「…………はぁ」
最早ため息しか出ない。訳の分からない世界に飛ばされて、訳の分からない食糧事情で死ぬ。普段ポジティブな稲豊でも、さすがに許容範囲外だった。右手で目元を覆い、絶望を噛みしめていた稲豊であったが、覇気を孕んだ声に現実に引き戻される。
「どうした? 悩み事かえ?」
「ル、ルト様!?」
厨房のドアにもたれ掛かる、屋敷の主人の姿がそこにはあった。
ベビーブルーのパジャマ姿で頭にはナイトキャップ。右手には豹に似た生物のぬいぐるみを抱いている。稲豊はすかさずツッコミを入れた。
「用事って寝坊!?」
「なんじゃ。ナナの奴はバラしてしまいおったのか」
「見れば分かりますぅ!!」
まだ寝足りないように、欠伸をしながら厨房のテーブルに腰を掛けるルト。
何をするのか? と稲豊が一挙手一投足を窺っていると、彼女は信じられない一言を放った。
「朝食はまだかのぅ?」
「おじいさん。昨日食べたじゃないですか? じゃなくて! 朝、いえ昼飯食べに来たんですか?」
「うむ。妾は基本的に昼と夜に食事をとっておる。覚えておくといい」
物凄く自堕落した生活に稲豊は少し呆れるが、他ならぬ雇い主の命令。
従わない手は初めからない。と言っても、彼に用意できるのは朝食と同じメニューだ。味噌汁を温め直している間に、フライパンを熱して少量のオリーブオイルを馴染ませる。そして斑の卵をフライパンに投入し、蓋をする。その少し出来た時間を利用し、サラダを用意し塩を振る。
少年の調理姿をずっと目で追うルートミリア。
人前で作る料理に慣れていない稲豊は、背中に視線を感じ続けている所為で、緊張の汗をかいた。「どうぞ」と、眼前に並べられた皿と器をを十秒ほど眺めた後で、ルトはそれを黙々と口に運ぶ。
彼女の表情からは、何も読み取る事が出来ない。
その間、稲豊の胸中を覆うのは焦り以外の何モノでも無かった。
心中を覗いてみると、不安の暴風に襲われている真っ只中である。
これ以上ハードルが上がるのはもう嫌だ、言わなければならない。辛い。言わなければ。言いたくない。言わなければ、「期待されている物は作れない」と。追い出される。今言わなければ。言わなければ、言わ……。
暴風が吹き荒れるその脳内に、一つの希望が手を差し伸べる。
稲豊は思い出す。全てを魔法の様に解決する、正に魔法そのものがこの世界にはあったじゃないか! と。そう、『転生魔法』と『空間魔法』。そのどちらかをルトが習得していれば、元の世界に戻る事が出来る。稲豊は弾む声を抑えきれずにルトに尋ねる。
「ルト様は転生魔法か空間魔法は使えるんですか?」
直球勝負に出たその言葉は確かにルトに届いたはずだが、当の本人は素知らぬ顔だ。
少し時間を掛けてナイフとフォークを置き、稲豊を横目で見ながら、子供が悪戯をする時の様な笑みを浮かべる。そして稲豊が待ちに待ったその口を開く。
「勿論」
左手で頬杖をつき、足を組んだルトは優美に答える。
まるで稲豊の行動を予想していたかのような余裕ぶりだ。
確かな希望を視界に捉えた稲豊は、差し伸べられた希望に手を伸ばす。
「そ、それじゃあ!」
しかしその手は。
「俺を!」
「無理じゃな」
無残に振り払われる。
「え?」
一瞬何を言われたのか理解出来ない稲豊。恐らくそれは、無慈悲な言葉を脳が拒否したのだろう。それを知ってか知らずかルトは言葉を続ける。
「無理じゃと言うておる。どちらの魔法もな」
「な、何でですか! もしかして、魔素を大量に消費するから……ですか? だったら!」
だったら……手持ちの味噌を全部譲っても良い。いや、持ち物全てを譲っても良い。そう言葉を続けようとした稲豊だったが、人差し指を美しく揺らすルトに遮られる。
「そういう問題では無いのじゃ。もっと根幹的な部分で無理じゃと言うておる」
言葉が詰まる稲豊。魔法について疎い彼にはルトが何を言っているのか理解出来ない。
眉をへの字にして固まっている稲豊にでも分かるように、ルトは一から教授する。
「転生魔法と言うのは、別の世界で新たな生命として生まれ変わるといった魔法じゃ。それは貴様の望むところではあるまい?」
「あ」
そう、つまりは別の両親の元で、新たな人生を始めるとうい事だ。
それでは元の世界の稲豊という人間は死んだも同然。それじゃ意味が無い。
「次に空間魔法、確かにコレを使えば異世界の空間に飛び込む事が出来る。勿論今の自分のままでのぅ。じゃがそれも、その世界の『座標』を知っておったら――の話じゃ」
「……座標?」
「つまりは指標じゃ。その世界で生きて、物心つく頃には座標と言うのは自然に刻まれるものじゃ。じゃから貴様は元いた世界の座標を無意識に知っているじゃろう。貴様が空間魔法を用いれば、訳もなく帰る事は出来るじゃろうの。しかし、妾は違う」
