第127話 「後で読んでみるか」
「まさか、ここまで兵数に差があったとは……」
これからしばらく厄介になる部屋へ案内された稲豊は、ライトが部屋を去ったあとで、簡素なベッドのうえへ大の字に体を投げだした。いまの彼が気になるのは、質素な部屋よりも謁見の間での話である。
「敵五千に対し、こっちは百未満。無理ゲーにも程があるだろ。しかもだ――」
五千というのはアキサタナ軍“だけ”での話で、エデン軍の総数ともなれば桁がさらに増えるのだ。稲豊はモンペルガを包囲する数万の兵を想像し、辟易とした表情を浮かべる。勝ち目など到底あるようには感じられなかった。
「ん? じゃあなんで全軍で攻めてこないんだろ? そうすりゃ魔王軍はひとたまりもないのにな」
ふと思いついた疑問を口にするが、いくら考えても答えは分からない。
稲豊は考えることを止めた。
「あーあ、今頃ルト様たちは作戦会議でもしてるんだろうな。蚊帳の外で寂しいって訳じゃないけど、時間が無いのに時間を持て余してるのって落ち着かねぇ……」
王女や護衛は、上階の作戦室で会議の真っ只中。
今後の方針について話し合っている。
例外として参加しているアドバーンを除き、他の使用人たちは思い思いに待ち時間を消化していた。
「やめだやめだ! こんな場所でじっとしてたら鮮度が落ちちまう。せっかく男のロマンである城に来たんだ、ここは男の子らしく探検――もとい冒険でもしてやるぜ!」
勢い良くベッドから飛び降りた稲豊は、力いっぱいにドアノブを内へ引っ張り、意気揚々と廊下へ歩み出た。石畳の廊下の右へ左へ視線を走らせた稲豊は、どちらへ向かおうか少しだけ悩んだのち、なんとなく右へ一歩踏み出した。
するとそのとき、
「あ、あの」
「――――うん?」
どこからか幼さの残る声が耳に届く。
稲豊は既視感を覚えながら、これまたなんとなく天井を見上げた。
「キャアアア!!??」
少女のような悲鳴を上げた稲豊の視線のさきには、糸で宙吊りになったナナの姿。ナナは申し訳無さそうな表情で床に下りると、
「ごめんなさいですイナホ様。普通に登場したんじゃ芸がないかと思いまして――」
「いいんだよそんな芸人精神を発揮しなくても! 不気味な城でそんな事してたら、勇者一行に斬られても文句は言えないんだぞ!」
「覚悟の上です!」
「登場の仕方に命を懸けるんじゃない!!」
年上として、恥ずかしい姿を少女に見せるのは気が引ける。
嫌な弾み方をする心臓を静めながら、稲豊は腰が抜けなかったことに安堵していた。直後に少女のような悲鳴を上げたことを思い出すのだが、それはまた別のお話。
「それで、ここに居るって事は俺に用事? たしかナナは西側の部屋だったよな?」
「はい。なんというか……落ち着かなくて。イナホ様をおさそいして、お城の中を見てまわりたいなぁ。な、なんて思ったり思わなかったり……思ったり」
両腕を絡ませ、もじもじとした仕草で語るナナの頬はほんのりと赤みがかっている。それが少女の精一杯のデートの誘いだと分かった稲豊は、胸が暖かくなるのを感じていた。
『どこに住むかが問題じゃない。誰と住むかが一番大切なんだな』
寂しいとき、手持ち無沙汰なとき、互いに埋め合える仲間がいる。
稲豊は少女の存在に心強さを覚え、自然と表情を綻ばせた。
「戦争前だからって、暗い顔ばかりしててもしょうがないよな。よっしゃ! ナナも冒険しようぜ!」
心のエネルギーを補充した稲豊は、童心を思い出しつつ右手を少女へ差し出した。その手が何を意味しているのか察したナナは、顔の赤みをさらに強くする。
「は、はい! よ、よろしくお願いしまひゅ!」
言葉を噛みながら、ナナは差し出された右手をおずおずとだがしっかりと握り込む。冷たい風が差し込む魔王城の廊下だったが、手を握りあった少年と少女の心は、温もりに満ち溢れていた。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::
稲豊とナナがまず向かったのは見晴台。
城下を一望できる高所は、あいにくの曇天にも関わらず、ふたりに少なくない感動を与えた。
「すごいですねぇイナホ様!」
「確かにこりゃ壮観だな。見張りの兵士さえいないのは気になるけど……」
眼下には三つの層からなる住民街が広がりを見せ、それぞれが毛色の違う生活の息吹を醸し出している。賑わいを見せる市場に、昼の茶会を楽しむ貴族たち。稲豊は改めて、この世界が自分にとっての現実であることを実感した。
「あそこのお店おぼえてますか?」
「もちのろんよ。俺とナナで初めて入った料理屋だろ? 食べ歩きが趣味の俺でも、あの時ほど色んな店を巡った事はなかったよ。おかげで腹がポンポコになったけどな」
「ナナもあんなにお腹がくるしくなったのは初めてでした! でもでも、すごく楽しかったです!」
