第134話 「同じでも違う・・・・・・いややっぱり同じ」
稲豊が魔王城を訪れた最初の夜。
獣たちさえ寝静まる深夜に、瞳を爛々と輝かせる男がいた。
「ね……眠れない…………」
ベッドの上で何度も寝返りを打っているのは、志門稲豊その人である。
デートの声掛けが失敗したというもどかしさと、枕が変わったということもあり、彼は眠れない夜を過ごしていた。
瞳を閉じれば申し訳なさそうなルートミリアの顔が浮かび、さらなる自己嫌悪が稲豊を襲う。居てもたってもいられなくなった稲豊は、ついにベッドから身を起こした。
「今夜の月明かりは目に沁みるぜ……」
窓ガラス越しに淡い月影を浴びる稲豊だが、すでに蒼月は高く上り、部屋からは確認できなくなっていた。仕方なく窓際から離れたものの、冴えてしまった目はどうにもならない。薄暗い城を散策する訳にもいかず、椅子に腰掛けた稲豊は、ただぼんやりと天井を眺めるしかなかった。
そのとき、
「――――ん?」
時間を持て余した稲豊の耳に、扉からの隙間風が何かの物音を運んできた。
それは小物が床に落ちたような、小さな物音だ。
「……どこからだ?」
誰かが部屋を訪ねた音かと思った稲豊は、そっと扉を開けて廊下を覗いてみた。どれだけ目を凝らしても、何者かの姿はおろか影さえ見えない。
「あまりのショックで幻聴でも聞こえたのか?」
首を傾げた稲豊は、静かに自室の扉を閉める。
そして今度はベッドの上へ大の字に倒れ、天井を仰いだ。『無理矢理にでも寝てしまおう』と睡眠を強行した稲豊だが、
――――コンコン。
と、再び物音が耳へ飛び込んできた。
その物音に誰かの意思を感じ取った稲豊は、即座に体を起こして周囲を見渡す。やはり人影も魔物影も捉えることは叶わなかったが、今回は前回とは違う。二度目ともあって、稲豊は“方向”という収穫を得ていた。
「もしかして窓か?」
物音の正体を求め、先ほどの窓際に近付く稲豊。
そして迷いなく窓を開くと、夜の闇へと視線を走らせた。
――――すると、
「やあっ!」
「うおぅっ!!??」
稲豊の目の前に小さな顔が現れる。
星空を背に悪戯な笑みを浮かべるのは、黒マントに身を包んだ第六王女のウルサだ。彼女は窓の縁に両手をかけると、軽い身のこなしで室内へと進入する。そして腰を抜かした稲豊の前へ立つと、
「こんばんは。お邪魔するね?」
そう言って右手を差し出し、今度は年相応に可愛らしく微笑んだ。
「…………次からは……邪魔する前にその台詞を言ってくれ」
「アハハ。ごめんなさ~い」
差し出された手を掴み立ち上がった稲豊は、鼓動を落ち着かせながら愚痴をこぼした。ウルサは小さな舌を覗かせるが、愉しげな表情からは反省の色は窺えない。稲豊は軽くため息を吐く。
「それにしても、よく入ってこれたな……」
窓の外を確認するが、稲豊の部屋近くの城壁には足をかける場所などない。
二階とはいえ、稲豊の部屋は地上から十メートルは離れた高所にあり、ロープや鉤縄が使用されている形跡もなかった。ならばどのような手段で部屋へ進入したのか? 稲豊が初めに疑ったのは、魔法の存在である。
しかし表情から思考を読んだウルサは、
「違う違う。魔法は使ってないよ?」
と訊ねられる前に両手を振って否定した。
そして答えを明かすでもなく、羽織っていたマントを脱ぎ始める。
「今のウルは本体……の方だよな?」
「あれ? よく判ったね。“増殖”は魔素を結構食うからね、基本的には本体だから安心していいよ」
「むしろ不安だ。年上として、少女の夜遊びは感心できないな」
外見年齢から何となく本体を当てた稲豊だが、それでもウルサは若く見える。
親心のようなものを感じた稲豊は、口をへの字にし注意喚起を促した。