そこまで聞けば稲豊にも理解は出来た。
「妾は貴様の世界の座標を知らぬ。今空間魔法で貴様を飛ばせば……、それは全く違う世界じゃろう。そこがここより良い環境とは限らんぞ? もしかしたら、会話も通じぬ虫だらけの世界に当たるやもしれん」
それはゾッとしない……。
奥歯を噛みしめる稲豊。
次が稲豊にとっての可能性のある最後の質問だ。
「じゃあ……俺が、空間魔法を使える可能性は……ありますか?」
冷や汗を流しながら、喉を絞るように言葉を吐き出す。
最後の可能性。それが無理だった場合稲豊は……。
「残念ながら無理じゃな。空間魔法には膨大な魔素を消費する。只の人間である貴様には、発動する事すら叶わん」
「そう……すか」
全ての可能性は潰えた。
地獄に叩き落とされた稲豊に、いつの間に食べたのだろう。食器を持ったルトが近づき、それをシンクに並べる。そして、俯く稲豊に慰めの言葉を掛ける。
「そこまで気を落とすな。いずれ妾が戻る方法を見つけてやろう。貴様を召喚した者もこの世界に必ずいるのじゃ。諦めるにはまだ早いぞ?」
「ありがとう……ございます」
いずれとはいつか? タイムリミットが刻一刻と迫っている自分に、いずれなんて悠長なものは要らない。召喚した奴を見つけるのも簡単なことでは無いだろう、恐らくそれは間に合わない。ルトの言葉も、今の稲豊には気休めにしか聞こえない。
ルトは悪くない。むしろ親切だ。
だが今の稲豊には怒りのぶつけどころが欲しかった。だから内から聞こえる良心の声に耳を塞ぎ、恨み妬んだ。
お前には分からないだろう……、真綿で首をじわじわと絞められる俺の気持ちが。
身体が弱っていくのを自覚しながら、何も出来ず只死を待つだけの俺の苦しみが。
両親に死に顔すら見せることが出来ず、見知らぬ世界で無様に死ぬ俺の悔しさが。
稲豊は半ばヤケになり、先程伝える事が出来なかった言葉を感情のままに送り出す。
「ルト様……申し訳ございません。俺は、もう美味い料理を作れません」
眉がぴくりと動くルト。
その美しい顔が哀れみの表情から不満へと変わる。
「……どういう事じゃ。理由を申せ」
「実は……貴方が食べたそぼろ味噌大根も、つい今しがた食べた料理も、俺の世界のありふれた食材や調味料を使っているんです。だからそれが無くなれば……、この世界ではルト様が満足出来る料理を作れません。俺は元々、料理が得意な方ではないんです」
あれほど言い難かった言葉が次々に飛び出す。
だがいつかは言わないとイケナイこと。少年は「これで良かったんだ」と自分に言って聞かせた。
俯き何かを思案するルートミリア。
彼女はやがて面を上げ、口を開いた。
「話は理解した……が、少々気になる事がある」
「何ですか?」
少年の予想とは違う反応を見せる屋敷の主。
即刻屋敷を追い出される覚悟も決めていただけに、稲豊は少し毒気を抜かれる。
「今のセリフ。まるで貴様の世界には、美味い食い物が溢れんばかり。妾にはそう聞こえたのだが――の?」
緋色の魔眼に撃ち抜かれ、身体を一瞬で硬直させる稲豊。
ついさっきまでの彼女とは纏っている雰囲気がまるで違う。
有無を言わさぬ迫力がある。先程までの醜い感情も、あっという間に王者のオーラに支配された。稲豊は、ゴクリと唾を飲み込み。答える。
「は、はい。俺が育った世界には、俺が作った物より美味い物なんていくらでもあります。俺の父の方がよっぽど料理が上手いぐらいで」
「ほぅ? ではそれを食って育った貴様は、例えるなら質の良い餌だけで育った豚――というわけじゃな?」
まるで獲物を追い詰めた狼だ。
その瞳を見るだけで、少年の背筋には冷たいものが走った。
「味の英才教育を受けている。という認識でかまわんかの? 美味いものを食って育ったなら、それを嗅ぎ分ける力も優れていて当然じゃな?」
独自の理屈を繰り出す王女に、圧倒される稲豊。その返事も待たずにルトは二人のやり取りに結論を付ける。
「――二日じゃ。二日やる。その間にこの世界にあるものだけで貴様の可能性を示せ。でなければ……分かっておるな?」
白い人差し指が稲豊の額にゆっくりと触れると、その指先が淡く光った。
その光は、ターブを撃ち抜いたあの光と良く似ている。
今ココで虚無魔法を撃たれたならば、即死は免れないだろう。
稲豊は思う。『殺すつもりだ』
短い付き合いだが良く分かる、ルトは殺ると口に出したら殺るだろう。
稲豊の脚が笑いだす。
見えないオーラに心臓を掴まれた稲豊は、何も言葉を発する事が出来ない。
そんな震える矮小を置き去りにして、獣はその場を去った。
どうにでもなれとヤケになった稲豊だったが、今は鼓動が活動している事が、ただただ嬉しかった。