第142話 「最後の最後の手段!」
どれくらいの時間が過ぎたのか曖昧になった頃、長い沈黙を破ったのはマリアンヌの方からだった。
「二年前……。私は魔王国の東、惑乱の森へと足を運んだの。あそこには魔脈が満ちていて、五行結界に使う“地の魔神石”の設置場所に適していた。だから私の母は森奥の洞窟に結界を張り、魔法陣の中で発動の時を待っていたの」
「地の魔神石?」
「お父様が時間をかけて精製した巨大な魔石のことよ。地の魔石を組み合わせて作ったから地の魔神石。五行結界の発動には、地・水・風・火・雷の五つの魔神石が必要不可欠なの。五名の妻は魔法陣の中に魔神石と入り、発動の瞬間に魂を捧げる。それで五行結界は発動するはず……だった」
暗く沈むマリアンヌの表情。
憂いを帯びた彼女の横顔に、なんて言葉をかければ正解なのか? 稲豊はかける言葉を見つけられず、結局は沈黙を選択した。
「惑乱の森に向かったのは、どうしても母の最期を見届けたくなったから……。それで言い付けを破り、猪車と兵士を待たせて森奥の洞窟へ走った。でも、そこで私が見たのは……」
マリアンヌはそこまで言って言葉を詰まらせる。
良く見なくても分かるぐらい両肩を震わせ、眉を顰め口唇を噛んでいた。そんな彼女に稲豊ができることは、強く握った右拳に手を添えるぐらい。マリアンヌは「ありがと」とはにかんで稲豊の手を握り返すと、ゆっくりと顔を上げた。
「洞窟の入口で事切れた護衛の兵士と、砕け散った地の魔神石。そして…………母の亡骸の前に立つ、叔父の姿だった。叔父――――いやキルフォは、母に結界を解かせ地の魔神石を砕いただけに飽き足らず、母の命まで奪って去っていった」
音が鳴るほど奥歯を噛みしめるマリアンヌの顔には、憎しみの感情がありありと浮かんでいた。握る稲豊の左手も痛いくらいである。
「そのあと国境の兵士が、エデン兵の中にキルフォの姿を見たそうよ。亡命の手土産として、五行結界の完成を阻止したんでしょうね」
「……ひでぇな」
「母が死んで少ししてからお父様が現れたのだけれど、全部がもう手遅れだった。お父様は仕方なく四つの魔神石で結界を発動したのだけれど、四行ではやはり不完全。結界の力はどんどん弱まり、魔素を供給するお父様がいなくなったことで、ほとんど効力を発揮しなくなった……ってわけ。後に残ったのは砕けた魔神石と、裏切り者を排出したルヴィアース家への誹謗中傷だけだった。おしまい」
全てを語ったマリアンヌは、話が終わったことに安堵の吐息を漏らした。
思い出すだけで胸を抉られる凄惨な物語。それは彼女の心に、死ぬまで消えない傷跡を残した。
再び訪れる長い沈黙。
次に沈黙を破ったのは、稲豊の方からだった。
「……悪かったな。俺の軽い気持ちで、めちゃくちゃ嫌なこと思い出させて」
「気にしなくてええねん。ハニーに知ってもらえて、心が軽くなったのも事実やから。むしろウチは嬉しいくらい!」
ピョンと狭間を降りたマリアンヌは、華麗にターンし朗らかな笑顔を覗かせた。稲豊はその気丈な姿に呆気にとられ、長い鼻息を出してから、
「強いなマリーは。なんか、くよくよ悩んでる自分がバカらしくなってきた」
「それでええねん。いつ死んでもおかしくないこの世界、アホんなって楽しんだもんの勝ちやで? それは料理にだって、同じことが言えるんやない?」
「料理にも?」
稲豊の質問に、マリアンヌは大きな頷きを見せる。
そして得意げに豊満な胸を張り、
「ハニーは現在、心の底から楽しく料理をやっとる? ウチが非人街で見たハニーは、ほんまに楽しそうに料理を作っとったで?」
「ああ、レクリエーションの時か? そういやバーベキュー大会とかやったっけ。確かにあれは楽しかったなぁ。作る端から無くなってって、自分が食べてる訳でもないのに嬉しかった。覗いてたんならお前も参加すれば良かったのに」
「ええのええの。ウチが参加したら皆が素直に楽しめんやろ? ウチは笑っとるハニーとタルトちゃんが見れただけで十分なんよ」
「謙虚だなんてらしくねぇな。……んでもそうだな、やっぱり楽しんでやる…………の……が?」
稲豊の頭に、何かが引っ掛かる。
ぼやけていた“ソレ”は少しずつ輪郭を形作り、やがてひとつの“アイデア”となって、稲豊の脳内で大きく跳躍した。
「それだっ!!!!」
ついに降りてきた起死回生の一手。
閃いた瞬間、稲豊は叫びにも近い大きな声を上げる。
「お前の言う通りだよ……俺は“楽しむ”って事を忘れていた! 食べ物ってのは、美味いだけが全てじゃないよな!?」
「な、なんやよう分からんけど……。ハニー元気になったみたいやね」
「お前のお陰でな! 俺の……俺にしか出来ない物がようやく分かったんだ。おっと、こうしちゃいられねぇ! すぐにでも準備を始めないと!!」
早口で捲し立てた稲豊は、「こうしちゃいられない」と見晴台の扉を目指す。