「心配してくれたんだ? 何だか嬉しいな……。実はここに来たのは驚かす為なんかじゃなくて、昼にシモン君に会った時に忘れてた事があってさ」
「……忘れてた事?」
「うん。えっと、はいコレ」
ウルサが腰に下げていた袋から取り出したのは、二つの透明な容器だった。
「路地裏で拾った分と、君の友達のパイロ君に預けられた分。返すのが遅くなってごめんなさい。多忙な日々で顔が出せなくて」
「俺のタッパーか。別に返すのはいつでも良かったのに……。んでもありがとな? 給仕長におか……襲われそうになった時と合わせて礼を言うよ」
受け取った二つのタッパーを鏡台の上へ置く稲豊。
その様子を静かに眺めていたウルサは、左手でうなじを触りばつの悪そうな顔を浮かべて言った。
「感謝されたら……ちょっと罪悪感が刺激されちゃうなぁ。だって今からする事は、シモン君にとって不本意なものだろうからね」
「うん? 不本意?」
頭上に疑問符を掲げる稲豊に、ウルサはゆっくりと近付く。
そして「ごめんね?」と小さな舌を覗かせた――――次の瞬間。
「……ッッ!!!!????」
爆竹が一度爆ぜるような音が聞こえ、稲豊の体を電撃が通り抜ける。
立つこともままならなくなった稲豊は重力に引っ張られ、ベッド上へ仰向けに倒れ込んだ。
「は……はにを……!?」
何が起きたのか訳が分からない稲豊は、何とか状況を理解しようと、痺れて上手く回らない舌で問いかける。そんな少年の様子を見て、ウルサは八重歯を覗かせ笑った。
「雷魔法の応用で体を痺れさせたのさ。これに凝りたら、次からはもっと警戒する事をお薦めするよ。と言っても、もう手遅れかも知れないけどね?」
「ほれを……ほうするひだ……?」
「俺をどうするつもりなのかって? 大丈夫。命を奪う気は無いから安心して良いよ。ただちょっと、君の体を弄ぶだけだから」
跨ぐように稲豊の腰の上へ乗ったウルサは、タッパーを入れてきた袋の中へ再び手を突っ込んだ。数秒後に彼女が取り出したのは、稲豊が初めて見る怪しげな道具と、これまた怪しげな液体が入ったガラス瓶。
「は、はにほれ!?」
「これはシモン君を極楽へと誘う特別な道具と薬だよ。ボクの自信作なんだ」
ナマコに酷似した道具はくねくねと動き、ピンク色の液体は泡立っていた。
明らかに危険な香りがするそれらを見て、稲豊の背中を悪寒が走る。人の怯えた表情さえ、サディストのウルサにとっては馳走でしかない。ウルサはさらに上機嫌となった。
「じゃあここで核心を突いた問題を出してあげる。バーバラってさ? 古株って事もあって、基本的に誰の指図も受けないんだよ。そんな彼女が、どうしてボクの言葉に従ったと思う?」
王女だから――――初めにそう考えた稲豊だが、ウルサの口振りからは違う理由があることが窺い知れる。しかし別の理由が存在したとして、稲豊がそれに気付くのは不可能に近い。会ったばかりの相手のことなど、知る由もないからだ。
「ブー! 時間切れ~。正解はね? ボクが彼女と“同族”であるからさ」
「ろ、ろうぞくってことは…………まはか……!?」
驚愕に目を見開く稲豊の前で、“ソレ”は起きた。
ニヤリと笑ったウルサの背中から、蝙蝠を連想させる大きな黒い両翼が出現したのだ。しかも少女に起きた変化はそれだけではなく、臀部からは黒く細長い尾までが伸びている。
稲豊はその尾に見覚えがあった。
「バーバラはんが……付けてた……やつ……」
「ボクと彼女は淫魔だからね。これでどうやってボクがこの部屋に来たか判ったでしょ? なら、これから何が起きるのかも理解できるよね?」
少女とは思えないほど妖艶な顔をするウルサを見れば、このあとに何が起きるのか想像に難くない。ウルサは淫魔族の能力を使い、稲豊を懐柔させるつもりなのだ。
