第141話 「最悪の犯罪者」
またしても部屋で独りとなった稲豊は、来客たちの表情を思い出していた。
「……美味そうに食ってたな」
貴族らの顔を見れば、今宵の晩餐会の成功は想像に難くない。
ネロに一歩どころか数歩先を進まれ、稲豊の胸のざわつきは酷くなる一方だ。
それなのに、二日後には自分の出番がまわってくる。状況は最悪と言っても過言ではなかった。
稲豊が頭を抱えたそのとき、部屋の扉がノックされる。
「夕食をお持ちいたしました」
「あ、ああスンマセン。ありがとうございます」
訪問者は城に仕えるメイド。
彼女はネロが作った食事を机に置くと、恭しく頭を下げて部屋を出ていった。
「そういやライトが言ってたっけ、料覧会のメニューは城の皆に振る舞われるって。ああくそ、やっぱネロの作る料理は普通に美味いな。ますます勝てる気がしねぇ……」
見た目だけでなく味も良い料理を前にし、稲豊の自信は完全に砕けて散った。
スプーンを盆の上に置いた稲豊は、料理から逃げるように自室の扉を開ける。
『どこに向かうつもりだ?』
自問が胸の内に木霊するが、どこからも答えは返ってこない。
途方に暮れ、意味もなく城内を彷徨った稲豊は、気が付けば“ある部屋”の前で足を止めていた。
「…………ここは……」
稲豊の眼前には、豪華な装飾の扉があった。
そこは彼がもっとも頼りにし、そして会話を交わしたい少女の部屋の前。
――――ルートミリアの部屋の前である。
「女を振り向かせたかったら、ガンガン攻めるのが成就のコツ……か」
バーバラのアドバイスを口にし、勇気を奮い立たせる稲豊。
たった一秒でも良いからルートミリアの顔が見たい。
たった一回で良いから彼女と言葉を交わしたい。
そんな想いに突き動かされ、稲豊は縋るように部屋の扉をノックした。
どんな会話をしようかなんて考えちゃいない。ただルートミリアの顔を一目見て、どうにか心を落ち着ければ、稲豊はそれで良かった。
「も、もしかして食事中だったかな?」
微かな不安が脳裏をよぎるが、もう後に引ける段階ではない。
稲豊は謝罪も視野に入れ、静かにそのときを待つ。
すると部屋の扉がゆっくりと開き――――
「むっ? イナホ殿。どうなされましたかな?」
執事のアドバーンが顔を出した。
拍子抜けした稲豊の左肩は、ガクッと落ちる。
「……ルト様います?」
「お嬢様は今しがたナナ殿と一緒に大浴場の方へ。御用なら私めが承りますが?」
「いえ……大した事じゃないんで……。それじゃあ失礼します」
「承知いたしました。それではイナホ殿、おやすみなさいませ」
不思議な顔を浮かべるアドバーンを背に、稲豊は肩を落としながら廊下を戻る。
運にも見放された思いだったが、このまま部屋に帰るのも情けない。階段まで戻った稲豊の足は、自然と上階へ向かい進み始めていた。
そしてたどり着いたのは、お気に入りの場所となった見晴台。
石壁の狭間に腰を下ろした稲豊は、街へ戻る貴族の列を見下ろしたあとで、浮かんだばかりの蒼月へと視線を這わした。
「…………前はもっと綺麗だったんだけどな」
美しい月を眺めているというのに、胸に込み上がるのは物寂しさ。
屋敷にいるときは輝いて見えた月も、となりにルートミリアがいないと陰って見える。稲豊は変わってしまった現状に辟易し、物憂げな眼差しを地へと落とした。
するとそのとき――――
「らしくない顔をしとるねぇ。どないしたん?」
背後から声を掛けられ、稲豊は反射的に振り返る。
見晴台の扉の前にいたのは、微笑みを浮かべたマリアンヌ。
胸を強調する赤いネグリジェを着た彼女は、「よいしょ」と稲豊のとなりに腰を下ろした。
「まぁ、大体は察しついとるけどね」
「いやいや。俺はそんなに分かりやすい男じゃねぇぞ? 複雑な男心というモノがあってだな――」
「料覧会が不安なうえ、ルトとも上手くいってないんやろ? 三階の廊下で口論しとったし」