その足取りは見晴台に来た当初とは違い、風のように軽やかなものだった。
「恩に着る!」
「ちょ、ちょっと待って! 今から準備て……ハニーはどんな料理を作るつもりなん?」
扉を開いた稲豊へ投げかけられた質問。
稲豊は得意満面な笑みをマリアンヌに披露し、
「俺は今回――――――“料理を作らない”!!」
そう宣言したのち、見晴台をあとにする。
ひとり残されたマリアンヌは、あんぐりと口を開けたまま、しばらくその場を動くことができなかった。
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「ネロ!! いるか!!」
「なんだ藪から棒に……。料理番の僕がここにいるのは当然じゃないか……」
声を弾ませ厨房にやってきた稲豊とは対照的に、ネロの声は低くて暗い。
それは料覧会の成功者とはとても思えない様子だった。
「どした? 元気ねぇな?」
「……そこの樽を見れば分かるさ」
「樽?」
ネロに言われ、調理台の横に視線を移す稲豊。
そこには無惨にも捨てられた料理の山があった。
口の広い樽にも収まりきらないその食材たちは、今夜のメニューに他ならない。
「ひっでぇなコレは……。でもどうしてだ? お前の作った料理、軒並み評判は良かったじゃねぇか? チラッと覗いた感じじゃ、みんな『美味い美味い』って食ってたぞ?」
「最初はな。魔物ってのはその体型と同様に、それぞれ胃袋の容量がかなり違う。だから食うやつは食うが、食わないやつはほとんど食わない。にも関わらず、他の者と少しでも量が違えば騒ぎ立てる。まったく……貴族というのは面倒な連中だよ。注文もいちいち多いしな」
「……ほう? それはますます都合が良い」
不敵に笑った稲豊を見て、ネロは怪訝な表情へと変わった。
貴族の厄介さを説いているのに、なんだこの男は――といった疑問が、ありありと浮かんでいる。
しかし稲豊は意に介さず、まっすぐな瞳でネロを見上げた。
「なあネロ。お前そんな貴族達に――――“リベンジ”したくないか?」
「ハァ?」
「今回の……そして前回の料覧会のリベンジだ! 俺と一緒に、貴族の連中に一泡吹かせようぜ!」
親指を立てキラリと歯を光らせる稲豊だが、ネロの表情は困惑気味。
それもそのはず。出番の終わった者が、どうやって貴族らに一泡吹かせられるというのか? ネロは頭上を疑問符でいっぱいにした。
そんな青年を差し置いて、稲豊は自室から持って来たメモ用紙を机の上に並べる。十数枚にものぼる手の平サイズの用紙には、様々な料理のイラストと説明文が書かれていた。
「なんだコレは? 見たところ何かの料理みたいだが……」
「今回の料覧会で俺が“振る舞いたい”メニューたちだよ。俺の国では結構メジャーな料理なんだぜ?」
「なるほど、異世界の料理か。どうりで初見の物ばかり――って、こんなにも用意を? いくらなんでも種類が多すぎる。三つぐらいに絞ったらどうだ?」
「ダメだ! 種類が多くなきゃ意味がねぇ! しかしそれ以上に、料理が作れなきゃもっと意味がない。……そこでお前に頼みがある」
先刻までと違い真剣な表情を浮かべる稲豊。
それは彼の頼みが、冗談の類ではないことを物語っている。
そして床に膝をつく姿も、真摯な態度のひとつだった。
「この料理を再現する方法を教えてくれ! 俺には無理だったこの料理たちも、お前にならある程度までの再現が可能なはずだ! 『完璧に作れ』なんて言わねぇから、ちょっとだけお前の才能を俺に貸してくれ!!」
音が鳴るほど、稲豊は床に額を叩きつけ懇願する。
一度断られたにも関わらず、再び協力を願い出た稲豊を見て、ネロもまた真剣な表情へと変わった。
だがネロとて『はいそうですか』と簡単に承諾する訳にもいかない。
「…………言ったはずだ。主人に不利になることは」
「その点なら心配無用! クリステラとアリステラからはちゃんと許可を貰ってきた。お前さえ首を縦に振れば、何ひとつ問題はねぇ!」
「クリステラ様達が?」
「ふたりからの伝言。『お姉さまに笑顔を』――――だそうだ。あいつらはあいつらなりに、元気を無くした姉を心配してるんだよ。お前はどうなんだ? ネロ」
稲豊に訊ねられ、顔を伏せるネロ。
その胸中をざわつかせるのは、ルートミリアへの淡い想い。
主の許可も下り、やりがいもある挑戦も見つけた彼は、やがてゆっくりと面を上げて――――
「…………ひとつ撤回しろ。やるからには“ある程度”なんて妥協は許さない。やるからには、徹底的にまで再現度を上げる」
「そ、それじゃ!?」
眩しい笑顔を覗かせる稲豊の頭上で、ネロは「はっ」とニヒルに口端を持ち上げる。
――――そして、
「僕が協力するんだ。大船に乗った気持ちでいるといい」
頼もしい言葉と共に、右手をそっと稲豊へ差し出した。