「ボクは欲しい物はどんな手を使っても手に入れる主義だ。だからシモン君もボクの物にする。この体に夜を通して快楽を与え続け、ボクの事しか考えられないようにしてあげるからね?」
「な……なん……らって……!?」
絶体絶命の稲豊の脳裏に浮かんだのは、親しくしてくれた者たちの姿。
そして、バルコニーでしたルートミリアとの誓いである。
『みんなの事を考えられなくなる?』
それは絶望以外の何者でもない。
顔を歪め全身に力を込める稲豊だが、体を束縛する痺れはまだまだ取れる気配がない。絞り出す声も小さなもので、助けを呼べるほどの代物ではなかった。
「ここまでするのは初めてだけど、心配しないで? 最高の快楽を約束するからさ……」
「ひ……ひゃめ……!」
鼻息を荒くするウルサはガラス瓶のコルクを外し、ゆっくりと稲豊の口元へ近付ける。それを口にしてしまえば全てが終わると分かっていても、稲豊には何もできない。せめてもと首を反らすが、拙い抵抗に意味などなかった。
「さあ――――君の全部をボクにちょうだい?」
ウルサに首を固定された稲豊の口内へ、謎の液体が流し込まれる。
――――――寸前に、事態は一変した。
「なにしてんッ!!!!」
「あたっ!?」
怒号と共に飛んできたゲンコツが、ウルサの頭を直撃したのだ。
予想していなかった激痛に、堪らず壁際へ非難するウルサ。頭を擦る彼女の目尻には、大粒の涙が浮かんでいる。
そんなウルサの潤んだ瞳に映っているのは、いまだ拳をグーにしているマリアンヌである。
「ど、どうしてマリー姉さんがここに……!?」
「虫の知らせってやつやろうな。ウチのアンテナにこう……ビビっ! とハニーの救難信号が飛んで来たんや。あんたがウチの婚約者にちょっかいを出してるとは思わんかったけどな」
「……えっ? 婚約者? そ、そうだったの!? 知らなかったんだごめんなさい!」
目を丸くするウルサは、たじろぎながら許しを懇願する。
しかし距離を詰めるマリアンヌのゲンコツは、いつ飛んできてもおかしくない状況だ。やがて背中が壁にぶつかり部屋の中に逃げ場がなくなったウルサは、
「ごめんなさい~!!」
謝りながら窓の外へ飛び出した。
翼を広げて逃亡したウルサの姿は、瞬く間に夜の闇が隠してしまう。
「…………ハァ……助かった……」
かくして、異世界で何度目かの難を乗り切った稲豊は、舌の痺れが解けていくのを感じつつ安堵の吐息を漏らした。
「ハニー大丈夫? ごめんね、助けに来るのが遅れて……」
「体は痺れてるけど、それだけで済んだのはお前のおかげだよ。表彰もんの偉業だ」
「ウルは末っ子だけあって、昔から我慢のきかん子やからな。したたかさで言えば姉妹の中では一番かも……。ほんまウチが偶々この部屋を通りがかって良かったわ!」
得意げに胸を張るマリアンヌだが、稲豊はその様子を見て小さく吹き出した。
「偶々で部屋を通りがかる状況ってなんだよ。おおかた、また俺のベッドに潜り込むつもりだったんだろ?」
「そ、そんな事あらへんもん~。ぐ、偶然この辺に怪しい気配を感じただけやもん」
「まあ今回はそのおかげで助かった訳だから、敢えて追求したりはしないよ。今ここに居るのがお前で、ホッとしてるのは事実だからさ」
何をしでかすか分からないウルサよりも、密着して来るだけのマリアンヌの方が良いに決まっている。稲豊は優しい笑みをマリアンヌへと向けた。
「え、えへへ。じゃあ……今晩はもっと一緒に居ても良い?」
「またウルサが戻って来ても困るしな。俺も体が痺れて動けねぇし、不可抗力ってやつだ」
「やった!」
満面の笑みを浮かべたマリアンヌは、いそいそとベッドの中へと潜り込む。
そして幸せそうに稲豊の腕を枕にした彼女は、その夜は一睡もすることなく稲豊を守り続けた。もちろん、かなり密着してでの護衛だったのは、言うまでもない。