「見てたのかよっ!? このストーカー!!」
激しくツッコミを入れたところで、稲豊は疲労を感じ項垂れる。
全てを見られているのなら、取り繕いに意味などないのだ。
「お前の言う通りだよ。仕事も人間関係も上手くいかず、この場所で独り黄昏れてたんだ。うだつの上がらないサラリーマンよろしくな……」
「サラ? なんかよく分からへんけど、頑張ってな~」
「ちぇっ、他人事だなあ……」
「他人事やも~ん」
王座争いをいち早く辞退したマリアンヌは、マイペースな通常運転。
両足を交互に遊ばせ、その表情も穏やかなものとなっている。その余裕が羨ましい稲豊は、ちょっとした意趣返しを思いつき、悪戯な笑みを浮かべた。
「お前ばっかり秘密を握ってるのはフェアじゃない。そこで俺は、俺にもお前の秘密を知る権利があると主張したい!」
「あちゃ~藪蛇やったかも……。でもハニーに興味を持たれるんは悪い気せぇへんな。ウチのなにが知りたいん?」
“しまった”という顔をするマリアンヌだが、逃げる素振りはまったく見せない。
この機を絶好のチャンスだと思った稲豊は、聞きづらかった“あの質問”をぶつける覚悟を決めた。
「……なんでお前は王の座を目指さないんだ?」
「あれ? ウチはそういうの興味ない――って前に言わんかったっけ?」
「それは知ってる。俺が知りたいのは、“なんで興味がないのか”だ。……姉妹のほとんどが魔王に託された『食糧改革』を頑張ってるなか、お前はまったくやる気を見せちゃいない」
真剣に訊ねる稲豊に感化され、マリアンヌの顔も自然と真面目なものへと変わる。空気の冷え込みを感じとった稲豊は、弁解の意味で「違う違う」と首を振った。
「えっと誤解しないで欲しいんだけど、それが悪いって言ってる訳じゃあないんだ。勝手に王女なんて立場にされて、勝手に食糧改革なんて大層な夢を押し付けられてんだ。そりゃあ断る権利は誰にだってあると思う。ただ俺は、断った理由が気になってだな……」
「ふむふむ、なるほど。ハニーの口振りから察するに、ウチに関する“噂”でも聞いたんやない? ど? 図星やろ?」
「うぐっ!! な、なぜ分かった!?」
「ウチがどれだけハニーの事を見とると思っとるん? 両親を除けば、誰よりも理解しとるつもりやで?」
完全に図星を突かれ、稲豊は狼狽してしまう。
それは“肯定”の意味でしかなく、いまさら隠し通せるような状況ではなかった。
「ああそうだよっ! お前がその……冷遇されてるって噂を小耳に挟んでだな。なんとなく気になったっていうか……」
稲豊はうなじを触りながら、気恥ずかしそうに白状する。
するとマリアンヌは、喜びを顔いっぱいに浮かべて口を開いた。
「自分が大変な状況なのに、私を心配してくれるの? 嬉しいっ!」
「わっ! お、落ちる!? こんな場所で抱きつくんじゃねぇ!」
素の喋り方に戻ったマリアンヌに抱きつかれ、慌ててバランスを保つ稲豊。
あと少し勢いがあったなら、城壁の下へ真っ逆さまである。稲豊の肝は、気温と関係ない冷え込みを見せた。
「あはは、ごめんね? でも本当に嬉しくて。私の事を心配してくれる人、あんまりいないから」
表情は微笑んでいるのに、マリアンヌは泣いているようにも見える。
稲豊は話し方が戻ったことを茶化すことなく、彼女の次の言葉を待った。
「シモン君は、“五行結界”って聞いたことあるよね?」
「五行結界? たしか最近…………ああ、所信表明の時にアリステラが言ってたやつだ。なんかエデンとの間に強力な結界を作るとかなんとか」
「その通り。五行結界っていうのは、結界の中でも最上位の強固な結界――っていう認識で良いわ。魔王という絶対君主がいなくなったにも関わらず、いまだ侵略されていないのは五行結界のおかげなの。まあ、正確にはちょっと違うけどね」
そこまで話したマリアンヌの瞳に影が落ちるのを、稲豊は見逃さなかった。