「それは俺も同感。じゃあ世界が平和になったら、エデンでも食べ歩きしてみるか?」
稲豊の提案にパァと顔を明るくさせたナナは、「ぜひ!!」と全力の頷きを見せる。ふたりはその後しばらく城下町の情景を堪能し、体が冷えてきたところで城内へと戻った。次に彼らが目指したのは、城一階にある書庫である。
数万という本の群に囲まれたふたりは、感嘆の息を漏らしながら、瞳を右へ左へと忙しなく動かした。
「お屋敷よりもたくさんの本がありますね!」
「この世界には印刷機とかないから、これ全部が手書きって訳か。書くのも読むのも途方もない量だな。どれどれ、どんな本があるのかな? っと」
右手すぐにある本棚に目を付けた稲豊は、並べられている本の題名へと視線を走らせた。
「えっと『女を落とす百の方法』に『女性が喜ぶ贈り物の選び方』。『異種族との☓☓☓』に『子育てのいろは』…………なんだこりゃ?」
「スラスラと読めてすごいですイナホ様! ナナはぜんぜん読めません……」
「まぐれだよまぐれ。現に隣の本棚は全く読めねぇもん」
書庫で適当に時間を潰した彼らは、「厨房が見たい」という稲豊の提案で、一階南西にある炊事場を目指した。道中にある様々な珍品で盛り上がりながら、ふたりは城の厨房へと足を踏み入れる。
そこで二人を待っていたのは、食器乾燥機を運び入れるネロの姿だった。
「ん? なんだ君達か。早々に厨房の下見にくるとは、なかなか殊勝な態度じゃあないか」
「殊勝ってほどじゃねぇよ。城の厨房がどんなモンなのか? っていうただの興味本位」
「興味が湧くだけまだマシだ。あの爬虫類人間に至っては、作戦会議と厨房よりも浴場の方に興味があるらしい……」
「ま、まあ……あいつは特別だから……」
稲豊は湯船につかるタルタルを想像し、苦笑いを浮かべた。
「……それにしても、なんというか“ざっとした”厨房だな」
そんな感想を漏らした稲豊の視線のさきには、洗わずに積み上げられた食器に、手入れの行き届いていない調理器具たち。屋敷の何倍も広い床には食材のゴミが目立ち、壁は飛び散った油で茶色に染まっている。お世辞にも衛生状態が良いと呼べる厨房ではなかった。
「ヒドイですねこれは。お城のコックさんって“ふけつ”なんでしょうか?」
稲豊の背に隠れていたナナですら、歯に衣着せぬ物言いである。
しかし、それに反証を唱えるものはこの場にいなかった。
「我々も使用する場所だからな。清潔を保って欲しいものだ」
「へ? “我々”って?」
疑問符を掲げた稲豊の質問に、ネロの表情は呆れたものへと変わる。
そして大きくため息を吐いてから、青年は「やれやれ」といった様子で口を開いた。
「はっ……、誰が主人の料理を用意すると思っているんだ君は? これからは、ここで作った料理を主人や家人に振る舞うのさ。他の料理人と同時に作る場合もあれば、時間をずらして作る事もあるって訳だ」
「なるほど。一気に暇になるのかとも思ったけど、やる事は今までと一緒っぽいな。ちょっと安心したよ。と、じゃあ他の使用人達はどうなるんだ?」
「留守になった屋敷を任される場合もあれば、身の回りの世話を継続させる場合もある。ま、主人によってまちまちといったところだ。アドバーン様のような“戦える使用人”は、戦闘要員として戦に駆り立てられる可能性も否定はできないな」
アドバーンが戦争に出る。
その言葉を聞いた稲豊の胸は、少なからずのざわつきを覚えた。
老執事の強さはもちろん承知している。
しかしこの戦争、敵の戦力は文字通り桁が違う。
どんな結果が起きるのか、誰にも分からないのだ。今まで自分を支えてくれた老執事の無事を、稲豊は心から願った。
そんな少年の不安など露知らず、ネロはマイペースに食器乾燥機の設置を進める。
「ま、非力なコックには無縁の話さ。僕達の戦場は厨房で、武器は包丁、盾は鍋のフタだ。出陣する主らの為に、より魔素が増える料理を作ること――――それが僕らの戦いだよ」
「……お前って、マジで料理に関しては真摯だよな。そこだけは尊敬するぜ」
「褒め言葉として受け取っておくよ。しかしだからこそ、錆びついた包丁や鍋を見るのは心苦しいものがある。きっとここの料理長とやらは、大雑把で不潔で料理人としての矜持すらないボンクラだな!」
かんらかんらと笑うネロだが、稲豊とナナの表情は違っていた。
目を一回り大きく開き、頬には一滴の汗が伝っている。口はバツが悪そうに開いては閉じ、眉はきつく寄せられていた。
「ん? どうした急に静かだな?」
おかしな様子に気付いたネロが疑問を投げかけるが、返事は戻ってこない。
しかしネロはすぐに、ふたりの視線が自分を通り超えていることに気が付いた。「まさか」と後ろを振り返った彼が見たものは――――
「…………誰がボンクラだって?」
こめかみに青筋を浮かべる、一匹の魔物の姿だった。