だが、心配という形で関わった以上、ここで引く選択肢など存在しない。そして何より、稲豊は彼女の扱いの理由を知りたかった。
「近年。永きに渡るエデンとの戦争で、お父様は次第に衰えていく自身を危惧していたわ。そしてそれは、魔王城にいる臣下達も同じ。このままでは万が一にお父様が倒された場合、魔王国は瞬く間に侵略されてしまう。『それではダメだ』と議題に持ち上がったのが、禁忌とされた五行結界だった」
「…………禁忌?」
「……そう、五行結界は禁断の術。なぜならその発動には――――“生贄”が必要だったから」
物騒な単語が聞こえ、稲豊は思わず息を呑んだ。
ファンタジーではお決まりの要素だが、言葉にして聞くとまるで現実感が違う。不穏が蜘蛛となって背後に迫ったような、不気味な予感を稲豊は覚えた。
「生贄には術者、つまりはお父様との……“絆を結んだ五名”が必要だった」
「絆を結ぶって……魔王の友達でも使おうってのか?」
「ううん。もっと深い絆の『愛』を持つ者。お父様と契りを結んだ五名の女の魂…………“妻”の魂が発動条件のひとつだったの。五つの場所に五つの魔石と五つの魂を用意することで、五行結界の発動条件は整う。あとはお父様が魔法陣に魔素を送り込むだけで、強固な結界の完成……ってわけ」
「五名の妻って……それって……!?」
稲豊はそれ以上を口にはできなかった。
少年には、ずっと疑問に思っていたことがある。
心の中で引っ掛かっていたにも関わらず、“デリケート”な問題だからと訊くのを避けていた疑問だ。
それは――――
『なぜ王女達の母親がどこにもいないのか?』
という疑問である。
ルートミリアの母が亡くなったことは知っていた稲豊だが、他の姉妹に関しては話題にすら上がらない。気になるも訊ねられず、現在まで生活をしてきたのだ。その答えがこのタイミングで明らかになったことに、稲豊は当惑した思いを隠せなかった。
「で、でも……ルト様の母親は屋敷で息を引き取ったはずだ! たしかナナの話じゃ、ベッドの上で……」
「――――そう。五行結界をずっと嫌っていたお父様が、発動を決意したのが二年前のそのとき。ルトの母親が死んでしまったのが切っ掛けだったの。心臓が鼓動を止めたら、四秒で魂が肉体を離れる話は知ってるよね?」
「あ、ああ……ルト様の授業で聞いた。四秒で魂は肉体を離れるから、治癒魔法も修復魔法も意味がないって」
「でもそれは厳密にはちょっと違う。確かに魂は身体から離れて蘇生は不可能になるけど、魂は完全に肉体を離れる訳ではないの。一日の間、まるで今まで過ごしてきた肉体を惜しむかのように、その周囲を巡るのよ」
「つまり……死んでから一日が経過してしまったら、五行結界は発動できない?」
その質問に、マリアンヌは頷きで答える。
稲豊は当時の皆の苦悩を想像し、強く奥歯を噛んだ。だが悔しい思いと同時に、“ある疑問”が稲豊の頭に浮かび上がる。
「……ちょっと待て、五行結界が発動したのなら、なんで“魔王国は今も危機に瀕している”んだ? だっておかしいだろ? 結界が完成してるのに、エデンが攻めて来られるわけない!」
「完成したのなら……ね」
目を伏せたマリアンヌを見て、稲豊の表情はひどく歪んだ。
愛した妻の魂を捧げ、その子供たちに寂しい思いをさせたにも関わらず、一世一代の禁術は――――
「失敗した…………のか?」
再びの頷きを見せるマリアンヌ。
稲豊はあまりに理不尽な現実に、やりきれない思いでいっぱいになった。
「今は大臣のシフさんだけだけど、昔はその上に宰相を名乗る男がいたの。アドバーンが右腕なら、男は魔王の左腕と呼ばれていたわ。その男の手によって、五行結界は完成に至らなかった」
「…………宰相」
「男の名は――『キルフォ・ルヴィアース』。私の伯父で、私の母を殺めエデンに亡命した…………最悪の犯罪者よ」
稲豊は今度こそ、完全に言葉を失った。




